第4話「竜の逆鱗」

 平凡な日々が過ぎていき、真莉愛さんが家を訪れてから早六日が経った。


「――あっ、お兄ちゃん……!」


 化学室から教室に戻っていると、ちょうど曲がり角から出てきた雛がテテテッと駆け寄ってくる。


「移動教室か?」

「うん、音楽なんだぁ。お兄ちゃんは、次はなんの授業なの?」

「教科担当の先生が休みってことで、体育になった」

「あ~……」


 体育と聞くなり、雛は遠い目をしてしまう。

 この子、運動が大の苦手だからな。

 自分じゃないのに、体育の授業って聞くだけで憂鬱になるんだろう。


「移動教室の後に体育って、大変だね?」

「着替える時間がなぁ。まぁ、仕方ないし、前の授業が早めに終わってくれたからいいけど。それよりも、風麗ふれいたちとは一緒に行かなくていいのか?」


 てっきり、雛の話を聞くなり風麗は雛を学校で離さないと思っていたが、雛の周りに女子はいない。

 それが気になったので聞いてみたのだけど、雛は申し訳なさそうに口を開いた。


「その……他の子たちの目が怖くて、移動教室は先に一人で行ってるの……」


 なるほど、道理で……。


 雛はとてもかわいくて優しく、他人想いなおかげか、昔から周りに好かれる日々を送っていた。

 そのせいで悪意を持った視線には慣れておらず、耐えられないのだろう。

 こればかりは仕方がない。


 雛をかわいがっているつもりでいる風麗からしたら、自分の近くから離れる行為は面白くないだろうが、ああ見えて意外と翠玉えめらよりは他人の気持ちが理解できるタイプだ。

 雛の気持ちもわかっているだろうし、これだけで目くじらを立てることはしない……と思う。


「それで急いで教室から出てきたから、音楽なのに数学の教科書を持って行っているわけか」


 雛が胸元で抱えている筆箱や教科書に視線を向けた俺は、苦笑しながら指摘をする。

 それにより、雛はキョトンとした表情で小首を傾げた後、自身の手元を見つめて『あっ……!』と大きな声を出した。


「間違えちゃった……!」

「うん、だからそう言ってるんだよ」


 別の教科書を持ってきてしまったことで慌てている雛に対し、俺は再度苦笑をしてしまう。

 風麗はのんびりとしているので移動教室でもすぐに教室を出るようなことはしないが、雛は声を掛けられる前に即行で教室を出ているのだろう。

 俺たちは実験が早めに終わったことと、次の授業が体育ということでチャイムが鳴る前に授業が終わったが、普通ならここで鉢合わせをすることはなかった。


「ごめんね、お兄ちゃん! 教科書取りに戻らないと……!」

「あっ、こら、前をちゃんと見て――」


 そこまで言った時だった。

 慌てて引き返す雛の向こう――曲がり角から、金色の髪と、白色の髪が見えたのは。


「雛、待て……!」

「えっ――きゃぁ!!」


 雛を引き留めようと腕を伸ばす俺のほうを、雛が振り返った直後、雛は曲がり角から曲がってきた人物にぶつかってしまった。

 それも、よりにもよって、白髪しらがみのほうと。


「――っ」


 俺は体勢を崩した雛の体に手を伸ばし、床に転がる前になんとか抱き留める。


「あっ……ありがとう、お兄ちゃん……」

「あぁ……」


 ホッとしたように微笑みながらお礼を言ってきた雛に対し、俺は笑い返すことができなかった。

 それどころか、この場に現れた全員が、時が止まったように固まってしまっている。


「お兄ちゃん……? あっ――!」


 俺の視線が自分に向いていないことに気が付いた雛は、不思議そうに俺の目線の先を目で追う。

 そして、気が付いた。

 自分が、誰にぶつかってしまったのかを。


「いっぅ――」


 白色の髪の美少女――風麗は、スカートがめくれ、右手の手首を痛そうに左手で抑えながら、廊下に転がっていた。

 雛は慌てて体を起こすが、衝撃から言葉が出てこないようだった。

 見れば、顔から血の気が引いてしまっている。

 それは雛だけでなく、周りのお付きたちの顔からも血の気が引いていた。


 チラッと、風麗の傍にたたずむもう一人の美少女の顔を盗み見ると、翠玉は大きく目を見開きながら固まっている。

 こちらもあまりの衝撃的な事態に、脳の処理が追い付いていないようだ。


 これは、さすがにまずい……。


「悪い、天上院さん、大丈夫か……?」


 誰もが動こうとしない中、俺は左手を風麗に差し出す。

 さすがに、白い下着が丸見えの状態でいさせるのも申し訳がないし、何より怪我をさせたのなら、保健室に連れていかないといけない。


「あっ……ありが――」


 差し出した俺の左手を、意外にも風麗は素直に取ろうとする。

 しかし――。


「どきなさい!!」

「うぐっ……!」


 翠玉が、俺の脇腹に右足をぶち込んできた。


 なんて、いいキックなんだ……!


 と、言いたくなるくらいには、見事にクリティカルヒットした。


「風麗、大丈夫!? 右手が痛いの!?」


 横腹を抑える俺におかまいなしに、翠玉は風麗の心配をする。

 それに釣られて、お付きの女子たちも風麗に駆け寄り、体を支えて立たせていた。


「悪い、天上院さん。わざとじゃないんだ」


 風麗のことは心配になるが、今もっとも心配しないといけないのは雛のことだ。

 自分がしてしまったことを正しく認識しているせいで、謝罪の言葉すら出てこない妹の代わりに、俺は頭を深く下げる。


 ――だけど、これで話が通じるような相手であれば、誰も彼女のことを恐れないだろう。


「わざとでなければ、許されると思っているの?」


 まるで地獄から出てきたかのように、おぞましいほどの怒りを秘めた低い声。

 顔を上げると、普段から濁り切っている瞳から完全に光を失っている目で、俺のことを翠玉が見据えていた。


「お姉ちゃん、私は大丈夫だから……」

「そう、それはよかったわ。でも、念のため保健室に行きましょう。もし少しでもおかしければ、病院に連れて行くわ」


 風麗が右手首を抑えたまま翠玉に声をかけると、翠玉はニコッと風麗に笑いかけた。

 このまま、怒りを収めてくれればいいが――翠玉は風麗に笑いかけている間、自身の手を止めていなかった。


 彼女は、風麗に視線を向けたままゆっくりと筆箱のチャックを開け、そこからシャーペンを取り出した。


「ちょっ!? やめ――!」


 彼女が何をするつもりか分かった俺は、すぐに彼女を止めようとする。

 しかし、俺の制止の声よりも早く、シャーペンが翠玉の手から解き放たれた。


 飛んでいく先は――雛の、顔面だ。


「ひっ!?」


 突然飛んでくる凶器に、雛は身を固くして動きを止めてしまう。

 無理もない、こんなこと雛は想像できなかっただろうから。


「……っ!」


 俺は翠玉に伸ばしかけた右手を、即座に横へと払う。

 それにより、なんとかシャーペンを弾くことができた。


「おい、これは洒落にならないだろ……!? 目にでも当たったらどうするつもりなんだよ!?」

「知らないわよ。自業自得でしょ?」


 俺が怒鳴り声をあげるも、翠玉は正気しょうきじゃない瞳で目を細めるだけだった。


 脅しでも、ハッタリでもない。

 本気で、雛の目を潰しにかかっていた目だ。


「――おい、いったいなんの騒ぎだよ……!?」

「それが、愛真さんが天上院さんにぶつかったみたいでよ……!」

「まじかよ……」

「おいおい、あいつら死んだわ……」


 生徒たちが行きう廊下で揉めていたために、すぐに野次馬が集まってくる。


 最後の奴、冗談でも不吉なことを言わないでくれ――と言いたいところだが、冗談で済まなさそうなのが翠玉のやばいところだ。


 風麗に怪我をさせるなんて、翠玉の逆鱗に触れるようなものなのだから。


「お姉ちゃん……保健室、行きたい……」

「……そうね、行きましょう」


 俺と翠玉が睨み合っていると、風麗が左手で翠玉の服の袖を引っ張った。

 それにより、風麗を優先する翠玉だが――。


「せっかく、目を掛けてあげてたのに……愚かな妹ね……。そして、あなたも……」


 と、通りすがりに俺に耳打ちをしてきた。


 見れば、翠玉は俺ではなく、雛のことをゴミを見るように冷たい目で見据えていた。

 まず間違いなく、嫌がらせをするつもりだろう。


 ……いや、正確には彼女は何もしない。

 やるのは、周りのお付きたちだ。


「ご、ごめんなさい、風麗さん……!」


 雛がなんとかそう謝罪の言葉を絞り出すと、翠玉含め、周りの女子たちから悪意に満ちた目を向けられる。

 そのせいで雛はビクッと体を震わせるが、肝心の風麗は振り向くだけで、雛に視線を向けることはしなかった。


 ただ――何かを伝えるように、ジッと俺の目を見つめてきただけだ。


「……雛、今日はもう帰るんだ」

「お兄ちゃん……」

「俺が話を付けるまで、学校にも来なくていい。というか、来たら駄目だ」


 このまま雛を学校にいさせてしまったら、まず間違いなく酷い目に遭わされる。

 それがわかっている俺は、雛を帰らせることにしたのだった。


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