磯の香りに恋をする
くるぽな
いっとう綺麗なもの
その日、わたしは運命に出会った。なんてことない、ふつうの休日。ただ時間が流れるのを待って、特筆すべきこともない退屈な一日を終える。それを繰り返すだけだったわたしの目の前には、今まで歩んできた17年の人生の中で、いっとう綺麗なものがある。
暇なときはいつも、夕暮れ時に砂浜を散策するのがわたしの常。ここの海は毒を持つクラゲがよく出るという話があって、誰も寄り付かないから静寂に包まれている。ほんとうに、いつもと変わらない、ふつうの休日だったはずなのに。
今回の休日は、良い意味でいつもと違った。
波打ち際で、ただ座っているそれを見た。
艶のある濡羽色の頭髪は、潮風にあてられ靡いている。長い睫毛に覆われた目は、未だわたしを見ることはない。
そしてなによりわたしの目を引いたのは、彼女の下半身だった。本来、脚のあるべきところには、うつくしい鱗並みと魚の尾鰭がある。これが意味するもの……そう、たぶん、彼女は人魚だ。
この現代社会において、人魚というのは童話や伝承の中でしか存在しない種族だ。正直言ってありえない。でも、彼女の浮世離れした儚げな美しさと、つくりものとは思えないその下半身が、これは現実だと訴えかけている。
彼女のことを知りたい、声を聞きたい。わたしのことを知ってほしい、見てほしい。
きっと、これは恋だ。わたしの初恋。まさか自分の初恋が女の子で、人魚だなんて予想だにしなかったけど、これが恋じゃないならなんだと言うのだろうか。
「ねえ、そこの人魚さん」
彼女はわたしを見ない。どうして?わたしはあなたとお話したいのに!
「わたしとお話しましょ、あなたとお友達になりたいの」
こんなのうそよ、口から出まかせ。お友達?冗談じゃない。わたしは彼女に恋をしているの。一目惚れなのよ。お友達なんかで終わらせるもんですか。
やっと、彼女がわたしを見る。彼女の、まるで黒曜石のような瞳がわたしを見据える。ああ、なんて美しいの!驚いているのか、目をまあるくさせているみたい。
「わたし、エレネっていうの。あなたの名前は?」
「私はメーア。よろしくね、エレネ」
「まあ嬉しい!よろしく、メーア」
心地良い、鈴をころころと転がしたような声が耳に入る。表情は大きく変わるわけではないようだけど、ふわりと微笑むことでメーアの儚さが強調されている。
「メーアは人魚よね、わたし人魚は初めて見た!とっても素敵よ、メーア」
「ありがとうエレネ。きみは人間だよね、私も人間なんて初めて。人間なんて、物語の中だけの存在だと思ってたのに」
「あら、そうなの!」
嬉しい、嬉しい!わたしがメーアの初めてだなんて!今にも踊りだしてしまいそうなくらいだ。それにしても、人間の中で人魚が物語の中の存在であるように、人魚の中でも人間というのは物語の中の存在であるらしい。
でもたしかに、数多くある人魚の物語では、総じて人魚は人間の文化に疎い気がする。そういうものなのかしら。
「そうだよ。たぶん、多くの人魚は人間の存在のこと、信じてないよ」
「ふうん。きっと人間も、人魚の存在を信じてない。でもそんなのどうだっていいの!」
「どうして?」
どうして?へんなことを聞くのね。だって、だって………
「だって、あなたのことはわたしだけが知っていればいいじゃない!」
そう、わたしだけが知っていればいい。メーアのことは、他の誰にもあげない!
わたしの中の拙い独占欲が、メーアのすべてがほしいと叫んでいる。まだ恋人どころか、お友達になって数分といったところなのに、わたしってばメーアのことになると止まれないみたい。
「……うん、そうだね。逆に、きみのことも私だけが知ってればいい」
「え?」
思わず、声が漏れる。まさか、メーアがそんなこと言ってくれるだなんて思ってもみなかった。
会ったばかりでこんなこと思うなんて失礼だけど、他人に興味なさそうな、メーアが。
でも、そんなことどうだっていい。わたしにとっては万々歳なんだもの。
するりと、メーアの尾鰭がわたしの腰を抱き寄せる。
「ずっと、一緒にいようね、エレネ。私の友達。きみのことは、私が守ってあげる」
「ええ、約束。わたしもメーアのこと、頑張って守るから!」
ふたりで見つめあって、笑いあう。たぶん、共通してるところはほとんどない。そんなわたしたちだけど、わたし、メーアのことが好きだよ。
「ありがとう、エレネ。楽しかった」
「わたしも楽しかった。ありがとうメーア」
「つぎは、いつ会える?」
つぎ?つぎって、次?
メーアが、わたしとの「次」を求めてくれた。それが嬉しくてたまらなくて、思わず笑みがこぼれる。
「なに笑ってるの」
「ううん、なんでもない!つぎは……そうだな、明日!明日また、同じ時間に、ここで」
「そっか、また明日ね」
「うん、また明日」
明日はどんな話をしようかな。海の中へ帰っていくメーアを見ながら、わたしはそんなことを考えていた。
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