第2話 「目覚めの残響」②

 玄関を出ると、空気はまだ冷たかった。


東の空に淡い朱が滲み、風がビルの隙間をすり抜ける。


世界はまだ、夜の名残を引きずっていた。


一歩、アスファルトを踏む。


軋むような音が、眠りきれぬ街の皮膚を割る。


走り出すことに、ためらいはなかった。


靴底が路面を叩くたび、乾いた音が空虚に反響する。






 古川町商店街を抜ける。


シャッターの降りた店の列を、風が無音で抜けていく。


その隙間から、薄い光が漏れていた。


冷たい空気を胸に入れ、吐き出す。


呼吸と鼓動が、ただの機械音のように重なる。


それはもう、“生きている”という確かさではなかった。


ただ、止まらない身体の音。






 川端通を北上し、出町柳を過ぎる。


鴨川沿いに入ると、湿った草の匂いがした。


靴が濡れた路面を蹴るたび、水飛沫が白く散る。


吐く息が淡く揺れ、誰もいない街に溶けていく。


 ――生きている。


その言葉は声にならず、胸の奥で空洞を叩いた。






 京都市植物園の外周に入るころ、体は覚醒していた。


筋肉が熱を帯び、血液が指先に届く。


だがそれは意思の点火ではなく、惰性の循環だった。


燃えるような感覚。けれど、それも錯覚のように遠い。


風が頬を撫でる。


右の頬の火傷痕は何も感じない。代わりに左頬が冷たさを拾う。


その差が、現実の輪郭をわずかに示す。


 ――あの炎の中で、何が焼け残った?


問いが浮かび、すぐに沈む。


答えを探す神経は、とうに焼き切れていた。






 足は自然に南へ向かう。


植物園を抜け、河原町通を経て、梅小路公園を目指す。


往復二十六・四キロ。


誰に命じられたわけでもない。


それでも、身体は毎朝その距離をなぞる。


 ――「罪滅ぼし」ではない。


 ――「祈り」でもない。


ただ、“止まることを忘れた”だけだ。


陽が昇り始め、街が目を覚ます。


街灯が消え、遠くで新聞配達のバイク音が響く。


コンビニの灯りが増えていく。


人々が日常へと戻る時間、彼は逆方向を走っていた。


世界から少しずつ音が満ちていくのに、


彼の中だけが、まだ夜のままだった。






 赤信号の前で立ち止まり、掌を見つめる。


指の節は硬く、皮膚は古傷でひび割れている。


握り拳の中には、何もない。


けれど、この拳でしか世界を叩けない気がした。


信号が青に変わる。


再び走り出す。






 梅小路公園に着くころ、背中は汗で濡れ、シャツが肌に張り付いていた。


遠くの芝生で子どもの声がする。


だが、その音は薄い膜の向こうから響いていた。


彼にとって“日常”とは、音を拒むもの。


呼吸を整え、一歩を踏み出す。


足音が過去の亡骸を踏み潰すように響く。


 ――燃え残った声が、足音の奥で揺れた。


それでも蓮司は、止まらない。






 帰り道の空気は、もう夏の匂いをしていた。


街路樹の葉が擦れ、遠くで鐘が鳴る。


その音が胸を掠める。


懐かしさか、痛みか。


もう、どちらでもよかった。


ただ、走り続ける。


朝の光が背を照らし、影が伸びていく。


終わりのない線を、ひたすらになぞるように。

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