灰を駆ける者 ― ASH WALKER ―
たーゆ。
第1部「灰の路」第1章「焼け残り」
第1話「目覚めの残響」①
――火が、燃えている。
光ではない。
熱でもない。
音を失った、記憶の炎だ。
焦げた鉄の匂い。割れる骨の音。子どもの泣き声。誰かの絶叫。
燃え落ちる木材のきしみが、心臓の鼓動と同じリズムで重なる。
その中心に、東雲蓮司は立っていた。
夢の中の彼は、まだ九歳だった。
崩れ落ちる壁を、ただ見ていた。
顔に火の粉が飛び、皮膚を焼いても、一歩も動けない。
――燃やしたのは、自分だ。
その事実だけが、夢の終わりを形づくる。
息が詰まる。
視界が暗転する直前、風の匂いが鼻をかすめた。
湿った朝の空気。鉄と埃の混じった現実の匂い。
蓮司は跳ね起きた。
呼吸が荒い。胸が上下し、汗が喉を伝ってTシャツを濡らす。
まだ夜明け前。
窓の外では、街がうっすらと光を孕み始めていた。
午前四時。
枕元のスマートフォンの画面が、暗い部屋を切り裂く。
蝉も鳴かない、街が眠る時間。
蓮司は深く息を吐き、額の汗を拭った。
手のひらに残る塩気が、現実の証のように感じられる。
喉の奥には、いまだ煤の味が残っている気がした。
火傷の痕が残る左頬が、わずかに引きつる。
部屋は六畳。白い壁紙は古く、所々剥げている。
だが埃ひとつない。
古びた木製の机、黒ずんだランニングシューズ。
洗いざらしのTシャツが一枚。
壁には時計もカレンダーもない。
あるのは、懸垂バー、ダンベル、プロテインシェイカー。
生活のための部屋ではなく、戦闘前の整備所のようだった。
どこも清潔だが、温度がない。
人の気配が、沈黙の中に沈んでいる。
それでも、蓮司はここを“家”と呼ぶ。
呼ばなければ、帰る場所がなくなるからだ。
シャツを脱ぎ、バケツの水を頭から浴びる。
冷たい水が皮膚を刺し、悪夢の残滓を洗い流す。
首筋から滴る水が床を打つ音だけが、やけに鮮明だった。
洗面台の鏡に目をやる。
鏡の中の自分の輪郭が、いくつも重なって見える。
頬の線は細く、目の下には薄い影。
――生きている。
その小さな呟きが、まだ消えていない命を確かめるようだった。
蓮司はTシャツを着替え、
キッチンの上のサプリメントを手に取る。
EAA、マルチビタミン、ミネラル、カルシウム、亜鉛、マカ。
無言のまま口に放り込み、牛乳を注いだシェイカーを振る。
ホエイプロテインを正確に計り、無駄なく混ぜる。
すべては“生きるための手順”として、機械のように。
飲み干すと、空のシェイカーを洗い、静かに置く。
その金属音が、朝の静寂に短く響いた。
スニーカーを履く。
靴紐を結び、軽く足踏みする。
習慣というより、儀式に近い。
時計の針は午前四時半。
ドアノブを握る指に、まだ夢の熱が残っていた。
――今日も、壊れてはいない。
蓮司は小さく息を吐き、外へ出た。
薄青い夜明け前の空気が、肌を包む。
街の灯りが、遠くで静かに瞬いていた。
朝のランニングが、始まる。
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