玉崎蓮

『しゃんとしなさい』

壁にもたれかかって談笑する男子生徒たち。それを眼鏡越しに眺め、目を顰める。

「こら! あなたたち、ここは廊下よ。騒いではいけないわ」

「げ。早乙女かよ。さっさと教室入るぞ」

そそくさと逃げる男子。その動きを目で追いながら早乙女杏子は嘆息する。彼らが教室に入るの

を見届けて再び歩き出す。

「は!ほっほはっへへ!」

案の定、彼女はそこにいる。本来ならきりりとした美しいはずの顔、だが今は根本だけ黒い金髪

やパチパチという擬音のしそうな目元、そして厚めの化粧でギラギラとしている。さらに異様に長

く伸びてピンクのマニキュアの塗られた爪、異様に短いスカートと腰に巻いたブレザー

。いわゆる

ギャルのような恰好をしている花という名の彼女は、屋上扉に寄りかかって菓子パンを頬張って

いる。全て、校則違反だ。

「ねえ、花。貴方はいつになったら元に戻ってくれるの?」

冷たい突き放したような、それでいてどこか相手に期待するような甘さを滲ませた口調で花へと

声をかける。ゴクっと喉に詰まらないのか不思議なくらいの量の菓子パンを一気に飲み込み、花

は答える。

「いや、あたし、戻る気とかないし? キョーコもあたしみたいにすればいいのに。せっかく可愛い

のにもったいないよ?」

「だって、貴方のそれは校則違反じゃない」

杏子は花を上から下まで舐め回すように見ながら返す。相変わらず美しい比率をしたその身体

から杏子は目が離せない。

『しゃんとしなさい』

危うくその体に見惚れて話をするどころじゃなくなるところだった。

「えーでも、こっちのがかわいいじゃん。ってかこの会話何回目よもう」

可哀想なものを見るような目で花は答える。

「もうかれこれ一ヶ月はしてるから、休日を除けば25日よ」

杏子は答える。

「うわ、キョーコ覚えてんの。そんだけやってんならさ、そろそろあたしなんて諦めた方がいいん

じゃね?」

杏子は口籠る。これまでは彼女もこちら側だったのだ。簡単に諦められるわけがない。

しばらく、応酬が続き

「はあ、じゃあもう今日は帰るわ。明日! きっと改心させる」

そういって踵を返す。その背中に対して花は声をかける

「あ! そうだ忘れてたキョーコ! あたし今日は授業終わったら教室で待ってるから! 来て!」

杏子は首だけ振り向き睨みつける。

授業中、杏子は珍しく上の空だった。『来てよ!』その言葉がずっと耳にこびりついている。何か

用事があるのだろうか。さっきのあの場ではいえないような用事、いったいどんな用事だろう?

改心してくれたのだろうか? それとも、それとも……

自然と杏子の頬が赤らむ。

『しゃんとしなさい』

そんなこと、思ってはいけない。ルールを守って、倫理を守って、真面目に普通に生きなければ

……緩んだ顔を引き締める。

チャイムが鳴る。今日の授業が終わる。半ば熱に浮かされたように杏子は花のいる教室へと向

かう。どんな用事だろうか? 桃色の想像が杏子の頭を離れない。

——ガラガラ

花のクラスの教室だ。夕暮れに染まった教室に、強めの香水の匂い。くらくらするような空気の真

ん中で、花は杏子を待っていた。

「あ、来た来た! 帰らなくて良かった」

花は屈託なく笑う。その顔に杏子は顔の温度が上がっていくのを感じる。

「いやあ、キョーコ確か今日誕生日じゃん? だから、ちょっと特別なことしたげよと思ってさ」

『特別なこと』甘い甘い毒のような言葉。自然と、頬が緩み、顔が火を吹こうとする。

『しゃんとしなさい』

杏子はハッとする。そうだ。学校で特別なことなんて、校則違反だ。注意しなければ––

「ほら、立ってたらしづらいからさ、座って座って」

とびっきりの笑顔。その魔力に抗えず、杏子は差し出された椅子に座ってしまう。そして、

「ねえ、キョーコ、目、閉じて……」

もはや、花のお人形になってしまった杏子は、ゆっくりと目を閉じる。

『しゃんとしなさいしゃんとしなさいしゃんとしなさいしゃんとしなさい』

うるさい。杏子の鼓動はどんどん早くなる。期待感で頭がおかしくなっている。はやく! はや

く! 貴方が欲しいの! 香水の香りが強まる。はやく! はやく! 微かな衣擦れの音。はや

く! はやく! 花の気配がもう目の前にある。

––バチン!

次の瞬間、訪れたのは杏子の想像を大きく裏切った衝撃だった。痛い! 左耳が、何かを刺さ

れたように痛む。思わず目を開ける。そこに花がいるのを見る。

––バチン!

今度は右耳から刺すような痛みが走る。痛い! 痛い! 痛い! 杏子は涙で潤んだ目で花の

方を見る。それを見た花は、がっと杏子を抱きしめ、耳元で囁く。

「その顔、めちゃくちゃエモいよ」

『エモいよ』耳の中で反響する。それが身体に染み込んでいくにつれて、だんだん杏子の理性は

蕩けていく。

花が杏子を解放する。いまだにクラクラしている杏子に向かって、花は手鏡を渡す。杏子がそれ

を覗くと、いつも通りの自分の顔が写っている。いや、違う。耳に何か輝くものがついている。

「ねえ! 可愛くない? なかなか可愛いのなくてさ。ちょっと奮発したんだよね! 」

ピアスだ。杏子の耳にピアスがついている。

『しゃんとしろしゃんとしろしゃんとしろしゃんとしろしゃんとしろしゃんとしろしゃんとしろしゃんとしろ

しゃんとしろしゃんとしろ』

耳鳴りがする。こんなの、外さなきゃ……杏子がそう思って手を動かそうとすると、

「やっぱり、キョーコ可愛いよそれ! 絶対似合うと思ったんだ! 」

花の嬉しそうな声がする。

一瞬固まりかけた理性は、花のその一言でまた蕩けきってしまう。

「それ、

一ヶ月外しちゃダメだからね。外したら、元に戻っちゃうから」

理性の蕩けた杏子の心に、染み込んで、まるで催眠にでもあったかのようにそれが正しいんだ、

としか考えられない。

花は、満足した顔をしてそれから覚悟を決めるように深く息を吐き、真剣な顔をして再び杏子に

話しかける。

「ねえ、キョーコ、あたし、ずっとずっと前からあなたのこと好きだったんだよ。あたしがあなたと風

紀委員の仕事をしていた時から、ずっと……」

とろんとした表情のまま、杏子は返す。

「私も、ずっと好きだよ。なのに、こんな格好してるから、私のこと、嫌いになったんじゃないかって

……」

溢れる思いが止まらない。けれど、続きを言う前に、口を塞がれる。視界いっぱいの花の顔。目

の前から花の香り。唇が、痺れる。もはや、杏子の理性は一欠片も残っていない。全てを花に委

ねる。

しばらくして、花が顔を離す。そして、語り始める。杏子は名残惜しそうに唇の、目の、鼻の感覚

にそれを刻みつける。絶対に忘れないように。

「違うよ、あたしが真面目な風紀委員のままだったら、あなたは振り向いてくれない。だからだよ。

もっとキョーコにあたしを見て欲しかったんだよ」

「なんだ、そうだったんだ……」

再びの口付け。さっきよりもゆるゆるになっている杏子の身体は、花とのつながりを拒絶できな

い。先ほどよりも深いところへ、花が侵入してくる感覚。もはやそれすら心地よくて、溶けていく。

溶けて、混ざる。どちらがどちらなのかわからなくなるような、そんな感覚。そのまま、永遠にそう

していたい……

––キーンコーンカーンコーン

無粋なチャイムが、全てを元に戻す。先ほどまでの溶け合いが嘘のように、杏子の意識がはっ

きりする。ここまでの全ての情報が、杏子の頭の中で処理される。

『しゃんとしろ』

いつの間にやら、そこに声は戻ってくる。杏子に耳の花の跡を、そしてその跡を残したいと思う

心を封じろ、普通であれと怒鳴りつける。その声の言うままに、ピアスに手を伸ばす。

けれど杏子にはできなかった。『外しちゃダメだからね』花の言葉が杏子に囁く。そのフラッシュ

バックだけで幸福感が湧き上がる。人は、幸福に耐えられるようにはできていない。それを見て、

花は言う。

「ふふ、外せない? じゃあ、キョーコは私のものだから」

『しゃんと……』

声が、消える。しかし耳に開いた穴は消えないだろう。もう、後戻りできない。けど、それでいい。

むしろ、それがいい。キョーコの中で、倫理やルールの優先順位が下がる。もう、ハナだけいれば

いい。

「ねえ、ハナ、私、あなたの隣にいてもいい?」

恥いるようなモジモジした声でキョーコは尋ねる。

「もちろん。もちろん! 」

ハナは、泣き出しそうな声でそう叫ぶと、キョーコに飛びつく。

そのまま、二人は先生に追い出されるまで教室にいた。帰り道、ハナはキョーコの手に自分の

手を重ねる。キョーコはビクッとするも、すぐに手を絡めてくる。

翌日以降その学校の廊下は、歩くだけの場所ではなくなった。

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玉崎蓮 @rentamasak1

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