いつか揺蕩うアガルタの海

推しと愛馬が

いつか揺蕩うアガルタの海

 どうどう。どうどう。

宵闇に暗い水面が脈打っている。高い橋の上からでは白く弾ける飛沫までは確認できないが、多くの命を飲み込み、多くの命を育んできた河は確かに躍動していた。

 ひとりの男が冷たい夜風を受けて、一つ息を漏らす。いや、正確に言えば、音にならなかった言葉を溢したのだ。

『寒い』

河の音に負けぬほどの大音量を歌うイヤホンを外す。

 かつて、自身が歌った曲を聴いていた。

 いまは近くて遠い過去の話。

 男、旭はヒップホップの人気MCだった。低く甘い声色で、畳み掛けるように韻を踏む。自身の過去を歌ったハードな曲が若年層にヒットし、親友にしてDJの片割れと二人、今を彩る数々の曲を産み出してきた。

 そんなある日、人気絶頂の最中、旭の喉は突然その声を失った。難病だった。治療法の一切が確立されていないそれは、旭から全てを奪った。

 もうステージには立てない。舌は回るが、音を乗せる声が出ない。自身の喉は楽器にはもうなれない。

親友とはチームを解散した。思考がまとまらずリリックが書けない。音楽制作ソフトを前に、何の意欲も湧かない。

 何もできない。

 旭の半生は過酷だった。

 養護施設の職員曰く、生後間もない頃、旭は養護施設の前に段ボールに入れて捨てられていたらしい。どこの誰の子どもか、彼のルーツをだれも知らない。誕生日も分からないので、養護施設に受け入れられた日が彼の誕生日ということになっていた。

 年長者への懐疑心が強いまま育ってしまった旭は、里親も見つからないまま成長する。職員の説得を無視して高校への進学を蹴り、早々に世に出ることにした。

 自分以外の誰もが信用できない。生活も心も貧しく冷たい風が吹き、生活は荒みきっていた。たまたま仕事帰りに年齢を詐称して寄ったクラブでヒップホップに出会うまで、本気でそう思っていた。

 ドラッグに手を出さなかったのは奇跡に等しい。夜のラジオと酒の酩酊、クラブの熱狂が無ければ今頃死んでいたと、いつかのインタビューで語ったような気がする。

 それすら奪われた今、生きている理由はもはやない。

 欄干の上に立つ。

 強く風が吹いている。

 ふらり、その身を傾ける。

 黒い水面はごうごうと、旭を受け止め飲み込んだ。


 次に旭が目を覚ましたのは暗い洞窟の中だった。目を覚ましてしまった。

 死は旭を受け入れてはくれなかった。

 ヒュ、と喉を空気が間抜けに通り過ぎて、残酷なまでに事実を突きつける。どうやらこれは現実らしい。

「目が覚めたか」

 誰かいる。

 少しハスキーで、酔いしれるようなアルト。声の聞こえた方へ首を傾け、旭は固まった。暖かな灯りの前に、女が腰掛けている。

 長い黒髪、端正な顔、しなやかな身体つき。

 下半身の、魚の尾鰭。

 ――人魚だ。

 あまりの衝撃に飛び起きようとして、失敗する。全身がひどく痛い。顔を歪めて痛みに耐えると、人魚は器用に身体を引きずって近寄ってきた。

「無理をするな。あの高さから落ちたのだ、全身を強く打っている。生きているのが不思議なくらいだ」

柔く白い手が旭の頬を撫でる。水中に住まう人魚の体温は思いの外暖かい。

 旭の服は不思議と濡れていないが、それでも身体が冷えている。思わず頬に触れた手に擦り寄ってしまったが、それを不快に思うでもなく、人魚は微笑んで撫で続けた。

「寒いか?洞窟内の温度を上げはしたが、足りないならばこのまま少し触れていような」

触れる手の温度が少し上がる。手当てとはよく言ったもので、人魚がその温かな手で触れた箇所の痛みが和らいでいった。

「──、」

 ありがとう、と声を出そうとして音にならない空気が漏れる。いまだに話せないことに慣れなくて、旭は眉根を寄せた。

「どうした?」

人魚の問いかけに、旭は痛む腕を無理やり持ち上げて喉を指し、次いで首を振る。拙い身振りでも伝わったのか、ああ、と言って頷いてくれた。

「声が出ないのか」

ゆっくり首を縦に動かして同意すれば、

「心配せずとも、私は唇の動きで何を話しているかわかる。身振りは辛かろう?口だけ動かせばいい」

 その言葉に、旭は『ありがとう』と口を動かした。それだけで本当に伝わったらしく、人魚は

「困ったときはお互い様だ」

と笑った。それから、二人はポツポツと会話した。雨が降りしきるような静謐を伴い、旭は温かな手を享受した。

 人魚は名前をセナと言った。

 チョウザメの人魚で、海から迷い込んだものの、河の居心地がよくそのまま住み着いたのだそうだ。魔術を学んだので、旭の治療と洞窟内の温度管理に使っているらしい。人魚も魔術を使えるのか、すごいねと旭が感心すると、照れくさそうに笑った。

 この洞窟はセナが魔術で作ったもので、普段人から隠れるようにここで生活しているらしい。話の流れで旭が河に飛び込んだ理由を話せば、

「お前が戻りたくないなら、ここに居ていい。私は一人で暮らしているし、ここなら誰にも見つからない」

と優しく返した。

 旭は水没したスマホのことを思い、連絡手段がないのなら行方不明扱いでもいいだろうと、セナと暮らすことを選んだ。どうせ声の出ない人生なんて無いようなものだ。死に損なったのも何かの導きかもしれない。それなら、セナに頼ってみてもいいだろう。

『俺、ここに住みたいな』

「うん、構わない。私も誰かと会話できるのは喜ばしい」

二人は握手をして、今後のことについて語り明かした。

 セナは旭の打撲が落ち着くまでは、その面倒を全て見ることにした。無理に体を動かす必要もなければ、強いるつもりもない。彼の心身が穏やかになるならそれでよかった。旭は体調が戻れば、洞窟内の掃除や家事をすると引き受けた。一人暮らしの旭は家事が得意だ。とは言っても洞窟内のことなので、できることは限られてくるが、セナに恩を返したくてそう提案した。セナは

「気にしなくていいのに」

と笑ったが、出来ることはしたかった。

 『あなたの手はとてもあたたかいね』

旭がセナの手を取り、自身の頬へ当てる。ふにゃりと微笑む男の顔は少しあどけない。セナはつられて頬を緩め、旭の好きにさせた。

 水棲の生態をとりながら、この人魚は恒温動物のように一定の体温を保っていた。肌に触れれば人間の平熱よりも二度ほど高いらしく、低体温気味でぼんやりとした体の不調を抱える旭は、自然とその温度を求めた。

「お前は体の芯まで冷えている」

頬に当てられていた手をそっと旭の薄い腰に回して、セナは上半身をぴったり密着させた。薄い布越しの三十八度五分の熱が、旭の冷える内臓をじんわりと温めていく。

 洞窟内はセナの術によって暖房をつけたように暖かいが、毛布やコートなどの防寒具はなく、体が冷えやすいことに変わりはなかった。そういう時は、体温が上がるまで柔らかな肌が包んでくれる。

『ありがと。セナは優しいね』

「他者との関わりがなかったからだろうな、人肌が恋しいんだ」

『俺で良ければ喜んで抱き枕になるよ』

「嬉しい」

 ぎゅうと強い抱擁に、旭はそれ以上の力で返した。独りでこんなところにいたら気がおかしくなってしまうだろうに、この人魚は孤独に強いらしい。旭は親友のできた今の自分だったら耐えられない、と思って、セナの黒髪を撫でた。

 旭は一月も経てば回復して、動き回れるようになった。洞窟内の整備だけでなく、魚を取ったり、深夜にセナと河で遊んだりもした。浅瀬でセナが手を繋いで一緒に泳いでくれたから、危険なことは何もなかった。

 そうやってのんびりと半年過ごしていくうちに、旭の心は着実に癒されていった。ある日のことである。ピンと来たのだ。

 リリックが浮かぶ。

 旭はそれを忘れぬように、砂浜に指で字を書いてメモをした。セナは人の文字が分からない。

「なんて書いてある? 」

と問われたので、唇を動かすと、

「韻を踏んでいるな」

と言われた。セナに自身の好きなこと、生業にしてきたヒップホップについて説明すると、それはそれは喜んだ。

「好きなことがあるのは良いことだ」

そういえば、セナには旭の仕事は断片的に話しても、好きなこととして話していなかったかもしれない。

『俺はね、ヒップホップって言うジャンルの音楽の、作詞作曲をしてるんだよ』

「素晴らしいことではないか。歌はいい。心に寄り添う」

『歌ってあげたかったな』

 旭はそう自分で言って驚いた。歌う気が戻っている。つい片手で口を押さえると、セナも驚いていた。

「お前、気力が戻ってきているな」

『思った。俺、まだやれんのかも』

 そう思った旭は、顎に手を当てて考えた。トラックメイカーとしても、リリックを書くことも、やれる。楽曲提供なら出来る。自身の歌にできなくても、誰かが代わりに歌ってくれるなら、それでいい気もする。それでいいじゃん。俺、半年も何燻ってたんだろう。

「……なあ、旭」

『なあに? 』

「お前は人の世界に戻るべきだ」

『……』

 二人の思考が合致した。セナもその答えに辿り着いていたのだ。聡明な人魚だ。眉を寄せ、まなじりを下げた哀しげな笑顔で、セナは言葉を続けた。

「出来ることがあるなら、やりたいとまだ思えるなら、やってみたらいい」

『セナを置いて行きたくない』

 口からついて出た言葉に、自然と旭は涙した。俺、セナのことが多分好きだ。一緒にいたい。人魚とか、人間とか、環境の違いなんかいくらでも乗り越えられる。一緒にいたい。

「私たちは共には居られまいよ。住む世界が元々違うのだ」

『嫌だ! 』

 その瞬間、旭の心に火がついた。愛する者と共にいたい。そのためなら、どんなことだって出来るし、実現してやる。そんな思いだった。

『俺、人の世界に戻るよ。でも一年待って、必ず迎えにくる。セナのための家を建てるよ。一緒に住もう』

「一緒、に……?」

 こくりと頷く。セナは怪訝な顔をしたが、旭のこれまでみたこともないような強い表情を見て、頷いた。

「夢は見ない。代わりに、お前を応援する。実現しろよ、旭」

『もちろん。絶対迎えにくるよ』


 その日、旭は夜明け前ひっそりと家に帰った。金だけはあったので、埃まみれの散らかった家は電気もついたし水道も出た。風呂に入って半年の間に溜まった汚れと共に暗い気持ちをさっぱり排水溝に流す。ぱんぱんになった郵便受けの中身を回収し、パソコンに溜まったメールを見る。久々に触る機材に心躍らせながら、旭はまず親友に連絡を入れた。

 『俺、旭。生きてる。家戻った。久さ、今日時間ある?』

 旭の親友にしてDJを務めていた久はすっ飛んできた。これでもかと叱られ、ついでにマネージャーとレーベルの社長もやってきて、涙ながらの叱責を食らった。飛んでくる言葉は耳に痛い言葉ばかりで、次やらかせばもうMC人生は絶たれると思うほどだった。旭はそれらの言葉を真正面から受け止め、反省し、土下座して三人に言葉を紡ぐ。

『俺、作詞作曲で食って行きたいんです。一年で億稼ぎたい理由ができました。俺に仕事をください』

その言葉に三人は顔を見合わせ、笑って頷いた。

 答えはイエスだった。

 結論から述べると、旭はソングライターとして花開いた。元々センスがよく、音楽について深く考えてきた男である。ヒップホップだけでなく、ジャンルを選ばずアイドルから演歌まで、来る依頼はなんでもこなした。ヒップホップで培われたリリックの良さも相まって、半年で旭の目標額は簡単に達成できた。

 それに胡座をかかず、旭は日々PCやオーディオ機材と睨めっこして、セナと暮らすための資金集めに奔走した。

 あの日、旭が身投げした日から一年が経つ日。旭は台車とトラックを借りてあの河へ向かった。今度は河岸から服を脱ぎ、わざと音を立てて飛び込む。泳いでいるうちにセナが見つけてくれるか、あの洞窟に辿り着くか、どちらかだ。

 今回は後者だった。セナは洞窟で待っていた。旭が飛び込む音を聞いて、洞窟に戻ってきていたらしい。

「来てくれると信じていた」

涙声のセナを旭は強く抱きしめた。それから、端正な顔を見てゆっくり話しかける。

『俺、頑張ったよ。着いてきてくれる?』

セナはこくんと頷いて、旭に着いて行った。その先で、人に見られないようコソコソとセナを台車に乗せ、トラックで山奥の自宅へ向かった。


 「お、おまえ、これ」

『君のために用意したんだ。気に入ってくれたかな? 』

目の前に広がるのは、一人で暮らすには十分すぎる大きなプール。天井は人目を避けるため窓はない。空を飛ぶ技術が発達した現代では、いつどこで誰が何を見ているかわからない。

 壁面は液晶スクリーンが埋め込まれ、外の景色を映している。照明も太陽の光に合わせて色や明度が変わる仕様らしい。防水パネルから操作すればスクリーンが降りてきて映画やテレビ番組も見られるつくりで、これはセナの好きにしていいと、旭は実際に操作して使い方を教えた。

 プールサイドにはウォーターベッドやテーブルなど家具が一式置いてあり、二人で過ごすために用意したとすぐにわかった。

『君と過ごしたあの河には及ばないけれど、不自由ないようには設計したつもりだよ』

「……私は、お前を甘く見ていたかもしれん」

『んはは』

促されるままにスロープからプールに入る。温水だ。浄水と温度調整、カルキ抜きを行うための設備が地下にあり、二十四時間時間稼働してプールと循環しているらしい。泳いでみれば酸素量は問題なく、下半身を覆う粘膜にも影響はない。

 外観を見た時は、莫大な建設費費用がかかっただろうと思ったが、設備の説明を受けた後では維持費のほうが嵩むばかりだと心配になる。しかし、旭はけろりとして

『平気』

と言ってのけた。何がどうして平気なのかまでは教えてくれなかったが、この人間が問題ないというならそうなのだろう。こんな設備を個人で建てられる人間なのだから、セナが余計な心配はしなくてよさそうだ。というか、考えれば考えるほど頭痛がするので考えたくない。

 『セナ、こっちきて』

いつのまにかプールに入っていた旭に呼ばれ、スロープの対角線上の隅まで移動する。

「……これは?」

プールの底に、正方形の大きな扉がある。ちょうど、セナが一人、通れるほどの大きさだ。

『この先は長い水道管。君が住んでいたあの河に、繋がってる』

 一瞬、旭の言葉が理解できなかった。

 あの河に繋がる扉?

『ここの生活に嫌気がさしたり、なにかトラブルが起きた時、セナがいつでもあの川に逃げられるように作った。避難経路だね。防水パネルを操作して、パスワードを打てば即開くけど、そんな余裕がない時は君の術で壊して逃げて』

「……おまえ、私が今更逃げると思っているのか」

旭の顔を睨みつけるが、

『人生何が起こるか分からないでしょう。俺は外に出られるけど、君はもうどこにも行けない。今まであった自由が制限されれば心のバランスを崩すことだってあり得るよ。それに、災害だって何があるか分からないじゃん。火事になったらどうするの? 俺と仲良くここで茹蛸だよ。逃げ道は用意しておくに限るんだ。俺が君と出会ったきっかけを思い出して。俺はさ、苦しみをうまく逃せなくて死のうとしてたんだよ』

そう返されて言葉もなかった。

 『決して君を疑っているわけじゃない。逃げ道を作ることは、何よりも大切な命を守るために、どうしたって必要なんだ』

「……お前の考えは理解した。非常時には役立てよう。だが忘れるな。私が自らお前のそばを離れることはない」

『ありがとう』

 それから、セナと旭の生活が始まった。セナの気分で液晶スクリーンは主に旭と久のライブが流され、照明はぼんやりと暗く、あの洞窟のような明るさに設定された。やはり旭の声が聞けるのが嬉しいらしく、各配信プラットフォームで配信されている旭が出演している番組を中心に何度も繰り返し見ていた。

 それ以外では、音楽が流れている。旭が作曲中の音をプールに聞こえるように設計したのだ。たまに思い通りにいかず、むしゃくしゃした旭が不協和音を奏でるが、それもまたセナは楽しかった。旭の声の代わりに感情を伝えているようで、心底嬉しかったのだ。

 洞窟にいた時の旭は表情の変化に乏しく、声も出ていなかった。だからセナは旭のことを暗い男だと思っていたのだが、実際はおちゃらけた面白い、明るい男らしい。

 

 仕事部屋の窓からは旭が今日も作詞作曲に追われている。締切が近いらしく、ドタバタと焦ったような音楽を聴きながら、セナは楽しくプールを泳いだ。

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