第6章 海のある方へ

 その夜、街の空はいつもよりも低く垂れこめていた。

 雲の向こうで、何かが静かに軋んでいる。

 リラは窓辺に座り、

 指先で欠片をなぞっていた。


 青い光は、まだかすかに冷たい。

 けれど、その中心には小さな脈があった。

 まるで、生きているように。


 階下から、足音が聞こえた。

 ルカだった。

 「眠れないの?」

 彼は同じように窓の外を見ていた。

 街の輪郭が、少しずつぼやけている。

 建物の縁が曖昧に溶けていくようだった。


 「街が……」

 リラがつぶやくと、

 ルカはうなずいた。

 「サイレンが言ってた。

  色を取り戻すたびに、街は薄くなる。

  たぶん、僕たちは“終わり”に向かってるんだ」


 リラは胸の奥でその言葉を転がした。

 終わり。

 それは怖い響きだったけれど、

 同時に、どこかで“帰る”という響きにも似ていた。


 「ルカ。海を見に行こう」


 言葉がこぼれたとき、

 自分でもなぜそう言ったのか分からなかった。

 けれど、口にした瞬間、

 青い欠片が微かに光を強めた。


 ルカは少し黙っていたが、

 やがて小さく笑った。

 「いいね。行こう。

  この街の外、海のある方へ」


 *


 翌朝、二人は街を出た。

 道はひび割れ、建物の間を霧が流れていた。

 風が吹くたびに、灰の粒が宙に舞い、

 その中に淡い光が混ざっていた。


 「この霧、きれい……」

 リラが呟くと、

 ルカは少しだけ遠い目をした。

 「これは、消えた記憶の残り。

  街の人たちの欠片が、風に還ってる」


 リラは手を伸ばした。

 掌に触れた粒が、ひとつ、光を放って消えた。

 その瞬間、胸の奥に短い記憶が流れ込んだ。

 ——笑い声。

 知らない人の、やさしい笑い声。


 ほんの一瞬のことだった。

 それでも、心の奥が温かくなった。

 「欠片は、誰のものかもうわからないのかも」

 「でも、たぶん、全部つながってるんだと思う」


 ルカが言った。

 その声は静かだったが、

 確かな実感があった。


 *


 街の境界は、思っていたよりも近かった。

 地面の端が溶け、

 その先に広がっていたのは——

 果てのない灰色の平原。


 風の音だけが響く。

 どこまでも続くような沈黙。

 それでも、二人は歩き出した。


 リラはふと、背後を振り返った。

 街が、ゆっくりと霞んでいく。

 屋根も、通りも、塔の影も。

 まるで、誰かの夢が薄れていくように。


 「ルカ、街が……消えてる」

 「うん。でも、きっとそれでいいんだ。

  残るものは、ちゃんと心の中にある」


 リラは黙ってうなずいた。

 風が二人の間を通り抜ける。

 灰の中に混じって、ほんのわずかに青が見えた気がした。


 それは幻かもしれない。

 けれど、歩くたびに、

 足もとに淡い光の粒が生まれた。


 まるで、海への道を照らすように。

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