第一回 導入:異界言語学とは何か

 映像が始まると、画面いっぱいに毛並みの柔らかそうな灰色の耳が映り、次の瞬間――カメラが少し引かれ、陽の差す研究室が見える。


 その中心、木製の机の上にあぐらをかいて座っているのは、フェリス・ヤタ教授。柔らかな毛に覆われた手でしっぽを抱きながら、ゆったりとした声で語り始める。


「にゃー……ん、あ、始まってる? 映ってるね。

 えーと、みんなはじめまして。

 わたしが“異界言語学入門”を担当するフェリス・ヤタ。"旅人"であり、言葉を集めるのが趣味であり……まあ、時々教授でもある。」


 彼女は軽く伸びをし、椅子ではなく机の上に座ったまま、板書スペースを指さす。

 魔法的なチョークが浮かび、フェリスが指をひと振りすると淡い青い光が走り、文字が描かれていく。


 ―――


 言語=構文(Form)+意図(Intent)+信仰(Belief)

 "Language is not a code, it is a worldview."


 ―――


「さて、“異界言語学”という言葉、耳慣れないよね。

 現世では“比較言語学”とか“文化言語学”なんて呼ばれている分野があるけど、異界言語学はもう少し広い。


 わたしたちストラテッラでは――“言葉”は力の形でもある。

 詠唱ひとつで魔法を起こし、祈りひとつで神を呼ぶ。

 つまり言葉を学ぶということは、“世界の動かし方”を学ぶことでもあるんだ。」


 フェリスは手をひらひらと動かす。

 その指先から微光が散り、空中に古代神代語の文字列が現れる。


《映像補足字幕》


〈例〉神代語詠唱文:"ES’MEL TAR ANU"

 現世語訳:"存在せよ、形なきもの"



「たとえばこの神代語。“ES(存在)”“MEL(形)”“TAR(命)”“ANU(無)”――

 四つの概念が一文に詰まってる。

 現世語で言えば、“形なきものよ、存在せよ”という命令文。でも神代語では“命令”という概念そのものが存在しない。語順の中で“存在”が“命”を生み、“形”が“無”を導く。

 文法が“祈りの順番”になってるんだ。」


 学生向けに、画面下部に構文図が自動表示される。


 ―――


 ES(存在)→ MEL(形)→ TAR(命)→ ANU(無)

 構文構造:存在が形を与え、形が命を持ち、命が無へと還る循環構造

 =宇宙の循環概念を模した文法


 ―――


「ここで大事なのは、“言語=世界観”ということ。神代語は“世界は循環するもの”という信仰から成り立ってる。

 一方、現世共通語――君たちが使っている言葉――は、“世界は観測によって決まる”という科学的信念の上に構築されてる。

 同じ“存在”でも、言葉が変われば、世界のあり方が変わる。」


 フェリスは机の上でごろりと横になる。しっぽがふわりと揺れ、映像越しにもリラックスした雰囲気が伝わる。だが、声は意外と真剣だ。


「じゃあ、たとえば“ねこ”っていう言葉。

 現世共通語では“cat”や“猫”と書くけど、神代語では“E’Nua”――意味は“夢の観測者”。エルニア語では“Rifta”――“二つの世界の間を歩くもの”。

 言葉が違えば、“ねこ”という存在の定義すら違う。


 ね、面白いでしょ?」


 ―――


 比較例:

 現世共通語:猫=動物種の一

 神代語:E’Nua=夢と現の境を観測する存在

 エルニア語:Rifta=境界を渡る媒介者

 →言語は存在定義の差異を生む


 ―――


 教授は一度立ち上がり、教室の後ろに設置された古い投影装置へ歩いていく。

 画面に、惑星領域ごとの言語分布マップが浮かぶ。太陽神域を中心に、惑星国家ごとに言語圏が広がり、複雑に交錯している。


「ストラテッラでは、惑星国家ごとに言語の系統が全然違う。しかもね、方言が魔術的に干渉し合うから、“翻訳”ってものがすごく難しい。ひとつの言葉を誤って訳すと、術式そのものが暴走することもある。


 つまり翻訳者は、“言葉の安全装置”を扱う職人でもあるの。」


 教授は再びカメラの方を向く。

 表情が少しだけ柔らかくなる。


「君たちの中には“翻訳家”や“召喚士”を目指す人もいるだろうね。

 けどまずは焦らなくていい。今日の講義で覚えてほしいのはたった一つ。」


 彼女は指先で空をなぞり、文字を描く。

 そこには淡く光る一句が浮かび上がる。


―――


「言葉とは、世界を理解するための魔法である」


―――


「――これが、異界言語学の根っこ。

 この講義では、言語を“魔法の構文”として学ぶ。

 発音も、文字も、文法も、文化も。それぞれの世界の“見え方”を知るための鍵なんだ。」



【演習・課題案内】


 フェリスは尻尾を揺らしながら、机の上の通信端末を軽く叩く。


「はい、では今日の課題。

 “言葉に力が宿る”という考え方を、そっちの現世の文化から一つ選んで説明してみよう。おまじないでも、ことわざでも、ラップのリリックでもいい。その言葉にどんな“意図”と“信仰”があるか、200字くらいで書いて提出。


 締切は……にゃー、三日後の月曜日、23時59分まで。遅れると減点だよ。」


 軽くあくびをして、教授は寝転がる。

 カメラはゆっくりズームアウトし、背後の黒板に残された文字が映し出される。


―――


 言語=構文+意図+信仰

 世界を知るとは、他者の言葉を理解すること。


―――


 そして最後に、教授の気まぐれな声が響く。


「……にゃ、あとは各自、考えること。

 言葉を“話す”ってことが、どれだけ不思議な行為か――気づいたら、もう君たちは言語学者だよ。」


 映像は静かにフェードアウト。

 最後に字幕で「次回:音の構造Ⅰ―現世共通語と発声呪術―」と表示され、第一回講義は終了する。

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異界言語学入門 常陸 花折 @runa_c_0621

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