じごく

昔の過ちがどつしようもできないことの場合、私はしぬしかないのだろうか。


今日も今日とてカラオケでレポートを進めた。明日には終わりそうだ。よかった。見たことあるシルエットだなと思ったら、小中の頃仲が悪かった同級生だった。どうやら彼女はカラオケでバイトをしているらしい。


カラオケから出ると、息が白く染った。もうすっかり冬みたいだ。まだ秋なのかもしれないが。季節の移り変わりというのはよくわからない。


今日は鍋のはずだから、家族全員分のうどんを買って家に帰ると、鍋の中はほとんどからっぽだった。かき集めても醤油入れくらいの量しかない鍋と、うどんを食べた。少しくらい残しておいてくれてもいいのに、という気持ちは、成長期の弟と妹に言えるはずがない。時々冷蔵庫を除く母が、「もうなにもないの!?」と金切り声をあげる。いつしか冷蔵庫の中のものを食べるだけでも罪悪感を感じるようになった。


なんのために生まれて、何をして生きるのか。パンのヒーローはそれを知っているんだろう。そうじゃなければ、自分の物語を垂れ流す番組で流れる音楽の歌詞が人間が思う最大の疑問であることに耐えられないだろう。


私は種を絶やさないために生まれ、時期が来れば生殖行為をし、子孫を残し、子が独り立ちするまでを見守るため、というのが生きる理由であると思う。けれど、私はそれに当てはまらない。つまり、私はこの歌詞を聞く度、見る度に正面からぶん殴られるのだ。


「子供がいないと四十過ぎてからなにもない」的なポスト(ツイート)を見かけた。四十過ぎても生きたくねえなーというのが感想で、なにもないこと自体には何の嫌悪感もなかった。健やかに、穏やかに、静かに生きていればいいじゃないか。


なにもないというところに重きを置いてしまうと、子供がいたとて"なにもない"が数年縮まる程度にしかならない。独り立ちした自分の子が、孫を連れて家に来たり、一緒に出かけたり、そんなことをするのはきっと楽しいだろうし、心が満たされていくと思う。けれど、そこまでの過程はとんでもなく険しいものだろう。乙女ゲームのように、家族ゲーム(結婚し、子供を産んで、子供が独り立ちし、孫を連れてきて、一緒に遊び、最後は看取ってもらう)を作ってほしい。



鏡に映る自分がものすごくデブに見えた。体重は減少傾向にあるが、もっと頑張らなくてはいけない。今年の一月、自分の顔が嫌いすぎて1週間ほど毎日泣いていた。家から出たくなくて、玄関まで行っては泣きながら布団に戻りダイブした。そこまで自分の顔が嫌になるなんて生まれて初めてだった。そんな地獄、もう経験したくない。

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