第2話 アタランタ

    *    *    *


「ウオオオオオオオオォッ!!」


「ソイヤアアアァァァァッ!!」


 渾身の雄叫びとともに、ふたつの肉体が地を蹴り、宙を舞う!

 ざんっ! とやわらかな砂地に着地したふたりの乙女は、ほぼ同時に相手の足元を見やり、互いの跳躍の距離をたしかめた。


「勝者……ボイスカ!」


 審判役の声がひびくと同時、


「オーッホッホッホ! 残念だったわね、アタランタ! 今回の勝負も、あたくしがいただいたわッ!」


 金髪の乙女――ボイスカが、はじけるように立ち上がり、胸をそらして高笑いをあげる。


「ヌオオオオオオォ!」


 黒髪を馬の尾のように結いあげた乙女――アタランタは、拳で砂を殴りつけてくやしがった。

 男たちを幼いうちから厳しく鍛え、最強の戦士として育て上げるスパルタの教育アゴーガーは有名だ。

 だが、スパルタが他の都市国家ポリスと大きく違っている点は、他にもあった。

 スパルタにおいては、女たちも、少女のうちから体を鍛えることを奨励されていたのである。


「全員、集合! 整列!」


 指導者であるクレイオ先生の声がひびくと同時、胸をそらして高笑いをあげていたボイスカも、叫びながら地面を殴っていたアタランタも跳ね起きて、他の乙女たちといっしょに列に並んだ。

 どの乙女も、丈が太腿の半ばまでしかない簡素なキトンを、素肌に一枚まとったきりだ。

 アテナイの婦女子が見たら卒倒そっとうしそうな服装だったが、スパルタの乙女たちにとっては、これが当たり前である。

 健康的に日に焼けた肌と、鍛えられ、引き締まった筋肉こそが、彼女たちにとって、なによりの装飾品なのだ。


「今日の鍛錬は、ここまでにしよう。みんな、よくがんばったな!」


 小型のイノシシくらいなら絞め殺しそうな、たくましい腕を組んだクレイオ先生は、大きくうなずきながら、笑顔で言った。


「特に、ボイスカと、アタランタ! おまえたちの幅跳はばとびの記録は、どんどん人間ばなれしてきてるぞ。そろそろ、距離をはかるための棒の長さが足りなくなってきた!」


「あら先生、あたくしたちなんて、まだまだですわ! さらに精進して、もっと華麗な跳躍をお目にかけますから、ご指導なにとぞよろしくお願いいたしますわ! オーッホッホッホ!」


 金髪の娘ボイスカが謙遜してみせたが、最後の高笑いが、前半の発言のしおらしさを完全に裏切っている。

 そのとなりから、


「クレイオ先生ッ!」


 黒髪のアタランタが、目をぎらぎら光らせ、拳をかためて叫んだ。

 ボイスカの容姿の美しさを、華やかな薔薇にたとえるとすれば、アタランタの美しさは、研ぎ澄まされた剣のよう。

 その顔立ちはきりりとして、声もやや低く、どこか、少年のような雰囲気がある。


「そんな慰めはやめてくれッ! たとえ、どれだけ跳ぼうが跳ねようが、敗北は敗北! 栄光は、ただひとりの勝者の上にのみ輝き、敗者は惨めに立ち去るのみ……!」


 口調も、どこか少年のよう――というより、英雄時代の戦士たちのようだった。


「出たわ! アタランタの決め台詞ぜりふ!」


 仲間の乙女たちが、待ってました、というように、嬉しげなひそひそ声で言い交わす。


「アタランタったら、また、心だけオリュンピアの競技祭に旅立ってるんだわ」


「あの競技祭には、男しか出られないけどね……」


「心が戦士なのよ! 一番じゃなきゃ絶対に嫌だなんて、誇り高いわ」


「さすがはアタランタよね!」


 仲間たちが口々に言いあうなか、


「ウオオオオォ! くやしい! 負けたまま家に帰るなんて、私には、とても我慢できないッ!」


 アタランタは、がばっと立ち上がり、ボイスカに真っ向から指を突きつけた。


「スタディオン走だ、ボイスカ! 最後に、スタディオン走で勝負しろッ!」


「オーッホッホッホ! 往生際が悪くてよ、アタランタ! 今日のところは、あなたの負け。敗者はおとなしく……」


のか?」


 アタランタの、その一言に、ボイスカの動きが、ぎしりと止まる。


「おやおやぁ?」


 ボイスカの反応に脈ありと見て、アタランタは、さらに煽った。


「まさか……私の長年の宿敵、ボイスカともあろうものが、自信がないからって、敵前逃亡するつもりなのかなぁ?」


「オーッホッホッホ! くそたわけたことをぬかさないでちょうだい、アタランタ! このあたくしが、挑戦を受けながら、その相手を叩き潰さずに見逃すことがあるとでも思っているのかしらッ!?」


「よっしゃあッ! それでこそボイスカ、私の宿敵! 勝負だァッ!」


「オーッホッホッホ! あたくしは別にいいけれど、あなたは大丈夫かしら!? スタディオン走でまで、あたくしに敗れたら、あなた、その場で憤死してしまうかもしれなくてよッ!?」


「望むところ……!」


 両手の拳をにぎり、口の端から炎が漏れ出そうな勢いで、アタランタ。


「おめおめと敗残の姿をさらし続けるよりも、自らの力至らぬを嘆きながら倒れるほうが美しいッ!」


「また出たわ! アタランタの名台詞!」


「名台詞……なのかしら、あれ……?」


「誇り高いわ! スパルタの戦士のかがみね!」


「まあ、あたしたちは男じゃないから、戦士ではないけどね……」


ッッッ!!」


 急に、クレイオ先生の腹の底からの「否」が響きわたり、乙女たちは飛び上がった。


「たしかに、戦場で盾と槍を持ち、戦列を組んで敵に向かっていくのは、男たちだけだ。……しかしッ!」


 一同を見据え、クレイオ先生は力強く語った。


「戦場に立つことだけが、戦いではない! 男には、男の戦いが、女には、女の戦いがあるのだ! スパルタのために一命をかけねばならぬ、峻厳しゅんげんなる戦いの場がなッ!」


「そ、そうだったわ!」


 クレイオ先生の言葉に、どよめく乙女たち。


「女が、命をかける戦い……それは、子を宿すこと、そして、子を生むこと!」


「スパルタの戦士を生むことも、スパルタの戦士の母を生むことも、私たち女にしかできない仕事……! それが、私たちの戦い!」


しかり!」


 重々しく、クレイオ先生。


「我々は、その戦いに勝利をおさめるためにこそ、心身を鍛錬するのだ! 強き精神、そして、強き肉体! それらを得るために、より高みを目指そうという心意気、すばらしいぞ、アタランタ!」


「……えっ? ……あっ。ハイ!」


「なんだ、急に、気が抜けたような返事をして。もっと、腹の底から声を出さんかッ!」


「ハイッッッ!!!」


「よし! スタディオン走の用意をしろ! 皆で、勝負を見届けるぞ!」


 アタランタとボイスカは、ヘライア祭に出場する乙女たちがするように、勢いよく片肌を脱いだ。

 仲間の乙女たちのひとりが、すばやく地面に線を引き、スタートラインを作る。

 別の乙女は、歩幅で距離をはかりながら向こうまで走っていって、ゴールラインを引き、そのかたわらに陣取った。

 きわどい判定にもつれ込んだ場合の審判役を、みずから引き受けようというのだ。


「両者、位置について!」


 スタートラインの横に立ったクレイオ先生が、闘志に燃えるふたりの乙女――ふたりの選手を制するように、片手を突き出す。


「用意……」


 並んで立ったボイスカとアタランタの体が、ぐっと沈んだ。

 その様子はまるで、獲物に襲いかかる寸前の獅子のよう、限界まで引き絞られた弓のよう――


「始めッ!!」


 ふたりの乙女は、同時に飛び出した。

 太腿を高くあげ、両腕を振って、猛然と走る。

 まるでトロイア戦争の英雄、怒りに燃えて宿敵ヘクトルを追うアキレウスの、その疾走のごとき熾烈さで――


「ウオオオオオオォッ!」


「シャアアアアアアッ!」


 約178m1スタディオンの距離を全力で駆け抜けたふたりの耳に、ゴールラインに立っていた乙女の叫びが届く。


「勝者! ……アタランタッ!」


「ウオオオオオオ! やったァァァ! 勝ったぞオオオオォ!」


「キイイイーッ!! くやしいーッ! アタランタ、覚えてなさい……!」


 馬の尾のようにくくった髪をおどらせながら跳ね回るアタランタと、キトンを噛んで悔しがるボイスカ。

 先ほどとは真逆の光景が展開されたところで、


「――と、いうわけで、今日はここまでだ」


 教え子たちの興奮を、すとんと鎮めるように、あっさりとした調子で、クレイオ先生。


「ボイスカ、この雪辱は、また明日な。……さあ、みんな、泉に水浴びに行くぞ!」


 その言葉が出たとたん、


「よっしゃあ! 厳しい鍛錬の後の水浴びこそ至高ー!」


「オーッホッホッホ! 冷たいお水で、ほてったお肌を引き締めたいわ!」


 真剣勝負の熱く緊迫した空気は、一瞬でかき消え、乙女たちの明るくはずんだ声がひびく。


「ああ、もう、私、全身汗まみれ!」


「はやく冷たい水で顔を洗いたいわ!」


「髪も洗って、すっきりしたいわねえ!」


 きゃあきゃあと盛り上がる教え子たちを、クレイオ先生は満足げに眺めていたが、次の瞬間、


「むっ!?」


 と急に視線を鋭くし、


「シャアッ!」


 目にもとまらぬ速さで拾った小石を、裂帛れっぱくの気合で投げ放つ!

 小石は、うなりをあげて飛び、すこし離れた茂みのなかに消えた。


「グッ」


 と、なにやら低いうめきが茂みのなかからかすかに漏れたようだったが、それ以上は、葉の揺れひとつ起こらなかった。


「あれ? ……どうしたんだ、クレイオ先生?」


「獣でも、ひそんでいましたの?」


 ふしぎそうに問うたアタランタとボイスカに、


「いや」


 クレイオ先生は、豪快な笑顔を見せた。


「なんでもない。どうやら気のせいだったようだ。……さあ、みんな、整列しろ。泉に向かうぞ!」

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