風のアタランタと沈黙の牡牛
キュノスーラ
第1話 タウロス
「おや、おまえがここに来るとは、めずらしいのう。十五のときに、そこをオオカミにやられて以来じゃないか?」
問われて、タウロスは、重々しくうなずいた。
いかつい顔面に、四条の深い傷痕を走らせた、見るからに
伸ばした金髪を無造作にくくり、背は高く、体格はがっしりとして、これ以上ないほどに鍛え上げられていた。
「薬草のじいさん」こと老アナクサンドリダスは、しわしわの顔をしかめて、目の前に立っている「患者」――タウロスの全身を、すみずみまで観察した。
タウロスは、古びた布一枚を腰に巻いただけの、はだか同然の姿だったから、新しい傷がどこにもないことは、
「さては……そこかッ!?」
がっしりとした腰をびしりと指さしてきた老アナクサンドリダスに、タウロスは、静かにかぶりを振った。
「なんじゃ。では歯痛か、腹痛か、それとも頭痛か?」
「痛みは、ない」
タウロスは、ぼそりと答えた。
彼らが暮らす都市国家スパルタにおいては、寡黙であることが美徳とされる。
そのスパルタにおいてさえ、タウロスは「無口」と評判の若者だった。
最低限の内容を、低い声で
「ほう?」
だが、付き合いの長い老アナクサンドリダスには、タウロスが別に怒っているわけではないことがわかっていた。
単に、これが
「ならば、どんな症状じゃ? 説明せい」
「心臓が、ひどく打って、苦しい」
「なに? それは、神殿に祈祷を頼みにいったほうがよいやつではないのか? 今もそうなのか?」
「いや」
「いつ、そうなるのじゃ? 運動したときか?」
「ちがう」
「休んでいるときに、急にそうなるのか?」
「ちがう」
「朝、昼、夕方、夜のいつじゃ?」
「朝とか、夜とかいう話ではない」
「なに? まったく、面倒くさいやつじゃな。たしかに寡黙は戦士の美徳じゃが、必要な報告もできん者は、戦士失格じゃ! くわしく話せ!」
言われて、タウロスはしばらくのあいだ、岩のような顔で押し黙っていたが、やがて、
「あるものを、見ると、そうなる」
と、ぼそりと言った。
「ほう? その『あるもの』とは?」
「そのあたりを走っている。……二本の足で」
「二本足? ガチョウか、ニワトリか?」
「ちがう」
「ああもう面倒くさい、激しく面倒くさい。自分でしゃべらんかい!」
タウロスはふたたび長いあいだ黙り込んでから、ようやく、押し出すように言った。
「女だ。……どうした、じいさん。なぜ立ち去る」
「心配して損したわい。わしはもう行く」
「待ってくれ」
まだ青いザクロの実でも握りつぶしそうなごつい手が、老人の肩をがっしとつかむ。
「俺は、困っているのだ。治してくれ」
「その症状につける薬はないわい」
「飲み薬でもいい」
「そういう話ではない。そもそも、それは、病じゃないからな」
「なに? まさか、呪い……」
「なんでじゃい」
老アナクサンドリダスは、タウロスの分厚い胸板をべちんと叩き、痛そうに手を振った。
「あのな。その『女』というのは、女ならば、誰でもそうなるのか?」
「ちがう」
「誰か、きまった女なんじゃな?」
「女というか……娘だな」
「どこの娘じゃ?」
タウロスは、今までで一番長く押し黙った。
老アナクサンドリダスが、あやうく立ったまま居眠りしかけるほどの時間がたって、ようやく、
「エウリュメドン殿の娘だ」
と答えた。
「あそこは娘が三人おるじゃろ。あ、一番上は、もう嫁に行っとるし、三番目は、まだ赤ん坊……となると、二番目か。アタランタじゃな」
ずばりと言った老アナクサンドリダスに、タウロスは、かすかにうなずいた。
「よしよし、わかった、わしに任せとけ。そんじゃお大事に」
「待ってくれ」
数多くの対戦相手を大地に叩きつけてきたタウロスのごつい手が、出ていこうとする老人の肩を、ふたたびがっしとつかむ。
「薬草は?」
「病気じゃないから、薬草はいらん」
「では『任せとけ』とは?」
「わしが、うまいこと話を通しといてやるというんじゃ」
「話? 誰に?」
「アタランタの父親の、エウリュメドン殿に決まっとるじゃろうが」
「何の話を?」
「タウロスが、おまえんとこの娘に恋しとるから、近々、家同士の話を――あだだだだ!?」
「恋……だと?」
自分が老人の両肩をつかんで宙に持ち上げていることにも気づかず、タウロスは、呆然とつぶやいた。
「この俺が……恋……だと!? まさか……そんな軟弱な……!」
「あだだだだ! 砕ける! 肩が! 粉砕する!」
「ウオオオオオォ!!」
老アナクサンドリダスをその場に放り出し、タウロスは、獣のように咆哮しながら部屋から駆け出していった。
彼は出ていく途中で部屋の扉に激突し、その衝撃で扉は完全に枠からもげたが、走り去ったタウロス本人は、その事実に気づいてもいないようだった。
「あたたた……」
老いたりとはいえスパルタの男、肩をごきごき言わせながら普通に立ち上がった老アナクサンドリダスは、枠からもげてぶら下がった扉に目をやり、ため息をつきながらつぶやいた。
「やれやれ。この恋、先が思いやられすぎるのう……」
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