アンダー・トウ
とまそぼろ
アンダー・トウ
閑古鳥が鳴いている。朝と呼ばれるものに妄執できたなら、これは大変喜ばしいことなのであろう。録音を十八番とするアプリケーションを開いて〝レック〟と小さく零してみる。すると、パブリック・イメージを額に貼っ付けられた太陽のような赤い丸は、輪郭の中に四つそこらの角を立てて不機嫌になっていた。
しかして仕事はこなすもの。それだけで、想いを寄せるには十二分。今私の臀部に敷かれている砂浜だって、きっと彼……或いは彼女が温めてくれたものだ。生来の恒星に、囁くように激励を投げる。それも直に、小さな水音と共に引き波に攫われて死んだ。生きていたとしても再会は叶わない。そういうものだ。そうであるから、人の刹那は艶めいていて麗しいのだ。
でも、本当はそうでないのなら。海に落とした激励や慕情や浅慮のひとつひとつが、憶えられているのなら。
朝を欠くは白痴。朝にだけ充足するのもまた白痴。四を捨てて五を拾うという決まり事は残酷だ。その道が荊棘であったかどうかに確と目を向けないで、ただ流されるように四よりも下を捨ててしまって、僅かに超えた五を愛おしいと嘯いて拾う。綺麗だと思うよ。何処までも無駄のない考えだと思います。どうせなら、そうだね。十という将来を嘱望されるに足りているほうがいいね。磨けば、誰かの満足に嵌るかもしれないから。
捨てられた四より下は焚べられる。明るべき五の薪になって。誰かの為に焚べられるなんて、どれだけ人が出来ているんだろう。これ以外には人倫に悖るような表し方しか私は知らないから、ただ、彼彼女らが北風に曝されながら火種を待つ集積場を眺めている。
そこでは、半ば形を留めていないような双眸で見据えて、羸痩した腕に手指で薪を運ぶ老人もよく見かける。その老人は、今朝に浴室で見かけた私にようく似ていた。さらばえた私は膂力に欠けているらしい。何かに疲れて、得体の知れない者に憑かれているみたいだった。でも、そうだな。誰かが憑くことで五として扱われるのなら、誰かが憑依してもいい。いやダメ。私の落書きは私のものだ。替えの効く四より下のそれだろうに、どうにも私はそこだけには執着を覚える。
『Only undertow remembers graffiti』
〝世界でいちばん短い詩〟なんて腰巻をした、心を寄せる詩集の一節。私の無い頭で思いつく限りは、十に最も近い小説だ。繰り上げる必要のない完璧。老いも死にもしないのだから、消化器官や生殖器の要らないような、誰にだって飾り付けられない絶対。
他には何があったかな。これが大きくて思い出せない。まあ人生なんてそんなものだ。重たいものは海馬の奥底に沈んでゆくし、一度底に着いてしまえば、見た事のある、あまり見る事のない思い出が錆を付けてお終い。時折泡を吐いて、それが水面に弾けた時に仄かに思い出せないやるせなさだけを覚える。それが大抵だ。世の常だし人の常。思い出せないことが愛おしいのなら、随分変わった人ですね。詩人とか向いてるんだと思います。沢山噛み砕ける立派な永久歯が生え揃っているのだから、誇ってください。歯を出して笑ってください。きっと私の不出来な笑顔よりも、線を幾つか隔てたように映えますから。
『引き波だけが、砂浜の落書きを憶えている』
ふたつ息を呑んだ。そのうちのふたつが臓腑に落ちた。文学に明るいとは思えないのに、どうしようもなく宛てがなくなる想いがあった。今だってそうだ。波打ち際に立ち竦んで、忙しなく満ち干きを止めない波に翻されたり弄られたりしながら、稚くて拙い手遊びとして落書きをしている。
書いては消されて、書いては消されて。文学性なんて欠片ひとつもない。砂粒ひとつはあるのかもしれないけれど、水で手を拭えば失くなるから、それは無いのと同じなんだろう。曖昧な母親の似顔絵や、話し言葉のひとつやふたつを消す甲斐なんてきっとどこにもないのに、海はやはり忙しなく訪れては帰って、私の指と砂浜の奏でる蛙鳴蝉噪を持ち攫っていく。
ちょっと可愛く描けた誰かの似顔絵が消されてしまうのは悲しいけれど、きっと引き波だけは憶えていてくれる。訊けも話せもしないのに、それだけをおまじないのように首元に掛けている。中でしゃりしゃりと鳴る砂粒が、替えの効かない宝物。例え四より下だと囃されても、誰にだって捨てられたくないと思う。
哨戒艇のひとつも出さずに私の前へと行き来する海水。ここまで人馴れしているのだから、恭しい振る舞いで返すことだって苦ではない。こんなに海は青いのに、どうして私は好いたり好かれたりが不得手なのだろうか。
今ここで波打ち際に身を擲てば、憶えてくれるのかな。好きなら憶えることは当然のタスクとして生まれると思うから、引き波だけが私という落書きを憶えてくれるのなら、海だけは私を好いてくれるはず。
そう思うことで少しだけ心は凪いでいくけれど、やっぱりそこまで烏滸がましくはなれない。どうせなら、もっときれいな、目を引くことのできる落書きになりたいし。
誰だって、忘れられたくはないだろう? 目を引くだけの象りひとつも手繰らないくせにね。愛せる自分の象形すらも曖昧なのに、愛されようと自惚れるな。私は私の道を往きます。その道が、全てこの広いだけの悠然とした群青に続いていることを信じています。
四から下も、五から九、元から十だっていい。頑張って歩いた道程が示す数字がそうであるのなら、おしなべて十として扱ってくれようこの泰然自若の体現者、その足元に、誇れるだけの落書きをしたためることのできる自由を、私は心より望んでいます。
攫われた私やあなたは、きっと忘れられやしない。いずれは還る母なる海が、さらばえた私たちをあやすように、懇到な手のひらで撫で付けるように、在りし日の追懐を示すように。
コートの裾を摘んだ。靴を履いたまま、満ちてくる小波を焚き付けるように波打ち際にステップを撒く。少し湿った爪先が愛おしい。私の足跡が乗せられていく白砂のカンバスが心地いい。潮風の風情に、もう録音は止まっていた。
拝啓、愛すべき落書きを生きる人。あなたの愛した落書きが、引き波に憶えてもらえますように。
アンダー・トウ とまそぼろ @Tomasovoro
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