第三章
Sの心を閉じ込めたのは、与えられた役割だった。帰るべき場所が、こなすべき仕事が、彼にとっての檻だった。他者のいない安全な世界だった。
守ってくれた。守りたかった。守るべきだと思っていた。世界が、自分勝手に守っているだけなのに。
家庭には妻の手料理があり、息子の呼ぶ声があった。新たな家族も律儀に尻尾を振って待っていた。そこには、誰が見ても変わらない平和があるに違いなかった。
Sは愛している平和を直視できなくなった。不貞を働く罪悪感が、彼に目を逸らさせた。
一時の快楽と彼女の未来を破壊することでしか成り立たない世界に逃避した。彼女の笑顔は彼を許してくれた。彼女の笑顔でしか彼は許されなかった。
それでもSは平和に固執した。それでも家に帰った。矛盾していた。罪悪感を感じることが、彼の存在が世界に認められるたった一つの手段だと信じた。
ある週末、Sは息子の幼稚園に来ていた。まだ午前中だというのに驚くほど日差しは強い。いっそ汗と一緒に自分が溶けて消えてしまえば楽だな、と思った。
昨晩の妻とのやりとりを思い出す。
「ねえ……明日幼稚園の参観だけど忘れてないよね?」
息子が寝た後のリビングで、予期せぬ確認。思わず妻の顔を二度見しそうになる。
「私言ったよねこの前、土曜日幼稚園のイベントだよって。」
言われたような気はする。言われたような気はしているが、モヤがかかってきちんと思い出せない。取り敢えずその場を取り繕おうとする。
「あ、いや、そんな……」
言い訳を構築するよりも早く妻が遮る。いつもより声が二段程低い。
「あのさ……大変なのはわかるんだけど、あなた最近家のこと全然気にしないよね。何かっていうと上司がー仕事がーって……上司は彼女か?仕事と結婚すれば?……もう疲れた。寝るわ。」
「あちょっと、待……」
声をかける間もなく、妻は寝室へ入っていった。バン、と強めにドアが閉められた。拒絶し始めたのだろうか。家庭がSを?それとも、Sが家庭を?
少なくとも俺はちゃんとしている。何がいけない。彼女との連絡は一人でいる時だけだ。彼女のことを考えることはあっても口には出してない。
彼女と離れて毎日家に帰って来てる。取り敢えず明日、謝ればいいか。謝らなければきっと壊れてしまうんだろう。
翌朝Sは家族の誰よりも早く起きた。足音に気付いたのだろう。チャッ、チャッ、とリズミカルに爪の音をさせながら、新たな家族が足元に擦り寄ってくる。
寝ぼけ眼で餌と水の交換をしてやると、Sが待てというよりも早く餌を食べ始めた。諦めて冷蔵庫に固定してある参観日のお知らせを読んだ。
通園カバンの支度を済ませた。その後手を洗い、台所に立って妻と息子の好物であるフレンチトーストを作る。
何年か前は、こうしてよく台所に立った。息子が生まれてすぐの頃だ。
パンを卵液に浸しながら、体調がなかなか戻らない妻に代わって、家事のほとんどを担当していたことを思い出した。
平日とは違う、休日特有の平和な匂いと音が家庭を満たしていた。起きて来た妻はソファに腰掛け、まだSの方を見ない。
「昨日は悪かったよ。気をつける。」
「何が?」
ただの謝罪では妻の機嫌は治りそうにない。慎重に言葉を選びながらSは続けた。
「あの、ちゃんと話聞かなくって、ごめん。疲れてるからって聞き流してちゃダメだった。」
「それで?罪滅ぼしのために朝からご飯作ってるってわけ?」
まだ妻の声は普段より一段低い。
「そういう訳じゃ……いや……」
そんな風にしどろもどろになっていると、小さく元気な足音がリビングへ近づいてきた。
「まぁいいや。取り敢えず話くらいはちゃんと聞いてよね。特にあの子のことちゃんと構ってあげて。最近寂しがってなかなか寝付かないのよ。もうこの話は終わりね。」
声は低いままだったが、若干刺々しさが減っているように見えた。リビングのドアが勢いよく開く。
「おはよー!おなかへったなー……何かいいにおいする!パパが作ってるの?なになになに?」
言葉に合わせて大袈裟なくらいに動作を付けてくる息子に
「何だと思う?好きなやつだぞ、当ててごらん。こっち来て見たら反則だからな?」
とSも合わせて大袈裟に聞く。
「ぼく好き嫌いないよ!ホットケーキかな?ねえ、ホットケーキ?」
「惜しい!正解は……」
「まってパパ言っちゃダメ!まってまって!」
Sと息子がふざけあっている内にフレンチトーストは完成した。何の変哲もない家庭的な味。平凡な味。何だかんだ三人で話しながら食べた。
ポケットの中でスマートフォンが震えた。起き抜けに、台所へ向かうよりも先に連絡していた彼女からの返信だろうか。
妻子のことを考えるよりもまず、彼女のことを考えるようになっていた。過ごす時間と気持ちの軽重は既に相関関係には無かった。
いつの間にかSの家庭生活は、彼女との関係性の上に成り立つ蜃気楼に成り果てていた。
参観している間、息子はとても元気だった。そわそわしながらしばしば大人たちの方を見ては、両親を見つけると恥ずかしそうに、何より嬉しそうにニコニコと笑った。
何故か妻はSを見詰めていた。
親子で一緒に工作する時間では「パパもママもあんまり全部しちゃダメだよ!ぼくがやるの!」と大きい声で主張したが、声の根本には楽しさが宿っていて、あくまで幸福から来る興奮だった。
誰がどう見ても幸せな三人家族に見えた。
休憩時間になり、息子は「おともだちと遊んでくる!」と言い残すと元気に園庭に出ていった。
颯爽と駆け出した背中に何故だか彼女の後ろ姿が重なる。何度か頭を振って幻覚を振り払った。
気を取り直して辺りを見回すと、教室の掲示スペースには園児たちが描いた絵が飾られていた。家族の絵だった。
それぞれの家族は皆一様に笑顔だった。Sはその中に息子の描いたものを見つけた。一際楽しそうな絵だと感じた。
真ん中には息子がいて、隣に舌を出した小さな犬。その両隣を囲んで妻と自分が描いてあった。
ふと、なぜ自分の隣に彼女が描かれていないのかと不思議になった。同時に、実は自分の隣に彼女が描き込んであるという確信的な錯覚を覚えた。
瞬間、以前風呂場で感じたあの視線が刺さる。無感情な、一番触られたくない部分を舐め回す視線。壁一面の家族達がSを見つめていた。
絵からは笑顔が消えていた。脂汗が額に滲む。一歩も動くことができない。隣で妻が何か言っている。音が遠い。耳の奥が微かに灼ける。
自分の鼓動と無数の視線に支配される。
きっと、俺はこのまま世界に殺される。
妻がSの肩を叩いた。
「ほら、もう休憩終わってるわよ。」
そこで、世界が温度を取り戻した。
膨らんでいく自責の念が見せた幻だったのか、家族が無意識下で抱く疑念が形を持ち始めたのかはわからなかった。
報いだろうか。償えというのか。誰が。誰に。
何とか残りの参観を終えたSは、帰宅途中に家族三人で昼食を食べていくことした。最近休日も家を空けっ放しにしていたせいか、息子がねだった。
「パパとラーメンいきたい!」
無視はできない。いくつもの視線に刺された感覚が、まだ抜け切っていなかった。
動物を模したカマボコが載ったラーメンを美味しそうに頬張る息子と裏腹に、Sのラーメンは味がしなかった。
熱い湯に浸されたゴムを、半ば強引に食道に流し込んだ。
妻子が半分も食べ切らないうちに全て胃に流し込んだ。
「ごめんちょっとタバコ一本だけ吸ってくる」
Sは腰を上げようとした。
「やだー!まだ僕たべてるんだからここにいてよ!」
せがむ息子を背にしていると、妻は深くため息を吐き
「……早く行ってきて。」
とだけ言った。眼の奥には諦念が垣間見えた。
休日昼時の喫煙場所には、何かに疲れたような空気が充満していた。別におかしなことはない。活気に満ち溢れた喫煙所など見たこともなかった。
タバコに火を着けると、何故か無性に隣にいる男が気になった。視界の隅に入るか入らないか、着ている服もわからないくらいだった。
その男の周りにだけ、重油のように重く、空気が体中に纏わりつく。Sには誰なのかわかっていた。いつもの清掃員だ。
ここは職場じゃないのに。今日は晴れているのに。いる筈が無いのに。
「ニィちゃんおはよう、天気あんまよくねぇなぁ」
今日は晴れているのに。ここは職場ではないのに。自分の喉に石がぎゅうぎゅうに押し込まれる。苦しい。何も返答できない。
清掃員はSの意思とは無関係に、いつもと変わらない調子で話を続ける。
「こんな日はやる気が出ねぇよな、お互い辛いモンだ。」
清掃員は壊れた玩具のようにいつもと同じ会話を繰り返す。何だこれは。何なんだこれは。押し込まれた石がグッと密度を増した。
考えることもできない。この後に続く会話を。Sは間違いなく知っている……筈だった。
「ニイちゃん、おめぇホントは何がしてえんだよ。」
押し込まれた石が粉々に砕かれ、胃の奥がズシリと重くなる。
石は胃だけでなく、体中に飛び散ってコンクリートのように固まってSをその場に固定した。倒れることも許されない。
何処かへ逃げ出したいのに。耳を塞ぐことも許されない。何も聞きたくないのに。目を閉じることすら許されない。何も見たくないのに。
意思に反して顔だけが清掃員に引き付けられる。磁力、引力、重力。どれでもない理外の力。諦めた。見た。穴があった。目の位置に。自分が崩れ始める。
あぁ……俺は本当に何がしたいんだろう。
何がしたかったんだろう。
何をしていきたいんだろう。
自分を自分足らしめる何かが薄れていく。穴はこちらを凝視している。妻子も、彼女もいない。
それからどうやって家族の所に戻ったのか、どうやって家まで帰ったのか、どう自分を取り戻そうとしたのか。Sはぼんやりともそれを思い出すことが出来なかった。
歪んでいく自己とは無関係に、世界は平穏を保ち続けた。朝の人々は、相変わらずそれぞれの世界を守ろうとしていた。
他者に干渉したいという衝動は、彼女と関わっている限り満たされているように見えた。Sは、上司の顔が、声が、時折誰だかわからなくなる症状に悩まされていた。
見知った顔の上に、見知らぬ顔が上書きされた。声がノイズ混じりに聞こえた。
それでも、仕事に影響が出るほどじゃないと自分に言い聞かせて、仕事をこなすしかなかった。
通勤、仕事、家庭。通勤、仕事、家庭。通勤、仕事、家庭。通勤、仕事、……彼女。疲弊し切ったSを繋ぎ止めていたのは彼女との逢瀬だった。
世界を統べる女神から自分という存在の赦しを得るための懺悔が、彼を辛うじて世界に繋ぎ止めた。
もっとも、彼が実際に抱え込んでいる罪悪を曝け出すわけではなかった。大半は今日あったことや食べたもの、どこそこに行きたいだとか、次はいつ会えるとか。
いわゆる「普通のカップルがするような」会話がほとんどだった。体を重ねることは多かったが、重ねないこともあった。
「もう帰っちゃうんですか?まだ早いですよ。」
「そろそろ帰らないと……」
「どこに帰るんですか?Sさんの家ここですよ。」
「あ、いや子供の様子気になるし……」
「じゃあ、いいですよ。酷いですね。」
そう言うと彼女は少し大袈裟に、泣く真似をしてみせる。
「ごめん……また今度ね。」
「またあとでね。」
「いや……また今度。」
「またあとで。」
「私にも嘘吐くんですね。」
確かにそう聞こえた。現実か。幻聴か。
Sは家庭への影響を気にして、別れ際の彼女の要求に応えることはなかった。ある時、引き留められたSは何を思ったか
「じゃあ朝まで一緒にいようか。」
と言った。彼女を困らせたかったくらいの軽い気持ちだったのかもしれない。
「良いですよ。」
Sの想像していなかったであろう答えが返ってきた。一瞬の沈黙が流れる。
「……あの、そしたら多分、俺帰るとこなくなっちゃうけど、ずっと一緒にいてもいいの?」
「良いですよ。私は別に。」
彼女がどんなつもりでそう返したのか、本当のところはわからない。Sにそんな度胸は無いと内心揶揄ったのか。
──或いは、世界から切り離されても良かったのだろうか。
二人一緒に、底の見えない暗闇へ沈んで行って構わなかったのか。
彼女をどんなに神聖化しても。彼女にどんな言葉を囁いても。Sは、彼女を世界の一部としてしか捉えていなかった。全部には出来なかった。
選べば手に入ったかもしれない。二人だけで笑い合えたかもしれない。平穏ではなかったとしても。
手を伸ばせば届いたかもしれない未来。Sは有耶無耶にして逃げた。家庭に戻った。自分勝手な関係だった。
自分勝手な欺瞞だった。家庭にも。彼女にも。自分にも。そして、世界にも。
彼の心は鈍麻する。自分が何を望むのか。もうわからない。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます