第二章
Sの心を押し潰してきたのは、他者の世界だった。どんなに満たされていても、楽しそうに、嬉しそうにしている他者が、彼の存在を無価値なものに貶めた。
押し広げなければ。取り戻さなければ。関わらなければ。自分を誰かの世界の中に位置付けなければ、消えてしまう。世界に無理矢理、そう思わされた。
Sはある飲み会で彼女と知り合った。同僚から誘われた会社の懇親会。出不精のSにしては珍しく出席した。気まぐれな判断だったが、自分で決めた。
余り関わらない人もいるから、と幹事が口火を切り、簡単な自己紹介が始まった。入れ替わり立ち替わりに見知った顔と見知らぬ顔がSの視界に入っては消えていく。
瞬間、息を呑んだ。体の奥底に灯が点いた。犬を飼ってるんです、と言いながら軽く笑って見せた彼女の八重歯に心を奪われた。綺麗だな、と思った。
身長はSと同じか少し大きいくらいで、ハッキリとした喋り方をする女性だった。狐か狸かで言えば狸に近いな、と思った。
芯の中に柔らかみを感じさせるような雰囲気だった。きっといい子なんだろう。関わりたい。彼女の人生に影響したい。
自分の感情に一瞬戸惑ったが、自分を飲み込まんとする衝動を、なんとなく彼女の笑顔が許してくれた気がした。
少年が砂浜で一片のシーグラスを見つけた時のように、自己紹介の間中彼女から目が離せなかった。
挨拶が終わると、Sは彼女に話しかけた。
「あの、こんなこと初対面で言うことじゃないんですが、お綺麗ですね。」
「はあ……ありがとうございます。」
「犬っていいですよね。ウチも今飼おうかって話してて。」
Sは特別動物嫌いというわけではなかったが、進んで家庭に迎え入れるつもりはなかったし、これまで家庭ではペットに関する話題は避けてきていた。
「そうなんですか?」
「はい、だから色々と教えてください。犬のこと。」
「あ……まぁ良いですけど。」
結局、困ったように笑う彼女から、Sは連絡先を手に入れることが出来た。推しの強さが功を奏したのか。
内側に閉じ込められていた思い込んだら止まらない性質は、この頃から、じわりとその境界を広げ始めていた。
普段なら見過ごされなかっただろう違和感は、酒の席だから、と喧騒に紛れて流れていった。
Sの行動は早かった。丁度日を跨ぐか跨がないかくらいの時間に帰宅すると、寝室に向かおうとしている妻を引き留め、唐突にこう切り出した。
「そろそろウチもペットとか……犬でも飼わない?」
「何?急に?今まであの子が欲しがったって、あんまりよく言わなかったじゃない。」
「新しい上司が犬好きでさ、君も飼ってみなさいって結構しつこいんだよ。いきなり嫌われるわけにも行かないだろ。」
そういえば、この前異動があった気がする。神経質でしつこくて、犬好きな上司がやって来たんだった。
「……あの子も喜ぶだろうから反対はしないけど。世話とか、お金とか大丈夫なのね?遅いからもう寝るわ、おやすみ。」
長年の付き合いから、夫が一度こうと決めたら譲らないことを知っている妻は、一呼吸置いてそう答えると寝室へ入っていった。
次の休みの日、Sは家族と犬を買いにいった。
「この子かわいい!こっちの子はおっきい!」
以前からペットを欲しがっていた息子は、店内を走り回り喜びを全身で表現した。
程なくしてケージの中で忙しなく走り回る一匹の小型犬を気に入り、家に迎え入れることにした。
「ちゃんとお世話しないとダメだぞ、散歩行けるか?」
「わかってるよぉ!散歩だって行けるし。パパも可愛がってよね!」
「ちょっと……あなたが飼うって言い出したんだから、この子だけに任せないでよね。」
「ねー、この子おはながかわいいからハナちゃんって名前にしていい?ぼく決めたからね!いい?」
そんな他愛のない家族の会話をこなしながらも、Sは彼女との繋がりを得るための道具を手に入れたという喜びで満たされていた。
新たな家族を迎え入れてからの不慣れな数週間は慌ただしく過ぎていった。そんな状態でもSは、何かにつけて彼女へ連絡を繰り返した。
「犬飼い始めました!」
最初はただの報告だった。
「ホントに飼い始めたんですね!」
彼女からの返信も儀礼的なものだった。掴んだか細い糸を離さないよう、Sは慎重に返信をしていく。
「こんな子です!鼻が可愛いと思うんですがどうでしょうか。」
写真付きのメッセージを送った。
「確かに!シーズーにしたんですね。ちっちゃくて可愛い。」
少しずつ、文字数が増えていく。
彼女からのメッセージがアプリの最上段に表示される度、Sは胸の奥がこそばゆくなった。心の中の柔らかい部分を優しく撫でられている、そんなむず痒さ。
恋心と言う程のものではない、ただ、綺麗な女性と関われた嬉しさだった。
最初こそ彼女は事務的な返信を繰り返していた。職場の関係を前提にした、良く言えば節度のある、悪く言えば線を引いた対応だった。
Sがぶつける熱量から常に半歩下がっていて、一律に冷たかった。
その温度差が、Sの内に潜む衝動に火を注いだ。粘着質な連絡は、功を奏していた。一日一通の短い電子文通は、二人の間で習慣になった。
起床の挨拶から就寝の挨拶まで、時には仕事中かどうかも問わずに繰り返されるようになった。彼女からの返事が届く度、だらしなく頬が綻んだ。
取るに足らないやり取りを無数に繰り返し続ける中で、そこには惰性とも執着とも形容し難い、異常な関係性が出来つつあった。
やがて、Sは彼女と会うようになった。最初は仕事終わりの数時間だった。駅前の喫茶店で、その日あったことを報告し合う。
「今日は忙しくてずっと動きっぱなしだったんだよね。足がヤバい。」
「私も今日は電話鳴りっぱなしでめちゃくちゃ疲れました。」
「大丈夫?無理して体調崩さないようにしないと。」
「はい、早く寝ないとですね。Sさんも気を付けてくださいね。」
小さな、裏切りとも言えない細やかな逸脱だった。それが終わるとそそくさと喫茶店を後にして、Sは帰路に着く。
後ろ暗さはあった。事実を捉えれば同僚とお茶をしただけ。何もしなければ何もない。だが気持ちがあった。
いつの間にか彼女を好いていた。干渉してはいけない。わかっている。それでも関わりたい。彼女の人生に、爪痕を残したい。
平和を愛しているのに。家庭を愛している筈なのに。
葛藤は、家庭への言い訳と一緒に全て新しい上司のせいにされた。家庭では何も知らない妻子と新たな家族が帰りを待っていた。
「おかえりパパ!ハナちゃんね、トイレできるようになったんだよ!褒めてあげてよ。」
新たな家族を愛おしそうに撫でながら言った。
「偉いな。」
とSが声をかけていると、部屋の奥から妻が声をかけてきた。
「今日遅かったけど何かあったの?」
「ごめん上司替わってから上手く職場回ってなくて、それで。」
「お疲れ様。ご飯食べるでしょ?冷めちゃったけど。」
「あぁ……あ、だからこれからは忙しいと思う。遅くなる時はなるべく連絡するから。」
「え、あんま無理しないでよ。」
Sは彼の世界で起きている事実を誠実に伝えていた。誠実に伝えているのに、何かを話す毎に体から熱が奪われていった。
冷めた夕食を温め直していると、新たな家族が擦り寄って来た。
遊んで欲しいのだろうか、彼女が勧めてくれた骨型のぬいぐるみを咥え、はち切れんばかりに尻尾をふりながらSを見つめてくる。
夕食を取りながら何度もぬいぐるみを放り投げてやると、満足したのか膝の上に飛び乗ってきた。
今度は腹を見せて構うようにせがんだ。ひとしきり要望に応えると、新たな家族は満足したのかゆっくりと寝床へ戻っていく。
元々思い入れはなく、思惑だけで迎え入れた新たな家族だった。
しかし、彼女との関係性──彼が感じている言葉で言い換えれば絆──が構築できた今となっては、その後ろ姿はある種の神聖性を帯びて見えた。
神そのものではないにしても、神が自分と彼女を繋ぎ合わせるために遣わした使徒であるかのように感じていた。
Sは妻から見えないようにそっと手を合わせ「ありがとう」と呟いた。漏れ出た言葉が誰に向けたものなのか、Sにもわからなかった。
ただ、言葉にしなければ世界の一部が腐れ落ちる気がした。
一つの小さな嘘はさらなる嘘で塗り固められ、芋蔓式に嘘が呼び込む重荷に気付くことは滅多に無い。
本人が嘘を自覚していなければ尚更だ。重荷は徐々にSの心を圧迫し、知らず知らずの内に心のバランスを狂わせる。
リビングは、いつもと変わらない朝を繰り返していた。Sが支度を終え部屋を出ようとすると、後から起きてきた息子が少し怪訝な顔をしながら父に声をかけた。
「おはよーパパ、なんか靴下変だよ?」
Sが足元を確認すると、そこには趣味の悪い道化師のように左右異なる靴下を履いた自分の足があった。
「あ……ホントだ。」
そう答えると慌てて部屋に戻り、揃いの靴下に履き替える。息子は「この前も間違えてたじゃん。」と軽く笑っている。
最近のSはどこか虚ろだった。ネクタイの結び目は歪になりがちだった。
質問に対する回答が噛み合わず鈍色の沈黙が流れることもあったが「大丈夫?」と聞く妻に「疲れてんのかな……」と答えればそれで終わる程度の小さな歪みだった。
未だ世界は平和なままだ。
何の変哲もない平日の朝だった。会社の喫煙所は普段通りの光景を映す。視界の隅に件の清掃員の姿を見つけたSはどこか嬉しくなった。
隅にいる清掃員にゆっくりと近寄ると、話しかけられた。
「ニィちゃんおはよう、天気あんまよくねぇなぁ。」
「えぇ、そう言えば最近あんまり会わなかったですけど、オヤジさん何かあったんですか?」
「こんな日はやる気が出ねぇよな、お互い辛いモンだ。」
「そうだったんですね、久々に話せてよかったですよ。」
「はは、違いねぇ。まぁ今日も頑張ろうや。」
その日一日Sはいつもよりも気持ちよく仕事が出来た。胸の引っ掛かりは綺麗に無くなっていた。
同僚が清掃員の存在を知らなかったのは偶々だったと、はっきりしたからだった。やっぱりちゃんと居たじゃないか。清掃員の名前は思い出せない。
道ならぬ恋ではあったが、Sと彼女二人だけの世界は順調だった。Sは彼女を愛しているつもりだった。
何事もない自分の世界に舞い降りた救世主とさえ感じていた。彼の干渉衝動を満たしてくれる唯一無二の女神だった。
彼女はSを憎からず思っていた。
二人の気持ちには温度差があった。だがその温度差は相手に伝わる頃には薄まり自分の体温と混ざり合い、心地良いものとなった。
裏切りの時間は暦の経過と共に増えていった。裏切りの舞台は駅前の喫茶店から人も疎なレストランへ。レストランから個室の居酒屋へ。
段々と人目に付くことを気にするようになった。
「今日も嘘吐いて来たんですか?」
「え?いやいや、新しい上司のせいで忙しいって言って。」
「嘘吐き、ですね。」
「……。」
虚像に塗れたSの視線と彼女の視線が交錯し、熱を孕む。少なくともこの一時において、Sの双眸には世界の全てが極彩色に映っていた。
Sは彼女と関係を持った。
彼女になら殺されても構わないな、と思った。
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