第4話 彼女のためのレシピ

シン、と静まり返った厨房に、蜜柑は一人、立ち尽くしていた。

左手の甲で、自分の右頬にそっと触れる。

昨夜、ルシエラに舐められた場所。

洗っても、こすっても、まだあの生温かく湿った感触が、皮膚の下にこびりついているようだった。


(食べ、られた……)


あの瞬間。

恐怖は、確かにあった。

だが、それ以上に。

腰が砕けるような抗いがたいと、脳が痺れるようなが、蜜柑の全身を支配した。


(私、何を……)


マロンクリームの甘い香りが、昨夜の記憶を呼び覚ます。

『次は、君のを、私が直接味わってやるからね』

あの妖艶な脅し文句。

それを思い出すだけで、コンプレックスだったはずのマシュマロボディが、じわりと熱を帯びる。


(ダメ、ダメだ、私……!)


蜜柑は、ぶんぶんと頭を振った。

(流されてる! あの人はサキュバスなんだ! たぶん! だから、あんな……あんな……!)

あれは、魔術か、幻惑の類に違いない。

そうでなければ、あんなイタズラをされて、嫌悪感よりも先に「困惑」が来るはずがない。


(私は、パティシエなのに……)


蜜柑の視線が、厨房の隅に追いやられた、昨日の失敗作――カシスソースの焦げ付いた鍋と、ボウルに残ったマロンクリーム――に落ちた。

そうだ。

昨夜、私が一番のは、頬を舐められたことじゃない。

パティシエとして、お客様に「お菓子がない」と言わせてしまったことだ。

あの美しい捕食者プレデターに、無防備な失態を晒してしまったことだ。


(舐められた……)


いや、違う。

(舐めんだ)


あのルシエラという女は、蜜柑の「失敗」をこそ、楽しんでいた。

『ちゃんと、あったじゃないか。今日のお菓子』

そう言って、蜜柑の肌から直接クリームを味わった。

それは、蜜柑にとって、調理台を直接舐められるにも等しい、職人としての屈辱。


「……上等じゃない」


蜜柑の瞳から、困惑の色が消えた。

代わりに宿ったのは、オーブンの種火たねびのように、静かで、しかし確かなの炎だった。


(怖い? 食べられる?)

(恥ずかしい? イタズラされる?)

(それが、どうした)


「私は、パティシエだ」


蜜柑は、エプロンの紐を、昨日よりも強く、強く、結び直した。


「二度と失敗しない。二度と、あんな顔はさせない」

昨日、ルシエラは心底楽しそうに笑っていた。

蜜柑の「失敗」をあざ笑うかのように。


「今度は、私の『成功』で、あなたの顔を歪めてやる」

あの恍惚とした表情を、もう一度。

いや、あれ以上の顔を。

「美味しい」と、泣いて懇願するほどの、完璧な一皿を。


(そのためなら……)


蜜柑は、店の入り口に「本日臨時休業」の札を下げた。

客は、ルシエラ一人でいい。

今日一日は、あの女のためだけに、私のすべてを注ぎ込む。

これが、天才・佐倉蜜柑の、パティシエとしての挑戦状だ。


***


厨房は、戦場と化した。

蜜柑は、まずルシエラの「好み」を分析することから始めた。


ショートケーキ(純粋な甘さ、クリームと生地の調和)。

シュークリーム(隠された甘さ、皮とクリームの食感)。

モンブラン(栗の芳醇さ)。

オペラ(カカオの苦味と香り)。


(……共通点が、ない?)


いや、ある。

彼女は、常にに感動していた。

酸味と甘味。軽やかさと濃厚さ。

そして昨日。

蜜柑の肌ので温められた、マロンクリーム。


(温度……!)


そうだ。

あの女は、味覚が異常に鋭敏えいびんだ。

昨日、頬のクリームを舐めただけで、「肌のぬくもりで芳醇さが増していた」とまで言い当てた。

ならば、今度の武器は「温度」だ。

熱いものと、冷たいもの。

その二つが、口の中で出会う瞬間の、鮮烈な驚き。


(決まった)


蜜柑は、レシピ本を本棚から引きずり出した。

パラパラとページをめくる。

クレープ・シュゼット。ベイクド・アラスカ。フォンダン・ショコラ。

古典的な温かいデザート。


(ダメだ。これじゃ、あの女は驚かない)


蜜柑は、レシピ本を床に叩きつけた。

天才と呼ばれる所以ゆえん。それは、既存のレシピの模倣ではない。

素材の声を聴き、それを再構築するにある。

蜜柑は、目を閉じた。

ルシエラの赤い瞳を思い浮かべる。

彼女が、今、何を欲しているか。


(……これだ)


蜜柑は、冷凍庫の扉を開けた。


そこから、蜜柑の狂乱の試作が始まった。

まず、アイスクリーム。

ルシエラが絶賛した、あの「絹のような」生クリーム。あれだけを使い、卵黄や香料を一切加えず、クリームそのものの風味を極限まで引き出した、純白の「クレーム・グラッセ」。

甘さは、和三盆わさんぼんでごく僅かに。


(冷たさが、足りない)

試作一号を味見し、吐き捨てる。

(もっと、突き刺すような冷たさ。なのに、舌触りは滑らかに)

液体窒素?

いや、そんな機材はない。

蜜柑は、塩と氷を使い、原始的ながらも急速に冷却する方法で、アイスの組織を極限まで細かくした。


次に、熱いソース。

(カシスの酸味は、昨日の失敗で使えない)

ならば、苦味だ。

ルシエラは、オペラの時に「カカオの苦味」に反応していた。

高カカオのチョコレートを湯煎で溶かし、そこにエスプレッソの原液を垂らす。

(苦すぎる!)

試作二号。

(甘さが足りない。でも、砂糖じゃない)

蜜柑は、戸棚の奥から、一瓶の黒い液体を取り出した。

長期熟成させた、バルサミコ酢。

それを数滴。


(……!)


味が、爆発した。

チョコの苦味、エスプレッソの香り、そしてバルサミコの芳醇な酸味と甘味。

これだ。これが、あの女を挑発する「熱」になる。


最後は、それを受け止める「器」。

クレープ?

いや、薄すぎる。

スポンジ?

昨日までの繰り返しだ。


蜜柑の視線が、昨夜焦がした鍋の横にあった「栗」に止まった。

(……これよ)


栗のペーストを、裏ごしし、少量のバターと生クリームでのばす。

それを、薄い円盤状にして、フライパンで表面だけをキャラメリゼする。

栗のガレット。

それ自体が、熱と冷たさを繋ぐ、温かい「皿」になる。


厨房は、試作品の残骸で埋め尽くされた。

蜜柑のコックコートは、チョコレートとクリームで汚れ、額には汗が滲んでいる。

だが、その目は爛々らんらんと輝いていた。

【試作の山】。

それは、蜜柑の情熱そのものの顕現だった。


(できた……)


時計は、午後六時五十分を指していた。

蜜柑は、疲労困憊の体でシャワーを浴び、新しいコックコートに着替えた。

厨房を完璧に清掃し、カウンターを磨き上げる。

まるで、決闘を待つ剣士のように、静かな緊張感が彼女を包んでいた。


カラン、コロン。


午後七時。きっかり。

ルシエラは、昨日と同じ笑みを浮かべて、そこに立っていた。


「こんばんは、蜜柑」

彼女は、店内を見渡した。ショーケースは、空だ。

だが、昨夜とは違う。

厨房は完璧に片付き、蜜柑は、一点の曇りもない瞳で、彼女を待ち構えていた。


「……ほう? 今日も、お菓子はない、と?」

ルシエラは、楽しそうに喉を鳴らした。

「ならば、約束通り――」


「お待ちください」

蜜柑は、ルシエラの言葉を遮った。

「本日のお菓子は、たった今から、あなたの目の前で仕上げます」


「……何?」

ルシエラの笑みが、驚きに変わった。


蜜柑は、カウンターにポータブルコンロを設置した。

小さなフライパン。銀のトレイ。

そして、冷凍庫から取り出した、カチンコチンに凍った純白のアイスクリーム。


「これは……」

ルシエラの赤い瞳が、蜜柑の手元に釘付けになる。


「昨夜、あなたは私の『肌のぬくもり』を評価してくださいました」

蜜柑は、冷静に告げた。

「ですから、今日は、私があなたのためだけに『熱』を作ります」


蜜柑は、フライパンに火をつけた。

栗のガレットを乗せる。

じゅう、と甘く香ばしい音が、静かな店内に響いた。


「……その前に、一つだけ、お聞きしても?」

蜜柑は、手を止めずに尋ねた。


「何だ?」

ルシエラは、ゴクリと唾を飲んだ。


「あなたの『好み』を、正確に知りたいのです。甘いもの、苦いもの、酸っぱいもの。あなたが一番、魂を揺さぶられる『味』は、何ですか?」

これは、蜜柑にとっての、決闘前の「宣誓」だった。

私は、あなたのすべてを知った上で、あなたを満足させる、と。


ルシエラは、蜜柑のその真剣な眼差しに、一瞬、虚を突かれたようだった。

彼女は、ふ、と息を吐いた。


「……愚問だね、蜜柑」

赤い瞳が、妖しく蜜柑を捉える。

「私が好きなのは、『甘いもの』に決まっている。だが」


彼女は、言葉を切った。

「私は、ただの砂糖の甘さには、もう飽いている。私が欲しいのは……そう。君が昨日、私に与え損ねたものだ」


「私が、与え損ねた……?」


「そう。だよ」

ルシエラは、カウンターに身を乗り出した。

「君が、私を打ち負かそうと、焦がしたあのカシスの酸味。私に『失敗』を悟られまいとした、あの時の君の瞳の熱。……ああ、そして」


ルシエラの舌が、艶めかしく唇を舐める。


「昨日の、あのクリーム。あれは、最高だった」


「え……」

蜜柑の頬が、カッと熱くなる。


「失敗作のクリームが、君の肌の熱と、君のというスパイスで、どれほど官能的な味になっていたか……君は知りもしないだろうね」


「な……!」

(この人、本当に……!)

羞恥で体が震える蜜柑を見て、ルシエラは楽しそうに笑った。


「私の味覚は、君が思うよりずっとだ。君の感情の揺らぎさえ、私には『味』として感じられる。……さあ、わかったかい? 私の好みが」


「……はい」

蜜柑は、深呼吸した。

(感情の味……情熱……)


「よく、わかりました」

蜜柑の迷いは、完全に消えた。

彼女は、栗のガレットを皿に取り、その上に、純白のクレーム・グラッセを乗せた。

熱い皿の上で、冷たいアイスが、僅かに溶け始めている。


そして、蜜柑は、温めておいた「熱いソース」――チョコとエスプレッソとバルサミコのソース――を、アイスクリームの頂上から、ゆっくりとかけた。


ジュウウウウウウウッ!


熱いソースが、冷たいアイスを侵食する音。

立ち昇る、カカオと栗の、複雑で芳醇な湯気。

それは、地獄の業火ごうかと、天上の氷雪ひょうせつが、一皿の上で出会う瞬間だった。


「さあ、召し上がれ」

蜜柑は、ルシエラの前に、その一皿を差し出した。

「『情熱と冷静のモンブラン』。……あなたのためだけの、レシピです」


ルシエラは、言葉を失っていた。

目の前の一皿を、ただ、見つめている。

スプーンを手に取る指が、微かに震えている。


彼女は、意を決したように、熱いソースと、冷たいアイス、そして温かいガレットを、同時にスプーンに乗せ、口に運んだ。


「…………っ!」


ルシエラの赤い瞳が、これ以上ないほど、大きく見開かれた。

熱い。

冷たい。

甘い。

苦い。

酸っぱい。

香ばしい。

すべての味が、完璧な調和を持って、口の中で爆発している。


「あ……ぁ……」


ルシエラの喉から、昨夜とは違う、歓喜とも苦悶ともつかない、熱い吐息が漏れた。

彼女は、スプーンを落としそうになるのを、必死でこらえた。

そして、蜜柑を睨みつけた。

その瞳は、怒りとも、歓喜ともつかない、複雑な熱を帯びていた。


「蜜柑……! 君は……!」

ルシエラは、絞り出すような声で言った。


「お気に、召しませんでしたか?」

蜜柑は、あえて冷ややかに問い返した。


「……っ。愚か者め!」

ルシエラは、もう一口、今度はさらに大きく、そのデザートを口に放り込んだ。

「こんなもの……! こんなものを食べさせられたら……!」


ルシエラは、蜜柑を真っ直ぐに見据えた。

「私は、君のだけを味わいたかった。君が作る、甘い甘い、スイーツだけを」

彼女の声が、熱っぽく震える。


「だが、今、わかった。私が本当に味わいたいのは、お菓子じゃない」

ルシエラの赤い瞳が、蜜柑のすべてを映し込む。

「君のだ。その天才的な。私を打ち負かそうとする、その無謀な。そして、私に怯える、そのの味も!」


その言葉は、比喩ではなかった。

ルシエラは、蜜柑というパティシエが生み出す、すべての「感情の味」を欲していた。

お菓子は、その触媒に過ぎなかった。


蜜柑は、ルシエラのその熱烈な「告白」に、圧倒されていた。

だが、恐怖はなかった。

あるのは、自分のすべてが、この美しいサキュバスに認められたという、戦慄わななくようなだけだった。


「……私の全て、ですか」

蜜柑は、ふ、と笑った。

「それは、光栄です」


ルシエラは、蜜柑のその不敵な笑みに、一瞬息を呑んだ。

蜜柑は、もはやルシエラに怯える、ただのえさではなかった。

対等な、あるいは、彼女を「飼いならす」可能性を秘めた、唯一無二のパティシエとして、そこに立っていた。


ルシエラは、無言で、最後の一滴までソースを舐め取ると、静かに立ち上がった。

そして、昨日よりも、さらに分厚い札束をカウンターに置いた。


「……今夜は、君の勝ちだ、蜜柑」

ルシエラの声には、悔しさと、それ以上の喜びが滲んでいた。

「イタズラは、お預けだ」


「ありがとうございます」

蜜柑は、優雅に頭を下げた。


「だが、勘違いするな」

ルシエラは、ドアに手をかけ、振り返った。

「君は、とんでもないハードルを、自分で設定してしまった」

赤い瞳が、妖しく細められる。


「明日。もし、この『情熱』を超える甘さを私に与えられなかったら……」

ルシエラは、笑った。

「その時は、容赦しない。君のを味わうという約束。私が、直々に果たさせてもらう」


カラン、コロン。

ルシエラは、去っていった。


蜜柑は、一人、厨房でその場に崩れ落ちた。

全身の力が抜けた。

徹夜の疲労と、極度の緊張から解放されたのだ。

だが、その表情は、達成感に満ち溢れていた。


(勝った……)


彼女の視線の先には、ルシエラのためだけに作られた、あのデザートの、空っぽの皿が残されていた。


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