第3話 初めてのイタズラ

あの日から、一週間が経った。

蜜柑の日常は、ルシエラという名の美しい嵐によって、完全に塗り替えられていた。


「……違う! これじゃダメ!」


カン、と金属製のボウルが甲高い音を立てる。

蜜柑は、味見に使ったスプーンをシンクに投げ捨て、自身の頭をかきむしった。

厨房には、くりの芳醇な香りと、ラム酒の芳香が満ちている。


ルシエラは、あの日以来、本当に、閉店間際の午後七時きっかりに「Sweet Dreams」を訪れた。

三日目は、和栗をふんだんに使った「プレミアムモンブラン」。

四日目は、ピスタチオとフランボワーズの「シシリー」。

五日目は、あえて甘さを抑え、カカオの苦味と香りを際立たせた「ガトー・オペラ」。


蜜柑は、持てる技術のすべてを注ぎ込み、ルシエラを迎え撃った。

ルシエラは、蜜柑のケーキを一口食べるたび、恍惚とした表情を浮かべ、昨日とは違う角度から、蜜柑の情熱を的確に褒めそやした。


そして、必ず最後にこう言うのだ。

「美味しかったよ。……だが、明日はもっと期待している」と。

「もし満足できなかったら――君のを味わうからね」


そのたびに、蜜柑の体はカッと熱くなる。

食べられる(物理)という恐怖は、もうない。

あの「イタズラ」という言葉が、もっと官能的で、蜜柑の理性を揺さぶる「何か」を示していることを、彼女は本能で理解してしまっていた。


(負けられない……!)


それは、恐怖からではない。

パティシエとしての意地。

そして、あの美しいサキュバスを、自分の生み出した「甘さ」だけで屈服させたいという、倒錯した征服欲だった。

彼女を満足させ、同時に、彼女に「食べられたい」と思ってしまう自分から、逃げたいがためだった。


(今日は、栗。でも、昨日のモンブランじゃダメ)


ルシエラの舌は、日を追うごとに肥えていく。

昨日と同じ感動では、彼女は満足しない。

蜜柑は、新たなモンブランの開発に取り掛かっていた。フランス産の栗のペーストに、カシスの酸味を隠し味として加える。甘さの中に、鮮烈な驚きを仕込むのだ。


「クリームの泡立てが足りない……ラム酒が強すぎる……!」


試作を繰り返す。

ボウルに山積みになった、納得のいかないマロンクリーム。

時計の針は、すでに午後五時を指していた。


(まずい……!)


焦りが、蜜柑の思考を鈍らせる。

通常の開店準備と並行しながらの新作開発。この一週間、蜜柑の睡眠時間は平均三時間だった。

疲労が蓄積し、普段ならしないようなミスを連発していた。


「あ、熱っ!」


煮詰めていたカシスソースの鍋を焦がしてしまった。

甘酸っぱい香りではなく、鼻を突くが厨房に広がる。

慌てて鍋を火から下ろすが、もう手遅れだ。

ソースは、使い物にならない。


(どうしよう……どうしよう……!)


時刻は、午後六時半。

ルシエラの来店まで、あと三十分しかない。

今からソースを作り直していては、間に合わない。

かといって、昨日のモンブランを出す?

ダメだ。彼女は絶対に見抜く。「手を抜いたな」と。


(お菓子が、ない……!)


蜜柑の顔から、サッと血の気が引いた。

あの日、ルシエラは言った。

『もしできなかったら?』

『君をしかない』


(マシュマロで、口直し……)


あの妖艶な声が、耳元で蘇る。

ぞくり、と背筋が震えた。それは恐怖か、あるいは――。


(ダメ、ダメダメ!)


蜜柑はパニックになりながら、厨房を見渡した。

何か、何か代わりになるものは。

ショーケースは、すでにほぼ空っぽだ。閉店間際なのだから当然だ。

残っているのは、焼き菓子の類が数個だけ。

こんなもので、あのサキュバスが満足するはずがない。


カラン、コロン。


無慈悲なドアベルの音が、蜜柑の絶望を告げた。

午後七時。きっかり。

ルシエラが、カウンターの向こうに立っていた。

黒いレースのドレス。赤い瞳。

その唇が、楽しそうに弧を描く。


「こんばんは、蜜柑。……さて、今日の私は、どんな甘さで満たしてくれるんだい?」


ルシエラは、蜜柑が失敗したことなどお見通しだ、と言わんばかりの余裕の笑みで、ショーケースを覗き込んだ。

そして、ピタリ、と動きを止める。

ショーケースは、空っぽだった。


「……ほう?」


ルシエラの赤い瞳が、ゆっくりと蜜柑に向けられた。

笑みは消えている。

底冷えのするような、冷たい視線。


「蜜柑」

低い声が、蜜柑の鼓動を鷲掴みにする。

「お菓子は?」


「あ……あ……」

蜜柑は、声が出なかった。

体が、鉛のように重い。


「お菓子は、どこだい?」

ルシエラが、もう一度問うた。

その声には、失望と、隠しきれないが滲んでいた。


(終わった……)


蜜柑は、観念した。

食べられる。

あの「イタズラ」を、される。

今日こそ、このマシュマロボディが、彼女の餌食になる。


「ご、ごめんなさい……!」

蜜柑は、カウンターに額をこすりつけるようにして頭を下げた。


「謝罪が聞きたいんじゃない。お菓子が食べたいんだ」

ルシエラは、カウンターに肘をつき、身を乗り出した。

甘い蜜の香りが、蜜柑の恐怖を煽る。


「きょ、今日は、新作のモンブランを……でも、ソースを焦がしてしまって……その、時間が……」

蜜柑の声は、涙で震えていた。

パティシエとして、お菓子を出せない。

それが何より悔しく、そして、その後の「罰」が何より怖かった。


「……つまり?」

ルシエラの赤い瞳が、蜜柑を射抜く。

「今夜、私を満たしてくれるは、何一つない、と。そういうことかい?」


「う……はい……。本当に、ごめんなさい……!」

蜜柑は、もう泣き出していた。

疲労と、焦りと、恐怖で、感情のダムが決壊した。


「ふふ」

不意に、ルシエラが笑った。

「あはは、あはははは! いいよ、蜜柑。最高だ」


「え……?」

蜜柑は、涙で濡れた顔を上げた。

ルシエラは、心底楽しそうに笑っていた。

その赤い瞳は、飢えではなく、純粋な喜びにきらめいていた。


「最高って……私、お菓子を……」


「ああ。君は、私との約束を破った」

ルシエラは、うっとりと目を細める。

「お菓子をくれなきゃ?」


「……イタズラ、するぞ……」

蜜柑は、消え入るような声で答えた。


「その通り!」

ルシエラは楽しそうに言うと、音もなくカウンターをひらりと乗り越え、厨房に侵入してきた。


「ひゃっ!?」

蜜柑は悲鳴を上げ、後ずさる。

狭い厨房。逃げ場はない。

背中が、冷たい業務用の冷蔵庫にぶつかった。ドン、と鈍い音が響く。


ルシエラは、ゆっくりと蜜柑に歩み寄る。

一歩、また一歩。

蜜柑は、死刑宣告を待つ罪人のように、目をぎゅっと瞑った。

(食べられる……! どこから!? やっぱり、マシュマロ……お腹から!?)


ルシエラの甘い香りが、蜜柑の鼻先を満たす。

冷たい指先が、蜜柑の顎に触れ、上を向かせた。


「蜜柑。君は、私が本当に君をとでも思っていたのかい?」

ルシエラの囁きが、耳をくすぐる。


「だ、だって……『食べる』って……」

蜜柑は、目を開けられない。


「愚かな子だ。私が欲しいのは、君の生気や肉体じゃない」

ルシエラは、くすくすと笑う。

「私が欲しいのは、君が作る。そして……君というそのものだ」


「え……?」

意味が、わからない。


「お菓子が用意できなかった君は、罰を受けないといけないね」

ルシエラは言った。

「私の『イタズラ』を」


蜜柑は、覚悟を決めた。

(キス……? それとも、吸血……?)

唇を噛みしめ、衝撃に備える。


だが。

ルシエラの顔が近づいてきて……そのまま、蜜柑の顔の横を通り過ぎた。

そして、

ぺろり。


「……ひゃっ!?」


蜜柑の頬に、生温かく、湿った感触が走った。

驚いて目を開けると、ルシエラの顔が、自分の頬のすぐ横にあった。

ルシエラが、蜜柑の頬を、舌で舐めていた。


「な……ななな、何して……!?」

蜜柑は、理解が追いつかず、大混乱に陥った。


ルシエラは、蜜柑から顔を離すと、自分の唇を満足そうに舐めた。

その赤い瞳は、とろりとろけて、蜜柑を映している。


「……ん。甘い」


「あ、甘いって……!?」


「ここについていたよ」

ルシエラは、蜜柑の頬を指差した。

蜜柑が恐る恐る自分の頬に触れると、指先に微かな粘り気を感じた。


(あ……!)


思い出した。

先ほど、試作のマロンクリームを味見した時。

泡立て器についたクリームが、頬に跳ねたのだ。

パニックになっていた蜜柑は、それに気づきもしなかった。


【クリーム】。

それは、蜜柑がルシエラのために作った、紛れもない「お菓子」だった。


「ちゃんと、あったじゃないか。今日のお菓子」

ルシエラは、意地悪く笑う。


「こ、これは……! 失敗作で……!」


「失敗作? とんでもない」

ルシエラは、うっとりと目を閉じた。

「確かに、君の情熱(=カシスソースの焦げ)は空回りしていたようだが……このマロンクリームのポテンシャルは素晴らしい。栗の香りが、君の肌ので程よく温められて、芳醇さを増していた」


「はだの、ぬくもり……」

蜜柑は、自分の頬が燃えるように熱いのを感じた。

舐められた箇所が、ルシエラの唾液でひりひりと痺れている。


「これが、私の言う『イタズラ』だ」

ルシエラは、蜜柑の耳元で囁いた。

「お菓子がないなら、君自身がになるしかない。……わかったかい?」


「あ……あ……」

蜜柑は、頷くことも、否定することもできなかった。

食べられる(物理)よりも、何倍も、何百倍も、恥ずかしい。

そして、何よりも。


(……いやじゃ、なかった……)


そう思ってしまった自分に、蜜柑は愕然とした。


ルシエラは、真っ赤になって固まっている蜜柑を見て、満足そうに頷いた。


「ふふ。実に甘かったよ、蜜柑。今日のは」

彼女は、もう一度、カウンターを軽々と飛び越え、店の出口に向かった。


「あ……お、お代は……」

蜜柑は、我に返って声をかけた。


「お代?」

ルシエラは振り返り、悪戯っぽく笑った。

「今夜は、君の頬のクリームが代金だ。……ああ、でも」


彼女は、蜜柑の全身を、もう一度ねっとりと見た。

特に、蜜柑がコンプレックスに感じている、マシュマロボディを。


「頬のクリームも美味しかったが……」

ルシエラは、自分の唇を舐めた。

「やはり、本命はそっちのだね。あれには、もっと濃厚なクリームが詰まっていそうだ」


「ーーーーっ!!」

蜜柑は、羞恥で爆発しそうだった。


「明日こそ、ちゃんとしたお菓子を期待しているよ」

ルシエラは、脅すように言った。

「もし、また失敗したら……。今度は、頬じゃ済まないぞ?」


「ひ……!」


「次は、君のを、私が直接味わってやるからね」


カラン、コロン。

ドアベルの音だけを残し、ルシエラは夜の闇に消えた。


蜜柑は、その場にへたり込んだ。

厨房に充満する、マロンクリームの甘い香りと、焦げたカシスの匂い。

そして、自分の頬に残る、ルシエラの「イタズラ」の感触。


(食べられ、ちゃった……)


物理的ではない。

でも、確かに、蜜柑はルシエラに「食べられた」のだ。

絶望と恐怖の果てに待っていたのは、未知の甘美なだった。


「……あした、どうしよう」


頬を舐められただけなのに、全身の力が抜けて、腰が立たない。

蜜柑は、熱い頬を押さえながら、明日、自分はどんな顔をしてルシエラを迎えればいいのか、まったくわからなくなっていた。


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