和久愛梨沙

第5話 「過去」


「愛梨沙にお任せ! ってね?」


 軽く舌を出して、キャピッとした笑顔を意識する愛梨沙。

 その場のノリでやってみたわけだが、無情にも真穂は真顔のままだった。

 可愛い、なんて真穂が言うわけないとは愛梨沙も思ってはいたのだが、真顔で見つめられることに心底恥ずかしくなった愛梨沙は、もう二度とこんな事はやらないと暗く沈んだ心に誓った。


「まぁ、あれよ、大船に乗ったつもりで任せなさいってことよ」

「愛梨沙って頼りになるね」

「ホント!? いやぁ、まいっちゃうなぁ」


 真穂から頼りになると言われ、愛梨沙はすぐに有頂天に舞い戻る。先ほど調子に乗ってやらかしたこともすぐに忘れ、さっそく大好きな友達の恋愛応援大作戦を考え始める。

 どこからどう見ても、今の愛梨沙は浮かれていていた。誰が見たってわかるほど有頂天だ。それくらい愛梨沙は嬉しかったのだ。大好きで大切な友達から、頼ってもらえることが。




 愛梨沙は高校に入って真穂と出会うまで、心から友達だと思える人に出会えたことがなかった。


 幼少期から片親の家庭で愛梨沙は育った。

 まだ愛梨沙が幼いうちに離婚した両親。愛梨沙を引き取った母親を簡潔に説明するなら、ろくでなし、だろうか。

 日々新しい男たちとの逢瀬に夢中で、毎日のように酒の臭いを漂わせて帰ってくる。当然のように、愛梨沙はこの母親から面倒を見てもらった記憶がまるでない。

 いっそ父親の方に引き取ってほしかった。一度そう言ってしまった愛梨沙に、母は、


『言っとくけどね、いらないって、あいつが押し付けてきたんだから』


 改心を求めていたわけでは断じてない。こんな小言で変わるような人だとは、その時もう愛梨沙は思っていなかったから。

 だからこれはただの当てつけだった。人として最低な母親を、少しだけ嫌な気分にさせてみたかっただけ。そんな愛梨沙の、小さな抵抗のような思惑が叶う事はなかった。


『自由にさせてるし、そこそこいい暮らしさせてやってるんだから、私の方がマシでしょ?』


 小馬鹿にしたように鼻で笑われる。嫌な気分にさせられたのは、愛梨沙の方だった。それも、少しなんかじゃなく、壊れてしまいそうなほどに。


 そんな愛梨沙の心を知ってか知らずか、嘲りの笑みを浮かべていた母親は、すぐに酒をあおりはじめる。まるで娘に興味をなくしたかのように。

 いや、実際にそうなのだろう。新しい男にメッセージを送ることに忙しいのか、母親はもう愛梨沙のことを見ることもない。

 男のことしか頭にない母親を前にして、愛梨沙はこのとき、どちらにしろ変わらなかった人生を知ったのだ。


 それから愛梨沙はグレた。一時期は学校にも行かなくなったし、よくない連中ともつるんだりもした。

 昼間から遊びまわり、夜遅くまで出歩いて、愛梨彩は自由を手に入れた気になった。

 だがすぐに気がつく、こんなものは自由なんかじゃないと。

 結局、愛梨沙の帰る場所は、あの母親がいるマンションの部屋だったから。


 愛梨彩の生活になくてはならない拠点は、母親のもので、遊びに使っている金も、母親から餌代のように渡されたものだ。きっとどちらも、愛梨彩が知りもしない男の財布から出ているのだろう。

 つまり愛梨彩は、自分が何よりも嫌いな母親と同じことをしているだけだったのだ。


 一度気付いてしまえば、もう見て見ぬふりなどできはしない。

 母親と同じ、それがたまらなく嫌で、愛梨沙は勉強は真面目に続けることにした。何よりもあの親から、早く独立したい。その一心だった。


 なるべくいい高校に入って、奨学金制度など使えるものはなんだって使って、地元から離れるために大学に通う。

 そうして遠い場所で生活基盤をつくって、母親とは縁を切り、一人で生きていく。そんな将来を夢見て、愛梨沙は普通の道に戻ってきたのだ。


 それから、愛梨沙の努力のかいもあり、狙っていた高校に合格。中学ではグレていた時期のせいで孤立していたが、高校ならまともな友達もできるかもしれない。そんな期待を抱いていた愛梨沙は、すぐに現実を突きつけられることになる。


 愛梨沙には、避けられているのがすぐにわかった。


 中学からそこまで遠い高校ではない。同中の生徒も少なからずいる。それが答えだった。

 すでに中学のときの愛梨沙の噂は広まっていて、話したことがない人の中にも、とっくに愛梨沙の第一印象が出来上がってしまっていた。


 危ない奴だ。近寄らないほうがいい。いくら小声でも、教室のいたる所で言われたら、嫌でも耳に入ってきた。

 話しかけられることはなく、声をかければすぐに立ち去られる。周りに馴染むなんて到底無理で、何もしていなくとも、かってに悪目立ちしてしまう。

 はじめから明るく振舞って、気さくな感じで過ごしていれば、絶対に上手くいく。そんな考えが甘かったことを、愛梨沙はすぐに思い知らされた。


 噂の中の愛梨沙の方が、先にみんなと知り合ってしまったから。

 あっちがみんなの真実で、現実の愛梨沙が何をしても無駄だった。

 遠巻きに眺められている愛梨沙は、まるで檻の中の危険生物で、これは無理だと、愛梨沙も普通を諦めかけていた。


 だが、そんな愛梨沙に転機が訪れる。


 学校の授業には、まれにペアになる必要がある時間がやってくる。

 あれは体育の授業のこと。入学早々に孤立していた愛梨沙には、ペアになってくれるような友達なんていなくて、当然のように余っていた。

 愛梨沙は特に気にしていなかった。避けられるのは中学のときから慣れていたし、どうせ他にも余る人間はいると知っていたから。

 あとは教師が余り物を強制的にくっつけて、滞りなく授業は進むのだ。

 そう達観したようなことを考えて、自分の状況から目をそらそうとしていた愛梨沙。そんな愛梨沙に、声をかけてくるもの好きがいた。


「和久さん。私でよければ一緒にやろう」


 切れ長の目が印象的な、顔立ちに凛々しさを感じさせる少女だった。

 長いポニーテールが純白の体操着によく映えていたのを、愛梨沙は今でも鮮明に思い出すことができる。


 突然声をかけてきたその少女のことは、友達がいない愛梨沙でも、ある程度は知っていた。

 少し前にクラス委員になったその少女は、水木真穂。

 その外見から真穂に、生真面目そうな印象を持っていた愛梨沙は、クラス委員に立候補した真穂を見て、まさにはまり役だと思っていた。


 大方クラス委員になったばかりで、変に張りきっているのだろう。一度はそんなふうに斜めにとらえてしまったが、この提案は愛梨沙にとって、ありがたいものに代わりない。

 当然のように飛びつこうとして、それでも愛梨沙は躊躇した。

 目の前の生真面目そうな少女に悪いと思ったから。


 たとえ善意だけでなく、クラス委員としての内申点稼ぎなのだとしても、この少女は何も悪いことはしていない。円滑に授業が進むように、真面目にやるべきことをしようとしているだけ。

 それなのに、自分と関わることで、この少女の学校生活も暗いものになってしまうかもしれないと考えると、さすがに悪いと愛梨沙は思ったのだ。


「ありがたいけど、ホントに大丈夫?」

「うん。私は問題ないよ」


 わかっているのかいないのか、何でもないことのように答える真穂。本当にあっけらかんと、数秒も考えることなく即答されてしまう。

 その顔を見ていると、自分だけが気にしているのがバカらしくなって、愛梨沙は躊躇するのをやめることにした。


「ならよろしくね。愛梨沙って呼んでくれたら嬉しいな」

「よろしく愛梨沙。私は水木真穂。水木でも真穂でも何でもいいよ」


 これが愛梨沙と真穂の最初の会話。

 それ以来、真穂が声をかけてくれるようになった。

 クラス委員として仕方なく、クラスの不和を大きくしないように、最初はそんなふうに邪推していた愛梨沙も、次第にその考えを変えていくことになる。

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