第1話 春のほころび
“灯(ともしび)祭り”の会場となる久津野神社。
その境内の片隅に、ひっそりと佇む古びた資料館がある。
昼なお暗いその建物に、春の補修対象となった生徒たちは、毎年“収容”されるのが慣例だった。
祭りの名は「地域と共に灯を継ぐ」と銘打たれた町の恒例行事。
生徒たちは江戸時代の衣装を着せられ、行列の“架空の藩の再現劇”に参加させられる。
名目は「地域貢献」。だが実際は、頭数合わせのボランティアだった。
「……これで文句は言われないだろ……。」
葉河航(はがわ・こう)は、着物のしつけ糸を切りながらぼそりと呟いた。
蛍光灯の光が反射する畳の上で、古い衣装が静かに揺れる。
その手つきには、やる気よりも、ため息のほうが多く滲んでいた。
「ねぇ、それ、結び方ちょっと違うよ。」
背後から、不意に声がした。
振り向きざま、目が合ったその瞬間、コウは思わず視線を逸らした。
裃(かみしも)を半分だけ身に付けた格好で立つ新田美穂(にった・みほ)が、
腰紐を手にしたまま、困ったように笑っている。
ほんの少し、頬が熱くなるのをコウは気づかないふりをした。
「こういうの、動画とかで検索しても出てこないんだよね。
どーすんの?これ。」
「……知らないけど。」
ミホは小さく息を吐き、腰紐を結び直しながら少し困ったように笑った。
「マジで無理。Tシャツ考えた人、ほんと神。」
ミホは腰を手で押さえつつ、明るく笑った。
笑い声が、張りつめた空気を少しだけ和らげた。
二人のやりとりが、遠い喧騒のように聞こえる、そのすぐ外、桑原雷斗(くわばら・らいと)は資料館裏手の石段を器用に使い、寝そべっていた。
コウとは同じクラスだが、まともに話したことはほとんどない。
──教室で会ったこともない、と言った方が正しいかもしれない。
ポケットからくしゃくしゃになったケースからタバコを取り出し、火をつける。
細く立ちのぼる煙が、春の湿った空気にゆっくりと溶けていく。
「“クズの藩”か……笑えねぇな。」
誰に向けるでもなくつぶやいたその言葉が、
灰の落ちる音が聞こえるほどに、境内の静けさへと沈んでいった。
その背中を、コウは窓越しに見つめていた。
何かを羨んでいるわけでも、憧れているわけでもない。
ただ──違う“温度”で生きている人間が、確かにそこにいる。
そんな感覚だけが、胸の奥に残った。
「おーい、桑原ぁ……そろそろだってよ。」
資料館の入口からコウが声をかけた。
ライトは寝転んだまま、片手をゆっくりと上げて応えた。
気だるい仕草ではあるが、そこに反抗の色はない。
ただ、世界と少しだけ噛み合わないまま生きている──
そんな人間の呼吸だけが、春の空気に溶けていった。
コウは再び窓の方へ視線を戻した。
ミホが鏡を覗き込み、裃の襟を直している。
その肩越しに、外の光がふと白っぽく見えた。
「……ん?」
雲のないはずの空が、ぼんやりと灰色に滲んでいる。
風が止まり、湿った空気が妙に重く感じられた。
「ねぇ、なんか、さっきより暗くなってない?」
ミホが小さくつぶやく。
コウは答えない。
ただ、曇った窓の向こうで
鳥の群れが一瞬、軌道を乱すのを見た。
まるで、山の向こうに広がる雲に気づいたかのように──。
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