時ヲ綴ル

@touyosha

プロローグ

春の空気は、誰をも平等に包んでいた。

子どもたちの笑い声、旗の揺れる音、綿菓子の甘い匂い。

町は、春を祝う祭りの支度に追われている。

境内の階段では、小学生たちが紙飾りを貼りながら笑っていた。

風が吹くたびに桜の花びらが紅白幕に張りつき、

焼きそばの煙が細く空へと昇る。

どこにでもある春。けれど、この春は──少しだけ違っていた。

山の向こうには、淡く霞む雲が一筋、横たわっていた。

鳥の群れが一瞬、軌道を乱した。

まるで、山の向こうに広がる雲に気付いたかのように——。

空はまだ明るいのに、遠くの山肌だけがかすかに滲んで見えた。

それを見上げた者は、誰ひとりいなかった。

“二股杉”バス停の名前が示すように、

根元で二つに裂かれた大きな杉の木の前で、

彼らは集まるよう指示されていた。

幹の間には古びた紙札が結ばれ、春の風が抜けるたびに、

わずかに擦れあう音がした。

その木の下には、三つの影。

誰も言葉を交わさず、片方はスマホを見つめ、

片方は草をむしり、もう一人は空を仰いでいる。

余程の偶然が起きない限り、揃うはずのなかった三人だった。

空は青く、風はまだ温かい。

けれど、杉の裂け目の奥にだけ、かすかな冷気が漂っていた。

それは、まだ言葉にもならず、まだ形も持たない。

ただ、春の隙間を縫うように、音もなく忍び寄っている。

コウは、ふと立ち止まった。

何に、とは言えない違和感が、胸の奥をかすめる。

旗の影が地面を滑り、誰かの笑い声が途切れた。

時間が一瞬、止まったように思えた。

山の向こうで、低い雷鳴が鳴った。

それはまだ遠く、まだ落ちてはいない。

けれど──確かに、何かの始まりを告げていた。

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