第2部『失われた日々』
紬と初めて出会った日のことを、私は今でも覚えている。
……少なくとも、そう“思っている”。
入学式の日。
人の波に押されて、体育館の扉の前で立ち止まっていた私に、
「大丈夫?」と声をかけてくれたのが紬だった。
それだけのこと。
けれど、あの時の春の光の匂い、スカートの裾が揺れた風の感触、
彼女の瞳の奥に小さく映った桜色。
全部、記憶の底に今も残っている。
でも最近、その情景が少しずつぼやけてきている。
まるで古いフィルムを繰り返し再生したみたいに、
ところどころに白いノイズが走る。
⸻
最初の一年、私たちは本当に仲が良かった。
朝はいつも一緒に登校して、放課後はよく図書室に寄った。
紬は静かに本を読むタイプで、私はそんな彼女の横顔を見るのが好きだった。
ページをめくるたび、指先が光を撫でるようで。
私はよく、「その本、どんな話?」と尋ねた。
紬は少しだけ考えてから、いつも同じ調子で答えた。
「んー……悲しい話。でも、綺麗な終わり方をするよ」
その“綺麗な終わり”という言葉が、なぜか印象に残っている。
あの頃から、彼女の中には“終わり”という響きが静かにあったのかもしれない。
⸻
放課後、雨が降った日。
二人で傘を忘れて、校舎裏の軒下に並んで立っていた。
グラウンドが銀色に濡れて、音だけが心地よく響く。
「ねえ、もし世界が全部消えたら、どうする?」
突然、紬がそんなことを言った。
「え?」
驚く私に、彼女は笑って、
「なんとなく聞いてみたくなったの」と肩をすくめた。
そのときの笑顔が、なぜか少し寂しそうだった。
私は何と答えたのだろう。
いくら思い出しても、その部分だけが真っ白に抜け落ちている。
⸻
夏。
紬が風鈴をくれた。
「風が通る音が好きなの」と言って、
彼女の家の軒先から外してきた小さなガラスの風鈴。
手の中で鳴る高い音が、少し震えていた。
あの音を聞くと、私は不安になる。
楽しいのに、なぜか泣きたくなるような気持ち。
「風が鳴ってるあいだだけは、私たち、消えない気がするよね」
そう言った紬の言葉が、耳の奥に残って離れない。
⸻
秋。
文化祭の準備で、教室に泊まり込んだ夜。
皆が帰ったあと、ふたりだけで残って飾り付けをしていた。
蛍光灯の下、色とりどりの紙が床に散らばって、
紬が「ここ、もう少し上」と言いながら脚立の上で紙を貼っていた。
「落ちるよ」と声をかけると、
「平気、私、軽いから」と笑って――本当に落ちた。
大した高さじゃなかったけど、私は慌てて駆け寄った。
紬は笑いながら、「抱きとめてくれればよかったのに」と言った。
その言葉に、顔が熱くなるのを覚えている。
その夜の帰り道、ふたりで見上げた校舎の窓。
誰もいない教室の中に、私たちの影が二つ映っていた。
それが、やけに綺麗だった。
⸻
けれど――。
その翌週から、紬は少しずつ変わり始めた。
話す言葉が少なくなり、どこか遠くを見ている時間が増えた。
笑うときの目が、ほんの少しだけ笑っていない。
私は何度か聞いた。
「どうしたの?」
「なんでもないよ」
そのたびに、彼女は優しく笑った。
……その“優しさ”が、何よりも怖かった。
⸻
ある日、紬が言った。
「ねえ、もし、私がいなくなったらどうする?」
あの時の夕陽の色を、私は今でも覚えている。
光がオレンジでも赤でもなく、どこか灰色が混ざった色だった。
「そんなこと言わないで」と笑った私に、
紬はまっすぐな目で言った。
「私ね、たぶん、いつか“いなくなる”の」
「死ぬ」とか「転校」とか、そんな現実的な話じゃない。
もっと曖昧で、掴めない言い方だった。
「でも、消える前に、ちゃんと“思い出”になりたいの」
その瞬間、風が吹いて、風鈴の音が遠くで鳴った。
私は言葉を失った。
紬はただ、それを見て微笑んでいた。
⸻
あれから、何があったのか。
どこから、彼女が“消え始めた”のか。
その境目が思い出せない。
ただ、確かに存在した。
私の隣に、あの笑顔があった。
でも今は、どんな声で笑っていたのかさえも、少しずつ忘れていく。
夢と現実のあいだに立たされているような感覚。
“あったはず”の記憶が、“なかったこと”になっていく。
私は、その崩壊の真ん中で立ち尽くしていた。
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