私の本音はいつ消えたの…

雨森 透

第1部『残る記憶』

放課後の教室は、今日も淡く沈んでいた。

夕陽が差し込む角度が少しずつ変わって、黒板の文字を赤く照らしている。

チョークの粉が、空気の中で金色に舞っていた。


机に頬杖をついたまま、私はぼんやりとその光を見ていた。

世界が少しずつ透けていくような感覚。

音も色も輪郭を失いながら、どこか遠くで鳴っているようだった。


「ねえ、最近なんか元気ないね。」


隣の席から紬の声がした。

振り向くと、いつものように彼女が笑っていた。

それだけで少し安心する。

だけど、その笑顔はどこか薄膜のように頼りなくて、

指で触れたら消えてしまいそうだった。


「そうかな」

私は答える。

その言葉が、少し遅れて自分の耳に届いた。


紬の笑顔の奥に、ほんのわずかな影が見えた。

それが何なのか分からない。

けれど、胸の奥がひどくざらついた。



最近、私は“忘れる”ことが増えた。

昨日食べたパンの味も、授業中に誰が隣の席にいたのかも。

まるで頭の中に細い亀裂が入って、そこから少しずつ記憶がこぼれていく。


でも、不思議と紬のことだけは忘れない。

彼女の声、笑い方、髪の揺れ方。

すべてが脳裏に焼き付いている。

……はずだった。


「この前、一緒に帰ったとき、途中で寄ったカフェ覚えてる?」

放課後の帰り道、私はなんとなくそう言った。


紬は一瞬だけきょとんとした顔をして、首を傾げた。

「カフェ? そんなの行ったっけ?」


「……うん、行ったよ。ほら、あの、駅前の——」

言葉が途中で詰まった。

思い出せない。

どんな内装だった? どんな席に座った? なにを話した?


彼女が笑う。

「夢でも見たんじゃない?」


その声は軽く、けれど、私の胸の奥には冷たいものが落ちた。

夢。

本当に、あれは夢だったのかもしれない。



夜。

机に伏せていたノートの上に、いつのまにか紬の名前が書かれていた。

癖のある筆跡。だけど、私が書いた覚えはない。

消しゴムで消そうとしても、何度も滲み出てくる。


夢を見た。

放課後の教室で、紬がひとり窓の外を見ている。

オレンジの光が彼女の髪を透かして、少し泣いているようにも見えた。


「本音なんて、最初からなかったんだよ」


その言葉が、夢の中で響いた。

起きたとき、胸の奥に冷たい痕が残っていた。



翌日。

教室の席が、ひとつ空いていた。


そこは、紬の席だった。


誰も何も言わない。

誰も、その席の存在を気にしない。


私は息を詰めて、周囲を見渡した。

「ねえ、紬は?」


前の席の子が振り返る。

「紬? ……誰それ?」


世界が、ゆっくりと歪んでいく。

私だけが、覚えているの?

それとも、私が何かを間違えているの?


黒板の文字がかすれていく。

名前も、日付も、曖昧に溶けていく。


私は震える手でノートを開いた。

昨日、確かにそこにあった彼女の名前が、もう消えていた。



その日の放課後。

私は教室に残った。

誰もいないはずの空間に、確かに気配があった。

椅子を引く音。息を呑む気配。


「……紬?」


声を出すと、夕陽の中に人影が揺れた。

窓際に立つ彼女が、こちらを見ていた。

でも、どこか違う。


その瞳の奥に、光がなかった。


「私のこと、まだ覚えてるの?」


彼女がそう言った。

その声を聞いた瞬間、心臓が小さく跳ねた。

覚えてる。忘れられるはずがない。

でも、その言葉を口にしようとした瞬間、喉が固まった。


「あなたの“本音”が、どこにあるか分からなくなっちゃったの」


紬の声が、少し震えていた。

そして、その姿が夕陽と一緒に薄れていった。


机の上に落ちた影が、ひとつ減る。

私はその場に立ち尽くした。


──私の本音は、いつ消えたの。


誰に問いかけたのかも分からなかった。

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