冷めたコーヒー
誰もが感じる見えない境界線。
その線を超えることは簡単だ。
踏み込む、踏み込まないは自分次第…。
ーーー
「投資か、旅行か。」スマホの画面越しに交わされる会話の中に、価値観の違いが静かに浮かび上がる。バズワードに揺れる田中と、冷めたコーヒーを啜る“私”。見えない境界線の向こうにあるのは、損得では測れない“確かさ”だった。
このショートショートは、境界を不確かな価値観の物語。
境界線は、誰が引いているのか。それとも、引いているふりをしているだけなのか。
ーーー
境界線
「ねえ、これ見てよ。今、NFTアートが熱いんだって」
喫茶店のテーブル越しに、田中がスマホの画面を突きつけてくる。画面には、小学生の落書きのようなイラストと、七桁の数字が並んでいた。
「で?」
私は冷めたコーヒーを啜りながら答える。
「だから、今のうちに買っておけば絶対値上がりするって。インフルエンサーの山田さんも推奨してるし」
「山田さんって、去年『メタバース不動産』で大損した人じゃなかったっけ」
田中の顔が一瞬曇る。が、すぐに持ち直した。
「あれは別。今回は違うんだよ。Web3.0の波に乗らないと、時代に取り残されるよ?」
Web3.0。三ヶ月前は「AI投資」、その前は「暗号資産」、さらにその前は何だったか。田中の口から溢れるバズワードは、季節ごとに入れ替わる。
「俺、来月沖縄行くんだ」と私は話を逸らす。
「沖縄? 今? その金があるなら投資に回せばいいのに」
「旅行は投資だよ。心への投資」
「非効率的だなあ」田中は首を振る。「お金にお金を稼がせるんだよ。働いて稼ぐなんて、もう古いって」
私は財布から千円札を取り出す。給料日前で少し寂しい中身だが、これは確実に私のものだ。誰かの夢や他人の成功談ではない。
「俺はこの千円の方が、君のスマホの中の数字より信用できる」
「だから時代遅れなんだって」
田中は新しいタブを開く。今度は別のインフルエンサーの投稿だ。『初心者でも月50万円稼げる方法』という見出しが踊っている。
「ねえ、君さ」私は尋ねる。「今まで投資でいくら増えた?」
「......それは、まだ始めたばかりだから」
「去年の春から色々やってるよね」
沈黙。
窓の外では、サラリーマンたちが足早に駅へ向かっている。彼らは多分、私と同じく、毎月決まった額の給料を受け取り、その範囲内で生活を組み立てている。地味だが、確実だ。
「君は損してないの?」田中が反撃する。
「してないよ。増えてもいないけど」
「それが一番の損失だよ。機会損失って言うんだ」
私は笑った。持っていないお金を損したとは思わない。
「じゃあ君は、今この瞬間も、億万長者になる機会を損失し続けてるわけだ」
「そういう屁理屈じゃなくて......」
携帯が震える。田中のものだ。通知を見た彼の顔が強張る。
「暗号資産、また下がってる......」
「だから言ったじゃん」
「一時的なものだよ。長期で見れば......」
また新しい情報商材の広告が、彼のタイムラインに流れてくる。『次世代AI投資で確実に資産形成』。田中の目が輝く。
私たちの間には、見えない境界線が引かれている。どちらが正しいわけでもない。ただ、お互いに相手の領域には決して踏み込めない。
「沖縄、楽しんできなよ」田中が言う。少しだけ優しい声で。
「うん。君も、その、ほどほどにね」
コーヒーは、すっかり冷めていた。
ーーー
「境界線」は、現代の“正しさ”や“効率”に対する静かな問いかけです。誰かの成功談に乗ることも、地に足のついた生活を守ることも、どちらも一つの選択。あなたはどちらの側に立ちますか?冷めたコーヒーの温度に、ふたりの距離が滲みます。
もしこの物語に何か感じるものがあったら、「♡」や「フォロー」で応援していただけると嬉しいです。日常の中にある“見えない境界”を、これからも描いていきます。
【土曜境界線劇場】ー 短編集 ルウト・カ・ワタ @watamon-1607
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