異能者 桜の事件ファイル

上原 愛心

第1話

    プロローグ


 暖かくて優しい風が吹く四月上旬。

 宮成町の空は淡く霞み、桜の花びらが空気に舞っていた。

 その道を、一人の少女が静かに歩いていた。

 彼女の名前は――服部 桜、十六歳。


 制服の袖口から覗く白い手首、風に揺れる長い黒髪。

 その姿は、一見すればどこにでもいる清楚な女子高生にしか見えない。

 だが、彼女の瞳には他人には見えない世界が、微かに映りこんでいた。


 桜は歩きながら校門をくぐり、正面玄関の前で一度だけ小さく息を吐いた。

 「今日から、また始まる」

 誰に聞かせるでもない、そんな呟きが風に流れて消えた。


 上履きに履き替えると、彼女は無駄のない動きで構内を歩き出した。

 背筋が伸び、どこか張りつめたような静けさが漂っている。

 すれ違う生徒たちは思わず振り返り、

 「綺麗な子だね」

 「でも…ちょっと近寄りにくい感じ」

 と、ひそひそ声で言葉を交わす。


 桜は聞こえていないふりをして、教室の扉を開いた。

 そして自席に座り、窓の外を眺めながら小さくため息をつく。

 春風が頬を撫で、カーテンが柔らかく揺れた。

 だが、その穏やかな空気とは裏腹に、桜の心の奥では小さな波がざわめいていた。


 ――また、始まる。

 普通の生活を送るための、演技の日々が。


 桜には、誰にも言えない秘密があった。

 それは“特殊能力”――いや、“異能”と言ったほうが近いかもしれない。


 五歳の頃、最初の異変が起きた。

 家の中でお絵かきをしていた桜の耳に、突然、外から激しい怒鳴り声が飛び込んできた。

 「ふざけんな!」「離せって言ってんだろ!」

 明らかに誰かが喧嘩している――そう思い、窓の外をそっと覗いた。


 しかし、そこには誰もいなかった。

 風が草を揺らし、犬の鳴き声が遠くに聞こえるだけ。

 それでも、耳には確かに“声”が届いていた。

 まるで、別の場所の出来事を同時に聞いているような、不思議な感覚。


 最初は気のせいだと思っていた。

 けれど、それは次第に強く、そして明確になっていく。

 ある日、桜は遊んでいる最中、急に鼻を突くような“錆びた鉄の臭い”を感じた。

 同時に、頭の中に――見たこともない場所。暗い倉庫。冷たい床に横たわる誰かの姿。

 そんな映像が、まるで夢のように流れ込んできたのだ。


 「いや……いや……これ、なに?」

 恐怖で叫ぶ声も出せず、ただ息を詰めて震えるしかなかった。

 そして気づけば、桜は気を失い、床に倒れていた。


 目を覚ますと、母が泣きながら傍にいた。

 「桜、どうしたの? 救急車、呼ぶから!」

 桜は何も言えず、ただ涙をこぼした。

 自分でも、何が起きたのか分からなかったからだ。


 だがその日を境に、彼女の中の“何か”が確かに目を覚ました。


 [聞こえる力]

 [見える力]

 ――そして、[読み取る力]。


 それらは、ただの幻覚でも妄想でもなかった。

 時に、遠く離れた場所の出来事を聞き、

 時に、人の“心の声”を視覚のように読み取る。

 それは人の嘘も、恐怖も、隠された真実も、容赦なく桜に見せつけてきた。


 だが、悪いことばかりではない。

 その力で、桜は何度も“誰か”を助けてきた。


 たとえば、小学生のころ――

 近所に住むおばあさんが、可愛がっていた猫のミケを失くして泣いていた。

 「どこ行っちゃったのかねぇ……もう歳だから、心配で……」

 その時、桜は自然と目を閉じた。

 そして、頭の中にふっと映像が浮かんだ。

 夕暮れ、赤錆びた倉庫の裏。

 雨宿りをして震えているミケの姿。

 桜はその場所へ走り、そして見事に猫を連れ帰った。


 おばあさんは涙を流して喜び、「ありがとう」と何度も頭を下げた。

 けれど桜は、その言葉を受け取るたびに少しだけ胸が痛んだ。

 ――もし、この力のせいで“誰かの死”を見たら、私はどうすればいいのだろう?


 彼女は成長するにつれ、能力が強まり、制御が難しくなっていった。

 使えば使うほど、脳に負担がかかり、視界が歪み、頭痛が襲う。

 時には血の味を感じ、気を失って倒れることもある。


 代償。

 それが、この力のもう一つの顔だった。


 だからこそ桜は、自分に言い聞かせるようにしていた。

 ――力は、必要な時だけ使う。

 ――普通の生活を送るために、できるだけ抑える。


 けれど、春の風が優しく吹くこの日、

 彼女の運命は、静かに、しかし確実に動き始めていた。


 宮成高校という場所が、ただの「学び舎」ではなく――

 彼女の力が試され、そして“真実”と出会う場所になることを、

 この時の桜は、まだ知らなかった。



   第一章 


 春の朝、校舎の窓から差し込む柔らかな日差しが、教室の机を白く照らしていた。

 ざわめく声と笑い声が交じり合い、まだ新しい制服の香りがかすかに残る季節。そんな中で、桜は静かに自分の席に座り、窓の外に目を向けていた。


 「おはよ〜!」


 軽やかな声が背後から響く。

 振り返るまでもなく、誰の声かはわかっていた。

 同じクラスの親友、誠だ。

 桜とは小学校の頃からの付き合いで、彼女は太陽のように明るく、人懐っこい性格をしている。誰にでも笑顔で話しかけ、気づけばいつの間にか周囲の中心にいる——そんなタイプの人間だった。


 その明るさゆえに、誠は多くの人に好かれる一方で、嫉妬や陰口の対象にもなっている。

 桜はそれを知っていた。

 彼女の特殊な力が、誠の周りの「心のざわつき」を見逃すはずがなかったからだ。


 ——心が、見える。


 それは桜が生まれつき持っている異能のひとつ。

 人の思考や感情の断片、抱えた悩みや痛み。

 目を合わせるだけで、まるで心の奥底に落ちた小石が波紋を描くように、すべてが流れ込んでくる。


 「おはよう。今日も……空元気だね」

 桜は微かに目を細め、誠の笑顔を横目で見ながら言った。


 誠の心に浮かぶ映像——

 それは、昨晩の口論の記憶だった。

 険しい表情の男性。荒げられた声。

 誠の頬に、涙がつたう光景。


 「……おじさんと、何かあった?」

 桜の声は淡々としているが、どこか心配の色を帯びていた。


 「桜……」

 一瞬だけ、誠の表情が揺らいだ。

 けれどすぐに、無理やり笑みを作る。

 「ううん、なんでもないよ!」


 誠は明るい調子を装い、話題を変えるように言った。

 「それよりさ、今日、転校生が来るんだって。入学式に間に合わなかったらしいよ?」


 桜は小さく眉を寄せた。

 「転校生……ね」


 ワケありの転校。

 季節外れの入学。

 そして、朝から漂う微かな胸騒ぎ。

 桜の勘が、静かにざわついていた。


 「ん……でも、なんだか違和感があるんだよね、その子」

 桜は顎に手を当て、ゆっくりと呟いた。


 「違和感? 桜の“視える”感じ?」

 誠は興味津々といった様子で身を乗り出す。


 「まだはっきりとは分からない。でも……嫌な感じがする。気のせいならいいけど」


 その瞬間、チャイムが鳴った。

 ざわついていた教室が一気に静まり返る。

 生徒たちは一斉に席に戻り、担任の入室を待った。


 桜も誠も静かに着席した。

 だが、桜の視線はドアの向こうをじっと見つめていた。

 胸の奥で、何かがざわりと音を立てる。


 ——足音。

 先生のものに混じって、もうひとつ。


 「今日は転校生を紹介するぞ」

 担任の声と共に、教室のドアが開いた。


 そして、入ってきたのは——


 闇を纏った少年だった。


 髪は黒く整っており、瞳も深い漆のように暗い。

 だが、その奥底には、光が一粒もない。

 桜は思わず息を呑んだ。


 少年は、教室をゆっくりと見渡す。

 桜の方を見た瞬間、片方の口角をほんの僅かに上げ——

 不気味な笑みを浮かべた。


 それは、誰にも気づかれぬ一瞬。

 だが、桜の心には深く焼きついた。


 「里山 連です。よろしくお願いします」

 その声は澄んでいたが、どこか冷たく湿っていた。


 連は桜の隣の空席に腰を下ろす。

 その瞬間、桜の頭に強烈な映像が流れ込んだ。


 ——罵声。怒鳴り声。

 「また私のパソコンを使ったでしょ!」

 「汚らわしい手で触らないで!」

 乾いた音。頬を叩かれる衝撃。

 息を詰めて震える幼い連の姿。


 (……この子も、苦しんでいたんだ)

 桜の胸がかすかに痛んだ。

 だが、同時に理解した。

 この少年は、闇を内に抱えている。


 それから一ヶ月、里山連は驚くほど自然にクラスへ溶け込んでいった。

 男子たちとサッカーをし、昼休みには笑い声を交わす。

 表面だけを見れば、どこにでもいる優等生のようだった。


 ——桜は油断していた。


 そんなある日。

 夏休みを目前にした放課後、校庭の方から悲鳴が上がった。


 「キャーーッ!」


 空気が震え、教室がざわめく。

 教師たちが慌てて駆け出していく。

 桜の耳には、遠くの声が鮮明に届いていた。


 『女子更衣室で……山田先生が倒れている!』


 その言葉を聞いた瞬間、桜の心に冷たいものが走った。

 数学教師、山田かりん。二十七歳。

 人気のある教師だったが、桜は知っていた。——彼女の裏の顔を。


 「桜……何が起きたの?」

 誠が怯えた声で問う。

 桜は瞼を閉じ、短く答えた。

 「山田先生が……死んでる。更衣室で」


 誠の顔が青ざめた。

 だが、桜の声はどこまでも冷静だった。

 ——それが、彼女という人間だった。


 現場へ向かう途中、桜は正門付近で見慣れた姿を見た。


 「おう、桜じゃねぇか」

 陽に焼けた顔、乱れたスーツ。

 刑事課の村部だった。


 「早かったね」

 桜は淡々と返す。


 「お前の学校だって聞いて、すっ飛んできたんだよ」

 村部はニヤリと笑い、桜の頭を軽く撫でた。


 桜はわずかに肩をすくめ、「村部さん、優しいんですね」と呟いた。

 村部は桜が唯一、信頼を寄せる大人の一人だ。

 彼女の能力を知っていながら、恐れず普通に接してくれる数少ない存在。


 現場の更衣室に入ると、コンクリートの壁に冷たい湿気が漂っていた。

 消毒液のような匂いが鼻を刺す。


 「被害者は山田かりん、二十七歳。死因はまだ不明です」

 若い刑事が報告をする。


 村部が小さくため息をついた。

 「若いのにな……可哀想なもんだ」


 その言葉に、桜が静かに呟いた。

 「そうでもないですよ」


 「……どういう意味だ?」

 村部が振り向く。


 桜の瞳がわずかに陰を帯びた。

 「この人、生徒を騙して闇バイトに誘ってた。夜の仕事もしてたみたい。表の顔は優しい先生だけど、裏は違う」


 その言葉に、村部は苦い顔をした。

 「……ったく。最近の教師はどうなってんだか」


 桜はふと、床に転がるボールペンに目を留めた。

 それに触れた瞬間、映像が流れ込む。


 ——男の怒鳴り声。山田の怯える表情。

 怒りと悲しみ、そして後悔の念。


 「これ……山田先生か、あるいはその男の持ち物です」

 桜の言葉に、村部は頷き、それを証拠品として封じた。

 だが、その日、それ以上の進展はなかった。


 一週間の休校を経て、再び学校が再開された日。

 静まり返った教室に、桜と数人の生徒だけがいた。


 窓の外からは蝉の声。

 夏の気配が、じわじわと校舎を包み込んでいる。


 桜が黙々とノートを取っていると、不意に背後から声がした。


 「ねぇ、今いい?」


 冷ややかで、どこか無機質な声。

 振り返ると、そこには里山連が立っていた。


 「亡くなった先生、悪人だったんでしょ?」

 連の口元には、薄く笑みが浮かんでいる。


 「で?」

 桜は感情を殺したまま返す。


 「君も、あの先生が死んでくれて嬉しいんじゃない?」


 その言葉に、教室の空気が凍りついた。

 (……何を言ってるの?)

 桜の心に不快なざらつきが走る。


 「喜んでるのは、あなたの方でしょ」

 桜が冷ややかに言い放った瞬間、連の瞳の奥が、ゆらりと黒く濁った。


 そして、微笑む。


 「君とボクは、運命共同体なんだ。逃げられないよ、桜」


 その言葉を残して、連は静かに教室を出ていった。


 ——その背中を、桜は無言で見つめ続けた。

 (あの子は……一体、何者?)


 胸の奥で、再び“視えない何か”が蠢き始めていた。



   第二章


 山積みになった資料の山を、くたびれた男が黙って見つめていた。

 村部 悟。四十六歳。刑事課所属。

 くすんだワイシャツは首元が黄ばんで、袖口も擦り切れている。

 整えることを忘れた髪が前に垂れ、無精髭が影を落とす。

 見るからに、長年の疲労と諦めを背負った男だった。


 ――それでも、誰よりも事件の匂いには敏感だった。


 午前十時を少し過ぎた頃。

 刑事課のドアが勢いよく開き、警部係長が顔を真っ赤にして入ってきた。


 「宮成高校で殺人だ! 動けるやつは今すぐ向かえ!」


 一瞬で課内の空気が張り詰める。

 「はい!」と各々が返事をし、バタバタと足音が響いた。

 村部はその場で一度だけ、深く息をつく。


 「……宮成高校、か」


 呟いた瞬間、心臓の奥が小さく鳴った。

 桜が通う高校。

 ――あの少女に、また事件が近づいている。

 嫌な予感がした。


 六年前。

 桜はまだ小学生だった。

 ある事件で偶然関わった少女は、誰も信じず、口を閉ざしていた。

 だが、彼女の瞳の奥には、常人には見えない何かが潜んでいた。

 村部が初めてそれを目にした時、背筋に冷たいものが走った。


 以来、二人の関係は警察と協力者以上のものになった。

 桜の“力”がなければ解けなかった事件は数知れない。

 それでも彼女は、正義感の強さゆえに傷つき、孤立していった。

 村部はそれを見守るしかできなかった。


 「自分を追い詰めなけりゃいいがな……」

 そう独りごと言い、村部は重い腰を上げた。


 宮成高校の正門前は、すでに報道と警察車両でごった返していた。

 夏の熱風と湿気が、パトランプの赤を散らす。

 校舎へ向かう途中、見覚えのある細身の後ろ姿が目に入った。


 「おう、桜じゃねぇか」


 振り向いた少女――服部桜は、変わらず無表情のままだった。

 「早かったね」

 そっけない言葉に、村部は思わず苦笑する。


 桜は感情を表に出すのが苦手だ。

 だが、彼女の瞳の奥にはいつも、“何かを見ている”気配がある。

 それが人の心なのか、過去の残像なのか、村部にも分からない。


 二人でプールに入る。

 更衣室の前には、鑑識と警官が忙しなく動き回っていた。

 消毒液の匂い、乾いた血の鉄臭さ、蛍光灯の白い光。

 そのどれもが、現場独特の“重い静けさ”を作り出している。


 村部は目を細め、更衣室の隅に目を止めた。

 棚の隙間に、一本のボールペンが落ちている。

 どこにでもある安物だが、何かが引っかかった。


 「桜、これ見てくれるか」


 桜は無言で頷き、ペンを手に取る。

 その瞬間、空気が変わった。

 まるで温度が一度下がったように感じた。


 桜の瞳がかすかに光を帯びる。

 周囲の音が遠のき、彼女の唇が小さく動いた。


 「……山田先生。男性に罵られていました。

  “お前なんか、教師失格だ”って。強い怒りの声です」


 その声は、まるで遠い記憶を再生するようだった。

 村部の背筋に冷たいものが走る。


 「その男性、面識がありそうか?」

 「……ええ。教師ではありません。外部の人、だと思います」


 桜が言葉を紡ぐたび、更衣室の空気が重くなっていく。

 鑑識がその横で淡々と写真を撮っているのが、どこか異様だった。


 捜査班が現場をくまなく調べ上げたが、目立った新証拠は見つからない。

 その日の捜査は、いったん打ち切られることになった。



 後日、村部はひとり更衣室に向かった。

 ――違和感があった。


 どこか、微妙に匂いも温度も変わっている気がした。


 何かがおかしい。

 村部は棚の下を再び覗き込む。


 そこには、白いメモ用紙と、ストラップが落ちていた。

 この間は、確かに何もなかった場所だ。


 「……おいおい、誰だよ、今になってこんなもん置いていったのは」


 呟きながら、手袋越しに拾い上げる。


 村部の喉が、ごくりと鳴った。


 その瞬間、無線が鳴る。

 『第二の事件発生。現場は公園。至急確認を』


 「……は? 嘘だろ」


 村部は顔を上げた。

 教室の窓の外、校庭を走る警官たちの姿が見えた。

 そして、その先には――

 またも、桜の姿があった。



   第三章 


 数日が経った夕方のことだった。

 沈みかけた太陽が校舎の窓を朱色に染め、グラウンドに伸びる影を長く引き延ばしていた。

 放課後の校庭は生徒たちの笑い声で賑わい、部活の掛け声があちこちから響く。

 桜は一人、鞄を肩にかけながら正門を出ようとしていた。

 その瞬間、ポケットの中のスマホが震えた。


 ディスプレイには「村部」の文字。刑事・村部悟。

 画面を見た瞬間、胸の奥に冷たい感覚が走る。

 この時間帯に彼から連絡が入るということは――また、事件だ。


 「もしもし」

 「桜、第二の事件だ」

 村部の声は低く、そして焦りを押し殺したように固かった。

 「現場はお前が通う高校の近くにある公園だ。すぐ来てくれ」


 短いが、いつもよりも重い電話だった。

 「分かった」

 そう答えて通話を切った瞬間、桜の瞳に“映像”が走った。


 ――血に染まった土の上。

 ――夜の公園。

 ――倒れ込む中年の男。

 誰かの悲鳴。

 視界の端で風に揺れるブランコ。


 桜は息を呑み、鞄を握りしめた。

 その瞬間、彼女の“異能”が働いたのだ。


 歩きながら、頭の中にさらなる映像が流れ込んでくる。

 殺害されたのは坂上剛――理科教師、四六歳。

 首を鋭利な刃物で切られ、出血多量による即死。

 その直前、坂上は“何か”を見ていた。

 驚愕に見開いた瞳、そして怯えの混じった叫び。

 見たくないものを見たように――。


 「はぁ……この殺人、何が目的なんだ?」

 歩道を駆けながら、桜は小さく呟いた。

 「こんな無意味なこと、なぜ犯人はしてる? ただの逆上か、それとも……」


 息を切らしながら現場へと急ぐ。

 春の夕暮れ、風はまだ冷たく、沈む太陽が街全体を薄暗い紅に染めていた。

 到着した公園にはすでに数台のパトカーと報道車両が停まっており、黄色い規制線が揺れていた。

 記者のフラッシュが時折瞬き、騒がしい声が飛び交う。


 その喧騒の向こうに、見慣れた背中を見つけた。

 村部悟。

 くたびれたスーツに、目の下の隈。だが、その背中には確かな責任の重みがあった。


 桜は近寄り、静かに一礼した。

 「わりぃな、桜。またお前んとこの教師だ」

 村部はため息を混ぜながら言った。

 「知ってる。理科の坂上先生。……確か、最近離婚して独り身だったはず」

 「その通りだ。先月末に離婚したばかりのようだ」


 村部は手帳を開き、指で何かを追いながら言葉を続けた。

 「元妻と娘は神奈川に移り住んでる。今、担当が連絡を入れているところだ」

 桜は小さく頷くと、真っ直ぐ村部の目を見た。

 「遺体、見せて。私が見たものと一致するか、確認したい」

 「……おう、こっちだ」


 村部に案内され、公園の奥へと進む。

 夜の訪れが早い公園は、木々の影が濃く、どこか息苦しいほど静まり返っていた。

 その中心――街灯の光が届かぬ場所に、血に濡れた遺体が横たわっていた。


 桜はゆっくりと膝をつき、静かに目を伏せた。

 冷たい風が髪を揺らし、頬を撫でる。

 彼女の中で、また“映像”が流れ始めた。


 ――激昂する坂上。

 ――怯える女性と小さな女の子。

 ――平手打ち。

 ――罵声。

 ――そして、白い粉をビニール袋に詰め、誰かに渡している姿。


 桜は唇を噛んだ。

 「坂上先生……なんでそんな事をしたの? 何に不満を感じてたんだよ……」


 彼女の呟きに、村部が眉をひそめた。

 だが桜は構わず、遺体のスーツの襟元を見つめる。

 そこに、微かに白い粉が付着しているのを見つけた。

 そっと指先で触れる。粉はきめ細かく、手触りは軽い。

 鼻に近づけてみる――無臭。


 「村部さん、この粉……何か分かりますか?」

 少し離れたところで捜査員たちと話していた村部がこちらを振り向く。

 「粉?」

 桜は襟元を指差した。

 「これです。無臭で、何か薬物っぽい感じがします」

 村部はしゃがみ込み、慎重に観察した。

 「……おい、鑑識! こいつ、サンプル取っとけ!」

 声を上げると同時に、桜に視線を戻す。

 「お前、何か見えたのか?」

 「はい。……坂上先生が、この粉を誰かに売っていました。生徒の保護者か、知人に」

 「なるほどな……つまり、ただの殺人じゃない。裏があるかもしれねぇ」


 桜は無言で頷き、その場を離れた。

 その日の帰り道、彼女の表情はいつになく険しかった。

 家に帰ると、誰とも話さず部屋に籠もり、灯りもつけずにベッドに座り込んだ。

 窓の外では雨が降り始めていた。

 その雨音の中で、彼女の胸の中には一つの疑念が生まれていた。


 ――この連続殺人、偶然じゃない。

 ――“何か”が、この町の裏で動いている。


 そして、それは間もなく現実となる。


 坂上の殺害からわずか数日後。

 また、新たな悲鳴が夜を裂いた。


 殺害現場は被害者が住むマンションの一室。

 殺されたのは星野守――三十五歳、学校事務員。


 夜のマンション前。

 雨に濡れたアスファルトの上に立ち、桜はスマホを取り出して村部に電話をかけた。

 「村部さん、着きました。これで……三人目、ですね」

 「……ああ、嫌な予感しかしねぇ。お前、気を付けろよ」

 桜は短く息を吐き、マンションのドアを押し開けた。


 中は静かだった。

 だが、その静けさの奥に、また“血の匂い”が潜んでいる――

 そう、桜の第六感が告げていた



   第四章 


 村部は、星野の遺体が横たわる部屋の中央に立っていた。

 薄曇りの朝日がカーテンの隙間から差し込み、床に伸びた影を揺らしている。

 事件発生の一報を受けたのは明け方――まだ夜が明けきらぬ時間だった。

 仮眠を取る間もなく駆けつけたが、現場には異様な静けさが漂っていた。


 室内は、一人暮らしにしては広すぎる三LDKの高級マンション。

 玄関から伸びる長い廊下を抜けると、生活感のないリビングが広がっている。

 家具の配置も整いすぎていて、まるでモデルルームのようだ。

 「こんなところに一人暮らしか……贅沢だな」

 村部は小さく呟きながら、床に目をやった。


 クリーム色の壁紙と白木のフローリングは、飛び散った血によって赤黒く染まっている。

 だが、遺体には致命傷らしいものが見当たらない。

 それが、村部にはどうにも引っかかっていた。

 死因を断定するには、どこか“決定的なもの”が欠けている。


 鑑識の職員たちが静かに動き回り、指紋採取や血痕の分析を進めている。

 その間に村部は、管理人と数人の住人に聞き込みを済ませた。

 「誰も悲鳴を聞いていない」「夜中に物音もしなかった」――

 そんな曖昧な証言ばかり。

 監視カメラも、事件前後で特に不審な人物は映っていない。


 「これは一体……」

 眉間に皺を寄せ、村部は息を吐いた。

 そんな時、ポケットのスマホが震えた。

 画面には「桜」の文字。

 嫌な予感がして、すぐに通話ボタンを押した。


 『もう、現場?』

 「おう。……ああ、入ってこい」

 村部は短く答え、電話を切った。


 間もなく、エレベーターの音とともに桜が現れた。

 制服姿に薄いグレーのカーディガンを羽織り、場違いなほど静かな瞳をしている。

 現場の空気に怯む様子もなく、靴を脱いでずかずかと室内へ入った。


 「星野さん、ここで殺害されてないよ」


 その言葉に、室内の空気が一瞬止まった。

 鑑識員が顔を上げ、刑事の一人が「は?」と声を漏らす。

 村部は眉を吊り上げた。


 「なに言ってんだ。ここが現場に決まってるだろうが。見ろ、この血の量を」

 「うるさいな」桜は冷ややかに言い放ち、血痕をじっと見つめた。

 「この血は、星野さんのじゃない。坂上先生のだよ。首を切られてたでしょう? 即死だった」

 そう言って、彼女は自分の首筋を指でなぞる。

 「そう……だが、じゃあなんで遺体がここにある?」

 村部が詰め寄る。


 桜は肩をすくめた。

 「まだ、そこまでは見えない。でも――」

 彼女の瞳が、一瞬遠くを見た。まるで何かを“視て”いるように。

 「犯人像も、まだはっきりしてない。けど……」

 唇を噛み、言葉を飲み込む。


 「けど、なんだ。答えろ、桜」

 村部の声が荒く響いた。

 しばらく沈黙した後、桜は低く、震える声で言った。


 「犯人は……若い。十代、もしくは二十代前半。見た目はもっと幼いかもしれない。

 性別は……まだ見えない。でも――」


 そこまで言って、桜は額を押さえた。

 顔色が真っ青になり、ふらりとよろめく。

 村部が支えようと手を伸ばしたが、彼女はそれを振り払った。


 「……まだ、終わってない。

 この事件は……連続する。次も、すぐに起きる」


 そのまま、桜は踵を返し、無言で部屋を出ていった。

 残された刑事たちは呆然とし、誰も声を出せなかった。


 村部は、血の匂いが染みついた空気の中で立ち尽くしていた。

 「事件が起こる……。こんな、無残な事件が……」

 自分の胸の奥に、冷たいものが広がっていくのを感じた。


 ――そしてその二日後、桜の言葉が現実になる。

 もう一つの遺体が、街の片隅で見つかったのだ。



   第五章 


 刑事課では、ここ最近、立て続けに起こる事件の対応で慌ただしくなっていた。

 机の上には報告書や資料が山積みになり、署内には疲労と焦燥の空気が漂っている。


 村部も例外ではなかった。

 夜遅くまで現場を回り、ほとんど仮眠だけで動いていたため、押収したある品を二ヶ月もの間、引き出しの奥に放置していたことすら忘れていた。


 そのことに気づいたのは、夜明け前のことだった。

 「……やれやれ、俺としたことが」

 額を押さえ、深くため息をつく。

 だが、胸の奥では妙なざわつきがあった。――なぜこの品を“忘れていた”のか。そのこと自体が、引っかかる。


 「村部刑事、どうされたんですか?」

 声をかけたのは中山だった。

 若く、どこか育ちの良さを感じさせる青年刑事。

 几帳面で頭の回転も早いが、どこか「過去の闇」に鈍感なところがある――と、村部は心の中で思っていた。


 「いやな、中山。二ヶ月前の山田かりん殺害事件の押収品だ。どうにも気になってな」

 村部は机の引き出しから、封を切らずに置かれていた小袋を取り出した。

 その中には、メモ用紙と小さなストラップ。


 「現場には当時、なかったはずのものだ。再捜査の時、現場の植え込みの下から出てきた」


 中山は首をかしげながら、その二つをライトにかざした。

 「これ……マークが入ってますね。見たことあるような……」


 「マーク?」

 村部も覗き込むと、確かに“鷹”のような紋章が刻まれていた。

 そして、それを見た瞬間、村部の表情が凍りついた。


 ――あの時と、同じだ。


 「このマーク……まさか、あの一帯を牛耳ってる裏社会の連中か!」

 声を荒げた村部に、中山は驚き目を丸くする。


 「ま、まさか……一六年前に起きた、あの一連の……?」

 その言葉に、村部はわずかに眉をひそめた。

 「口にするな、中山。あれはもう、終わった話だ」

 短く言い放つが、声はわずかに震えていた。


 一六年前――宮成町の外れで起きた連続拉致事件。

 詳細は極秘扱いとなり、関係資料のほとんどが封印されている。

 だが村部だけは知っていた。

 “あの事件”の裏に、まだ何かが隠されていることを。

 そして、あの時現場で見たマークが――今、再び現れたということを。


 「くそ……また、あの連中が動き出したのか……」

 低く呟いた声は、夜気に溶けて消えた。


 数日後。第二、第三の事件も相次いで発生した。

 手掛かりは乏しく、時だけが無情に過ぎていく。


 「くそ……今回も桜に頼るしかないのか」

 村部はぼそりと呟き、机に拳を落とした。


 「どうして彼女に頼ろうとしないんです?」

 中山の問いかけに、村部は苦い顔をした。


 「……お前は知らんだろうが、桜は中学生の頃、一度倒れてる」

 その声には、罪悪感が滲んでいた。

 「当時、俺は焦っていた。次々に事件が起き、手がかりがなくてな。あいつの“力”に頼った」

 村部は遠い目をした。

 「犯人を突き止めたその瞬間、桜は意識を失って倒れた。三日間、目を覚まさなかったんだ」


 中山は息を呑む。


 「能力を使うたびに、体の機能が低下していく……桜自身がそう言ってた。だからもう、あの子を巻き込みたくはない」


 しばし沈黙が続いた。

 だがその沈黙の奥に、村部の本音があった。

 ――桜は、あの一六年前の“事件”とも、どこかで繋がっている。

 それを確信していながらも、彼女をその運命に引きずり込みたくなかった。


 「……だが、状況が状況だ。あいつの様子を見て、聞いてみる」

 村部は決意したように電話を手に取る。

 呼び出し音が鳴る間、彼の胸には小さな不安が渦巻いていた。


 “もしまた、あの力が――一六年前の影を呼び覚ますのだとしたら……”


 受話器の向こうから、桜の穏やかな声が聞こえた。

 その声にわずかに救われながら、村部は静かに目を閉じた。


   第六章 


 進展がないまま、二ヶ月が経過していた。


 桜は学校と日常生活の間で、何の手掛かりもない状況に苛まれていた。 警察と合同で捜査に参加しているわけではなく、犯人の動きも、次の標的もまったく見えない。

 対策を打ちようもないまま、日々が無為に過ぎていくことに、深い苛立ちと無力感を覚えていた。


 この日、桜は授業をサボって屋上にいた。

 目の前の景色は穏やかに広がる青空で、風は柔らかく彼女の髪を揺らしていた。

 しかしその穏やかさと裏腹に、心の中は嵐のように荒れていた。

 自分の能力で、何もできない。何もつかめない。無力感と自己嫌悪が、胸を押し潰すように重くのしかかっていた。


 その時、スマホが震え、画面に「村部」の名前が表示された。

 「もしもし…」

 思わず情けない声で応答する。

 「おいおい、その情けない声は何だ?」

 村部の笑い声が聞こえる。桜は少し顔をしかめつつも、電話に集中した。

 「実は、証拠かもしれないものがあってな……お前に見てもらいたくて電話したんだ。都合の良いときに署まで来てくれ」

 「…わかった、すぐ行く」

 桜はそう告げ、学校を後にした。


 二十分ほどで警察署に到着する。署内を歩きながら、桜は村部を探していた。

 「もしかして、桜さんですか?」

 若い男性の声が聞こえ、振り返ると、金縁のメガネをかけた二十代の男性が立っていた。

 「はい、そうですが、あなたは?」

 「申し遅れました。私は村部刑事の部下で、中山と申します。以後お見知りおきを」

 中山は上品な立ち居振る舞いで、礼儀正しく頭を下げた。

 その姿は、どこか御曹司を思わせるほど洗練されていた。

 「こちらです」と案内され、桜は彼に従いながら、村部のもとへ向かった。


 「村部さん」

 桜が声をかけると、村部は振り向き、「おう、こっちに来い」と手を差し伸べた。

 中山も後ろについてくる。

 部屋の中で差し出されたのは、白いメモ用紙と小さなストラップだった。

 村部の説明によれば、これらは最初の被害者、山田かりんの現場で発見されたものだという。


 「これのどこが証拠なんですか?」

 桜が問いかける。

 「メモのここを見てみろ」と村部が右端のマークを指差す。

 そのマークは、高校周辺の裏社会を象徴する家紋のような形をしていた。

 ストラップにも同じマークが刻まれている。


 桜は無言でメモとストラップを手に取り、ゆっくり目を閉じた。

 目を閉じると、彼女の内側で微かな波動が広がる。

 過去の記憶、未来の予兆、そして現在の手掛かりが微かに絡み合い、映像として浮かび上がるのだ。


 その瞬間、一六年前の映像が蘇った。

 桜はまだ赤ん坊で、母親に抱かれていたころだ。

 その目に、見覚えのあるマークがふと映り込む。

 強く光るその印象は、彼女の無意識に深く刻まれた記憶であり、未来に向けての警告のようでもあった。

 映像は短く、断片的だったが、なぜかその光景が今の事件と結びついていることを、桜は直感的に理解した。


 「村部刑事、彼女は一体何をしているのですか?」

 中山が困惑気味に尋ねる。

 「正直、俺にもわからん」と村部。

 「あ、えっ…」

 あっけにとられる中山。

 「ただ、このメモとストラップから何かを読み取ろうとしているんだろう」

 村部はさも当然のように答える。

 「はぁ…、彼女ってそんなにすごいんですね」

 中山は納得できないながらも、それ以上追及しなかった。


 桜はそっとため息をつき、目を開ける。村部が問いかける。

 「なにか分かったか?」

 「すぐに分かるなら、こんなに苦労はしないよ」

 桜の声には、悔しさと無念、そして底知れぬ無力感が滲んでいた。


 「何が見えたんだ?」

 「では状況を整理しましょう。ホワイトボードかノートはありますか?」

 「はい、こちらにあります」

 桜は順序立てて事件の系列を書き出すことにした。


 一、山田かりん(二七歳)数学 外傷なし

 二、坂上剛(四六歳)理科 首に外傷あり

 三、星野守(三五歳)事務員 外傷なし


 「これだけでは明白なことはわかりません」と桜は言い、映像で見た情報と照らし合わせる。

 「ただ、三人の犠牲者と次のターゲットを合わせると、犯人は精神的な苦痛を与える傾向があります。推測の範囲から抜け出せませんが…」


 桜の声は抑えられた悲しみを含み、目元にはうっすら涙が浮かぶ。

 無力感、悔恨、そして倒れそうなほどの疲弊感が、彼女を包み込んでいた。


 「桜、あとはこっちで捜査を進める。だから少しは休め」

 「…は?」

 驚く桜に、村部は毅然とした口調で命令した。

 「いいか、これは命令だ。言うことを聞け」


 こうして桜は署を後にし、三人の教師が殺害された現場へと足を運ぶ。

 一六年前に刻まれた光景の断片を胸に、桜の探偵としての戦いは再び始まろうとしていた。



   第七章 


 第三の事件が起きてから、さらに四日が過ぎていた。

 警察内の空気はどこか重苦しく、捜査員たちの顔には疲労と焦りが滲んでいる。

 有力な証拠は見つからず、手がかりと呼べるものもない。だが村部だけは、机の前に座っているよりも現場に出ていた方が落ち着いた。


 事件現場を何度も往復するうち、足取りが自然とある方向へ向かっていた。第二の現場・公園と第三の現場・マンション。そのちょうど中間にある古びた商店街だ。


 シャッターの錆びついた匂い、揚げ物屋の油の匂い、遠くで聞こえる子どもの笑い声。

 どこにでもあるような、しかし事件現場の間を繋ぐ“中間点”にしては、妙に落ち着かない場所だった。

 村部の中で、直感が静かに鳴った。

 ――ここを、誰かが通っている。偶然ではなく、必然として。


 彼は商店街組合の本部を訪れ、警戒する店主たちに警察手帳を掲げた。

 「この近辺で殺人事件が起きていることは知ってるか?」

 年配の事務員が顔を強張らせながら頷いた。

 「あ……はい。星野さんですよね。朝方によく見かけましたよ」

 曖昧な返答。だがその声の揺らぎに、村部はかすかな違和感を感じ取る。


 「いつもどんな様子だ?」

 「いや……あの人、会釈はしても話しかけづらくて。いつもどこか急いでるような……」

 「そうか。じゃあ、防犯カメラを見せてもらえないか」


 押し黙った数秒ののち、相手は鍵束を持って立ち上がり、奥のモニタールームへ案内した。

 暗い部屋。壁に並んだ古いモニターが青白い光を放ち、微かに唸るハードディスクの音が響く。

 村部は腕を組みながら、何日分もの映像を早送りで確認した。

 星野が通る姿を発見するまで、二時間が過ぎた。


 ――いた。

 星野が肩をすぼめて歩いている。その十秒後、坂上が反対側の歩道を横切る。

 そして、日を変えて見直すと、山田もまたこの通りを利用していた。

 「三人とも……この商店街を通ってる。しかも、同じ時間帯に。」

 村部は眉をひそめ、さらに映像を巻き戻した。


 そのときだった。

 星野の背後、十メートルほど離れた場所に、黒のパーカー姿の人影が一瞬だけ映り込んだ。

 顔はフードで隠れているが、歩き方に妙な癖がある。

 映像を数日分見返すと、その黒パーカーは何度も同じ位置、同じ距離で現れていた。


 ――まるで、誰かを“追っている”ように。


 「おい。このパーカーのやつ、見覚えないか?」

 村部は少し声を荒げた。

 しかし事務員は肩をすくめ、「さぁ……誰だろうねぇ」と曖昧に笑うだけだった。

 その笑いが、不自然なほど引きつっていた。


 村部はしばらくその顔を見つめ、沈黙のあとで短く言った。

 「この映像、借りてもいいか」

 「え、ええ……どうぞ」


 映像データを押収し、署へ戻る帰り道。

 夕方の街はすでに薄闇に包まれ、街灯の光が路面に滲んでいた。

 村部は無意識に煙草を取り出しかけ、しかし指先で止めた。

 胸の奥で何かがざらりと動く。

 ――この事件、想像していたより根が深い。


 その夜、捜査一課の部屋に戻った村部は、モニターに映像を映し出し、黒パーカーの人物を静かに見つめ続けた。

 画面の中のその影が、何かを語りかけるように、じっと動かずにいた。



   第八章 


 村部には「休め」と言われてしまったが、じっとしていることができない。

 桜は無意識に足を動かし、第一に起きた現場である学校のプールサイド、更衣室へ向かった。


 ここで山田が殺害されたのだ。

 遺体は床に横たわり、着ていた洋服は乱れていたが、目立った争った形跡は見られなかった。唯一残されたものといえば、ボールペン、メモ用紙、そしてストラップ――だが、あの時はメモ用紙もストラップもなかったはず。

 「なのになぜ、後で出てきたの?」

 桜は疑問を呟きながら当時の現場を思い返していた。


 ふと、背後に誰かの視線を感じた。

 あたりを見渡すと、かすかな人影が素早く身を隠すのが見えた。

 「誰?」

 問いかけるが返事はない。恐る恐る外に出て周囲を探すも、誰の姿もなかった。

 「私の見間違い…?」

 桜はそう自分に言い聞かせ、更衣室に戻って隅々まで確認してから、公園へと向かい歩き始めた。


 公園への道中、背後からつけられている気配があった。

 桜は感覚を研ぎ澄ませ、第二の目で周囲を確認する。すると、斜め後ろの電柱の影に、不自然に立つ人物の影があった。


 角まで距離を詰め、息を潜めて待つと、その人物は慌てた様子で小走りに角を曲がってきた。

 「どうも」

 桜の声に、驚きと怯えの入り混じった表情を見せたのは、転校生の里山 連だった。

 「ぐっ…」

 「私に何か用?」

 角で立ち尽くす桜に、里山はバツが悪そうに顔を下に向け、わずかに震えているようだった。


 「ねぇ、聞いてる?」

 苛立ちを隠せず、桜は問い詰める。

 「私の後をつけ、コソコソ監視してるのはなぜ?」


 しばらく沈黙していた里山が、ようやく口を開いた。

 「ボクは…、アイツらが憎い。邪魔はされたくない」

 その声には、底知れぬ冷たさと鋭さが潜んでいた。

 そして彼は、まるで何かから逃げるかのように走り去った。


 桜は意味を理解できず立ち尽くす。しかしすぐに心を切り替え、公園へと足を進める。


 公園に着くと、親子連れや小学生が遊ぶ穏やかな光景が広がっていた。

 「こんな平和な場所で…殺人が?」

 嫌悪感を抱きながらも、桜は坂上先生が殺害されたベンチへ向かう。


 ベンチにはブルーシートがかけられ、「KEEP OUT」のテープが張られている。

 鑑識が押収したため、物的証拠はほとんど残っていなかった。

 桜は空いたベンチに腰掛け、被害者たちのことを整理し始める。


 表向きはどの先生も紳士的で生徒思い、教え方も生徒が理解しやすいよう工夫している。

 相談にも親身に乗り、生徒の心を前向きにしてくれる存在だった。


 だが、その裏の顔は正反対だ。全員が裏社会との関わりを持ち、いずれもDVの加害者または被害者だった。

 山田は精神的に追い詰められた暴言の被害者であり、坂上と星野は痣を作るほどの暴力加害者だった。


 桜は自らの過去を思い出し、苦虫を噛み締める。だが、思いを振り払うように顔を振り、霊視を試みる。


 霊を視ることで、亡くなったときの感情や状況が把握できることもある。

 だが体調や疲労の影響で、視えないこともある。


 「…やっぱり、ここも何も読み取れない…どうして?」

 事件の全容も次のターゲットも見えず、焦りが募る。桜はここで、村部が「休め」と言った意味を理解した。


 能力が働かないままでは、事件解決の糸口さえつかめず、犯人の思うツボになる。

 桜は決心し、知り合いのお寺に身を寄せることにした。


 「三好おじさん、突然の訪問ですみません…」

 三好は桜の母・瑠璃の弟で、このお寺を守っていた。

 「いやいや、かわいい姪っ子が来てくれると、お寺も賑やかになるよ」

 「…ありがとうございます」


 桜は深々とお辞儀をし、お堂に入った。

 能力の酷使は心身に大きな負担を与え、生気を吸い取られる感覚すらある。

 そのため、瞑想で心を整えるこのお寺は、桜にとって不可欠な場所だった。


 その晩、座禅で瞑想をしていると、三好の声が響いた。

 「桜、村部刑事が来ているが、応対できるかい?」

 桜はそっと目を開け、答える。

 「はい、応接間に向かいます」


 応接間で村部と対面した桜は、まだ疲れの残る表情を見せながらも、少しだけ心に余白を取り戻していた。

 「調子はどうだ?」

 「…まだ本調子ではないですが、少し落ち着きました」

 「そうか…。無理は禁物だと言いたいところだが、四人目の被害者が出た」



  第九章 


 署に戻り、報告書に手をつけようとしたその矢先だった。

 無機質な無線の声が、静まり返った夜の署内に響いた。


 [宮成町で、変死発見]


 村部は深くため息をついた。

 (またか……)

 胸の奥に、重たい鉛のような感覚が広がる。ここ最近、立て続けに起きている一連の事件。その異常な共通点を思い出すだけで、背筋が冷たくなった。


 夜風を切り裂くように、パトライトが赤い軌跡を描いた。

 現場へと向かう車内で、村部は助手席の書類をめくりながら、無意識に舌打ちをする。

 「四件目か……。いったい、どこまで続くんだ」

 窓の外では、街のネオンが無情に流れ、夜をさらに深くしていった。


 現場は住宅街の一角。どの家とも変わらない、静かな一軒家だった。

 だが中は違った。

 警察官たちの足音と、カメラのシャッター音だけが響く、異様な空間。

 遺体の位置、倒れ方、指の曲がり方、どれもが「人の手によるもの」を示していた。

 村部は唇を噛みしめた。

 (同じパターンだ……間違いない)


 現場検証を終えた村部は、報告書をまとめ、ある人物の顔を思い浮かべた。

 ――桜。


 この事件に、彼女が関わっているのではない。

 だが、彼女の“力”がまた必要になる。

 そう確信していた。


 夜も更けた頃、村部は桜の自宅を訪ねた。

 玄関の明かりは灯っていたが、家の中はどこか冷え切っていた。

 出てきたのは、桜の母親。

 小柄で、髪を無造作に結い上げ、目の下には深い隈ができていた。


 「桜は居るか?」

 と尋ねる村部に、彼女は表情を動かさず答えた。

 「……居ませんよ。弟の寺にでも居るんじゃないんですかね」


 声は冷たく、壁のような距離感があった。

 母親というより、他人をあしらうような口ぶりだった。


 村部は少しの沈黙の後、「そうか。夜分遅くにすまねぇな」とだけ言い、 深く頭を下げてその場を後にした。

 背中に感じる視線は、どこか敵意さえ混じっていた。


 お寺は、夜霧の中に静かに佇んでいた。

 石畳を踏みしめるたびに、かすかな音が響く。

 境内の奥から現れたのは、桜の伯父であり、この寺の住職だった。


 「おお、村部さん。ご無沙汰していますな」

 柔らかな声とともに、深々と頭を下げる住職。

 その穏やかさが、張り詰めた空気をほんの少し和らげた。


 応接間に通されると、住職は湯呑みを置き、「今、呼んできますので」と丁寧に頭を下げて去っていった。

 部屋に残された村部は、蝋燭の揺れる灯を見つめながら考えていた。

 (桜……お前まで壊れていなければいいが)


 数分後、障子が静かに開いた。

 そこに立っていたのは桜だった。

 目の下に薄く影が差し、唇は乾いていた。

 まるで、心の奥まで疲弊しているように見えた。


 「調子はどうだ?」

 村部は声を落とし、そっと尋ねた。


 桜は微かに笑みを浮かべようとしたが、うまく形にならなかった。

 その瞳には、かつてのような光がなかった。

 まるで何かを背負いすぎて、光を失った子どものように。


 「そうか……。無理は禁物だ、と言いたいんだが――四人目の被害者が出た」

 村部の声には、疲労と哀しみが滲んでいた。


 桜は、まるで知っていたかのように目を閉じた。

 「……教頭の村園修(五五歳)、絞殺……ですね?」


 村部は一瞬、息をのんだ。

 「おう。場所は村園の自宅。発見者は奥さんの恵さん(五三歳)だ」


 桜の眉がわずかに動き、沈黙が落ちた。

 部屋の中の空気が、ひときわ重くなったように感じられた。


 「今は見えなくてもいい。こっちで得た情報はその都度、桜に伝える。

 桜も、何か掴んだら教えてくれ」


 村部はそう言い残し、そっと立ち上がった。

 背後で障子が閉まる音が、静かな夜に溶けていった。



   第十章


 部屋に戻った桜は、静かに灯を落とした。

 闇の中で、村園の顔がふと浮かぶ。

 職員室での穏やかな笑み――だが、その裏に何かが潜んでいたのだ。


 胸の奥に、ずしりと重い痛みが広がる。

 その瞬間、彼女の中に映像が流れ込んだ。


 暗い部屋。

 村園が誰かと電話で話している。

 低い声で、金額と名前を口にしていた。

「次は、あいつだ……口を塞げ」


 次々と映像が切り替わる。

 裏社会の男たち。金、薬、暴力。

 教師という仮面の裏で、村園は恐喝や裏金操作に関わっていた。


 「村園先生が……なんで……」

 桜の声が震えた。

 涙が頬を伝い、畳に落ちる音がやけに鮮明に響いた。


 (人は、こんなにも醜くなれるのか)

 だが、悲しみに沈むわけにはいかない。

 桜は深呼吸し、ゆっくりと気持ちを整えた。


 四人の教師、それぞれが裏組織と関わりを持っていた。

 それぞれが異なる役割を担い、人道を踏み外していた。


 星野の死もまた、その連鎖の中にあったのだろう。

 星野の部屋――あの広さ、家賃、生活水準。

 明らかに彼の収入では払えない。

 何か、裏の金が動いている。


 「ふぅ……」

 桜は息を整え、床に座禅を組む。

 蝋燭の灯が、彼女の横顔を照らす。

 静寂の中で、心拍の音だけが響いた。


 瞑想の曲が流れ始め、彼女はゆっくりと意識を深く沈めた。

 やがて、視界に再び映像が現れた。

 まるでドラマのように、出来事が次々と再生される。

 そして――そこに、思いもしない人物が現れたのだ。


 桜の唇が震える。

 (信じていたあの人が…まさか)


 だが、映像の奥に別の真実が見えた。

 誤解が解け、全てが一本の線で繋がっていく。


 桜の瞳に、再び光が宿った。

 「――これで、わかった」


 彼女はスマホを手に取り、誠と村部に連絡を入れた。

 「明日の放課後、屋上で。……話したいことがある」


 通話を切った後、夜の静寂が戻る。

 だが桜の心には、もはや迷いはなかった。

 真実を暴く覚悟が、確かに宿っていた。



   第十一章 


 署に戻った村部は、火を付けずにくわえたままのタバコをじっと見つめながら、無意識に指で煙草をくるくると回していた。

 外の冷たい風が吹き込む署内の廊下は、普段ならばどこか殺伐とした空気が漂っているが、今日はなぜか静かに思えた。

 村部の頭の中では、十年近く前のある日の記憶が、映像のように鮮明に蘇っていた。


 桜と出会ったのは、彼女が小学四年生の時だった。

 当時の村部は尖った性格で、同僚としょっちゅう口論になり、子供には特に冷たい態度をとっていた。

 しかし、あの小さな少女――桜――は、そんな村部の予想を軽々と超える存在だった。


 現場検証中、野次馬の隙間をかき分けて入ってきた少女に、村部は眉をひそめた。

 「おいおい、そこのガキ、ここはお前が入ってくる場所じゃねーぞ」


 だが桜は一歩も引かず、むしろ少しも怯える素振りを見せなかった。

 小さな身体で、大人顔負けの落ち着きと、どこか異質な雰囲気を纏っていた。


 「隣に住む美佐子さんが腹部を刺されて死亡。犯人はこの野次馬の中にいる」


 村部は思わず肩を揺らして笑ったような驚きで声を荒げた。

 「は?おまっ、何を言ってやがる」


 尖った口調は、彼の当時の苛立ちと緊張を如実に示していた。

 しかし桜は、冷静に、まるで数字を読み上げるかのように情報を続けた。


 「でも、事実だよね?ほら、あそこに立っているフード付きの緑色の服を着た無精髭の男性が、まだ包丁を隠し持ってるよ。あっ、もう少ししたら逃亡しちゃう、早く捕まえて‼」


 その瞬間、村部の心臓が跳ねた。

 目の前の少女が言うことが、まさに現実と一致しているのだ。

 息を呑み、彼は慌てて走り出した。

 そして、驚くべき速さで犯人を取り押さえ、逮捕へと至ったのだった。


 しかし村部は心のどこかで疑念を抱いた。

 (このガキ、どこでこんな情報を得たんだ?)


 その疑念は、署内の別室で取り押さえた犯人の事情聴取が行われている間も消えなかった。

 彼は桜を呼び、刑事課の一角にあるソファーに座らせ、オレンジジュースを前に置きながら問いかけた。


 「お前、ニュースになる前の事件をなぜ知ってた」


 桜は微動だにせず、ただ一言だけを口にした。

 「見えるから知ってた」


 村部は一瞬、言葉を失った。見える――一体何を? どこまで?


 「見えるって、何をだ?」


 何度尋ねても、桜は答えない。そこで村部は試すように言った。

 「じゃあ、今朝の事件とは別の事件で、まだ死因も分かっていない事件がある。そのことについて話してみろ」


 桜は目を閉じ、低く静かな声で話し始めた。

 「近くにある小さな神社での殺人についてですね」


 事件の場所も、被害者も、何一つ伝えていないのに、桜は正確に答えたのだ。

 村部は背筋に鳥肌が立つのを感じた。


 「そうね、この女性の名前は御薗 明美さん(五八歳)、華道家の方です」


 村部は思わず上条を呼んできた。

 同期の上条も、資料を手に目を見開く。

 桜の説明に従い、次々と情報を整理していく。

 「御薗さん、数人の生徒さんを抱えていて、ご近所さんにも慕われている。殺害される原因が不明」

 「で、殺害方法ですが、トリカブトの毒です」

 「犯人は、ピンク色のワンピースをよく着ている方です」


 上条が資料にある写真を差し出すと、桜は小さく頷いた。

 その瞬間、村部は確信した。

 (この子は、ただの子供じゃない――何か、桁外れのものを持っている)


 しかし、説明を終えた桜は、ふと目を閉じてウトウトし始めた。

 村部は慌てて声をかける。

 「お、おい、どうした?」

 「疲れただけ…」


 自宅の場所も知らないため、署員たちは桜の安全を考え、事件周辺で見守った後、自宅へ帰す手筈を取った。


 その昔の出来事に浸る村部の横に、中山が腰を下ろした。

 「村部刑事、何を思い出し笑いをされているんですか?」

 「ん、いや桜との懐かしい過去を思い出してたんだよ」

 「え?桜さん…ですか。あの女性、なんだか苦手です。なんというか、冷たいというか…」


 村部は豪快に笑った。

 「まぁ、確かにアイツは人見知りだからな」

 「人見知り…ですか」

 「アイツは人見知りが悪化して、今じゃ俺と誠しか心を開かねぇ。だが、心は優しい。お前もそのうちわかるよ」


 中山はその言葉に少し戸惑ったが、同時に桜の未知なる力と、彼女の秘めた優しさを少し垣間見たような気がした。



  第十二章 


 四人目の被害者――村園教頭が殺害されてから、五日が経っていた。

 宮成高校の周辺は依然として騒がしく、マスコミの車が校門前に陣取り、教師たちの顔はどこかこわばっていた。

 そんなある日の放課後、桜は三人を屋上に呼び出した。誠、村部、中山。

 誰もが嫌な予感を胸の奥に抱えながら、灰色の空の下に立っていた。


 屋上のフェンスが軋む。

 風が強く吹き抜け、制服の裾をはためかせる。

 遠くでカラスが鳴き、コンクリートの上を落ち葉が転がっていった。

 曇天が沈黙を包み込み、彼らの言葉を拒むように世界を覆っていた。


 「……桜」

 最初に声をかけたのは、誠だった。

 その声にはどこか迷いがあった。呼び出しの理由を、彼自身が一番恐れていたのかもしれない。

 誠の背後には、コートの襟を立てた村部と、少しおどおどした様子の中山が立っていた。


 「何か分かったのか?」

 村部が短く問う。

 彼の声は低く、しかしわずかに焦りがにじんでいた。

 四件の連続殺人。どれも共通点が見えず、警察内部でも混乱が広がっていたのだ。


 桜は無言で頷き、フェンス際まで歩くと、背を向けたまま口を開いた。

 「今わかっていることをお伝えします。……誠も、聞いてほしい」


 誠は目を伏せ、ゆっくりと屋上のベンチに腰を下ろした。

 中山は不安そうに視線を泳がせ、村部はポケットからメモ帳を取り出して立ったまま構える。

 風が再び吹き抜け、桜の長い髪を乱した。だが彼女は気にも留めず、淡々と話を始めた。


 「――まず、殺害された四人の被害者たちについてです」


 桜の声には、どこか冷たい硬さがあった。

 「四人とも、ある共通点があります。全員が“裏組織”と何らかの形で関わりを持っていたこと。そして――DVの加害者、あるいは被害者であったこと。」


 村部の眉がぴくりと動く。中山が小さく息をのむ。

 誠だけが無言で、桜の横顔をじっと見つめていた。

 彼の眼差しには、疑いと哀しみが混じっていた。


 「そして、死因が不明とされていた二人――山田先生と村園教頭についてですが」

 桜は静かに続けた。

 「山田先生は、電気ショックによる感電死。村園教頭は、毒による中毒死です」


 「はっ?」

 唐突に声を荒げたのは村部だった。

 「毒なんて検出されていないぞ。監察医の報告にもそんな記載は――」


 桜は振り返り、村部を一瞥した。その瞳は氷のように冷たかった。

 「……どんな方法を使ったのかは、私にも分かりません。ですが、“検出されない毒”というものも、この世には存在します」

 淡々とした言葉の奥には、どこか確信めいた響きがあった。


 沈黙が落ちた。

 風の音だけが、屋上の空間を満たしていた。


 「……あの」

 ためらいがちに口を開いたのは、中山だった。

 「今さらですけど、なぜ……その子がここにいるんですか? 捜査の機密を、一般の女子高生に話すなんて……」


 中山の言葉に、村部は答えられずにいた。

 誠も一瞬、目を逸らす。

 桜は静かに一歩、彼らの方へ歩み寄った。


 「誠は、私の唯一の理解者なんです」

 その声は、わずかに震えていた。

 「そして……今回の事件を解くためには、彼女の存在がどうしても必要なんです」


 その表情には、冷たさと脆さが同居していた。

 まるで、氷の中に閉じ込められた炎のように。

 誠は唇を噛みしめ、ただ彼女を見つめることしかできなかった。


 しばらくの沈黙の後、桜はゆっくりと語り始めた。

 「私は……生まれたときから、複数の“異能”を持っていました。人の心を読める。過去や未来を“視る”ことができる。そんな力を持って生まれたんです」

 風が一瞬、止まった。

 「でも、そのせいで――家族からは疎まれました。母も、父も、私を人間として見ていなかった。怒りや恐怖、憎悪……全部、私には“視えてしまう”から」


 桜の声が震え始める。

 「殴られるたび、罵倒されるたびに、私は彼らの頭の中を見ました。そこには、私への恐怖と嫌悪が渦巻いていました。

 ――それでも、私は耐えました。彼らの怒りが収まるのを、心を読むことで、静かに待っていたんです」


 中山は思わず息を呑んだ。

 村部は拳を握りしめ、黙って聞いていた。

 誠の瞳には、深い悲しみと後悔が浮かんでいた。


 「でも、小学生のとき……誠に出会いました」

 桜は微笑んだ。どこか遠くを見つめるような笑みだった。

 「初めて、私を“普通の人”として扱ってくれた。怖がらず、否定せず、ただ、友達としてそばにいてくれた。……誠がいたから、私は人を信じることができたんです」


 そこまで話すと、桜は深く息を吸い、ゆっくりと誠の方へ向き直った。

 「――でもね、誠」

 その声は、さっきまでとはまるで違っていた。

 冷たい空気の中で、氷の刃のように鋭く響いた。

 「もう、“おままごと”は終わりだよ」


 誠の目が大きく見開かれる。

 村部も驚いて、思わず一歩前に出た。

 中山は息を呑み、目を泳がせる。


 「桜……どういう意味?」

 誠の声はかすれていた。

 桜はその問いに答えず、ただ静かに微笑んだ。

 その微笑みは、どこか哀しげで、そして決意に満ちていた。


 「真実を知る覚悟があるなら、これから話すことを、最後まで聞いてください」

 彼女の声は低く、どこか遠くから響くようだった。

 「この事件の“始まり”は、もっと前――十六年前に、もう起きていたんです」


 曇天の向こうで、雷のような音が鳴った。

 その瞬間、屋上の空気がぴんと張り詰めた。

 誰も動かない。誰も、息をすることすら忘れていた。


 桜の瞳が、冷たい光を帯びていた。

 まるで――すべての罪と悲しみを、ひとりで背負う覚悟を秘めた瞳だった。



  第十三章 


「おいおい、桜、どういうことだ」

驚きを隠せない一同の視線が桜に集中した。

特に村部の驚きは大きかった。


「一旦、落ち着いて下さい」

桜は冷たい視線で村部を見据え、さらに話を続ける。


「話はここからです」

短く息をつき、言葉を選ぶように続けた。

「まずは、私が見聞きしたことをお話しします」


その瞳は静かに澄んでいたが、そこには確固たる決意が宿っていた。


「昨日の夜、ある映像が見えたんです」

桜はゆっくりと一歩前に出て、皆の視線を集めた。


「誠、あなた、一卵性双生児の弟がいるわよね?」

その問いに、誠は目を見開き、桜を見つめた。

「え…?」


「その弟は、生まれてすぐに里親に出されていて、あなた自身は知らなかったのよね」

桜の言葉に、誠は軽く息をつき、俯いた。


村部はその様子に眉をひそめ、問いかける。

「何が言いたい」


桜は軽く頷き、説明を続けた。

「誠の両親は、古いしきたりを重んじる家系なの」

目を閉じ、何かを読み取るように一瞬静止した。


「特に父方の家系では、異性の双子が生まれると、男の子だけが縁切りされる決まりがある」

誠の表情を見ながら、静かに言葉を落とす。


「そして、あなた一人が今の実家で暮らすことになった」


その説明の後、桜は一呼吸おいた。

「だけど…それだけで犯人だとは言えないだろ」

村部が言葉を挟むと、桜は軽く頷きつつ、思い出すように口元に手を当てた。


「商店街の防犯カメラに、謎の人物が映っていたが…」

その映像では、フードを深く被った人物の全身が映っていた。

顔はわからない。


「身長は?」

桜が問いかけると、村部はメモを見ながら答えた。

「一六〇センチくらいだとのことだ」


「誠も、そのくらいの背丈よね?」

桜はじっと誠を見た。


誠は肩をビクッとさせ、少し動揺している。

「だけど、双子の弟も背丈は変わらないはず…」

桜は顎に手を当て、少し眉を寄せて考えるように言った。


そして、静かに問いかける。

「ねぇ、誠…いや、弟さん。そろそろお話しいただけますか?」


その瞬間、誠の後ろから影が動いた。

物陰から現れたのは、誠そっくりの少年。


「バレてたか」

ケタケタと笑いながら、彼はゆっくりと桜たちの前に歩み出る。


「姉さん…一六年ぶりだね」

その瞳は冷たく、真っ直ぐ桜を見つめていた。

「とはいえ、僕たちは赤ちゃんの時に離れ離れになったから、覚えてないか」


その名は真也、一六歳。誠の双子の弟だ。


「僕は…」

真也が言葉を続けようとしたそのとき、鋭い声が割り込んだ。

「君は引き取られた先では、裕福に過ごしていたじゃないか。何に不満を持っていたんだい?」


皆の視線が一斉に里山に向く。

桜の耳に、低く穏やかな声が響いた。

[ボクは君の味方だ]


驚き、警戒する桜に、村部はそっと耳打ちする。

「おい、どうした?」


「里山…彼は私と同じ、同業のようです」

桜は瞼を閉じ、囁くように言った。


里山は真也を冷徹に見据え、さらに言葉を重ねる。

「真也は、この地域を牛耳る裏社会の息子として育った。しかし、それだけで人を傷つける理由にはならない」


真也は激しく反発する。

「お前に何がわかる!僕は…僕はやりたくもない仕事を強制されてきたんだぞ!僕の苦しみが、お前らに分かってたまるか!」


汗を浮かべ、体を震わせながら大声で怒鳴る。

その姿に、誠は言葉を失った。


桜は一歩前に出て、冷静に話し始めた。

「真也…あなたが感じている苦しみも悲しみも、理解しようと思えばできる。でも、それで他人を傷つけていい理由にはならない」


「僕は…僕はずっと姉さんに見つけてほしかった…」

真也の声は次第に小さくなり、涙が頬を伝った。


里山は静かに頷き、補足する。

「君が望んでいたのは、復讐ではなく、誰かに理解してもらうことだったのだろう」


村部は重々しい声で言った。

「さぁ、ここからは法の裁きだ。逃げても無駄だ」


真也は一瞬、立ちすくむ。

しかし、その瞳の奥には諦めと安堵が交錯していた。


桜は深く息をつき、真也に手を差し伸べる。

「私があなたを止める。だから…もう終わらせましょう」


静まり返った屋上に、真也の震える声が響く。

「…うん…わかった」


その瞬間、長い暗闇のような十六年間の物語が、静かに幕を下ろした。


外の風が窓から吹き込み、桜の髪を優しく揺らした。

悲しみも怒りも、少しずつ解けていくようだった。


桜は小さく頷き、村部、誠、里山と視線を交わす。

そして、未来を見据えた静かな決意を胸に、彼女は新たな一歩を踏み出した。



   エンドロール


 すべてが終わった放課後、桜と誠は校庭の片隅にある古いベンチに並んで座っていた


 桜はゆっくりと口を開いた。

 「真也のこと……村部さんから聞いたわ」


 誠は顔を上げた。桜の目には、どこか遠くを見るような光が宿っていた。


 「彼、あの四人の教師たちと面識があったらしい」

 誠の表情がわずかに歪む。

 「会うたびに、暴言を浴びせられていたみたい」

 言葉を区切り、桜は一度空を見上げた。

 「何度目かのとき、もう歯止めが効かなくなった。それが、あの事件の真相よ」


 しばらく沈黙が流れた。

 誠は膝の上で手を握りしめ、かすれた声でつぶやいた。

 「……あの子は、どうして……私の存在を……」

 言葉が途切れ、涙が頬を伝う。


 桜はそっとその肩に視線を落とし、静かに語りかけた。

 「坂上先生が“誠くん、なぜ?”って言ったらしいの。それが気になって、真也は自分で調べたのよ。あなたのことを」


 誠の瞳が大きく揺れる。


 「起きてしまったことは変えられない。でも――」

 桜は立ち上がり、夕陽に染まる校庭の風を受けながら続けた。

 「それでも、誠にとって“心の寄りどころ”がひとつ増えた。今は、それを胸に生きていけばいい」


 そう言って振り返り、手を差し出した。


 その手は、春の光を受けて透けるように美しかった。

 そこには、誠にしか見せたことのない――柔らかな笑顔の桜がいた。


 風が二人の間を通り抜け、校庭に光の粒が舞った。

 桜の花びらが、まるで幕を下ろすように静かに降りてくる。


 やがて誠は立ち上がり、差し出された手をそっと握り返した。


 その瞬間、長く続いた物語に――静かな終わりが訪れた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

異能者 桜の事件ファイル 上原 愛心 @bookWord

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

参加中のコンテスト・自主企画