第2話 1-1

 マイクを口から離す。歓声は上がらない。決して白けた空気ではない。ただ、何十人もぎゅうぎゅう詰めになっているクラブの中には、一人も僕の味方がいなかった。

 「それでは判定を聞きまぁす! 先攻、『Hollow G』!」

 司会者が問いかけると、大量の手と歓声が上がる。

 「後攻、『MCケイ』!」

 しーん……という擬音が聞こえてきそうなほどの静寂が訪れる。拍手すらも無い。

 「勝者、Hollow G! MCケイにも大きな拍手を!」

 パラパラ、とまばらな拍手に包まれながら、せめて敗者の顔はしないでおこう、と僕は対戦相手のHollow Gに手を差し伸べる。キャップの上にフードを被り金色のネックレスを身に着けてダボダボのジーンズを引き摺った『いかにも』な彼は、にこやかに握手へ応えてくれた。お互いに手を引き寄せて肩を叩き合う。まだだ、まだ肩を落とすな。

 僕は胸を張ってステージを降り、熱気の籠ったクラブを後にする。すぐさま次の対戦が始まったのか、重低音がクラブの外にまで響いて胃の底を揺らす。音が届かない場所を探す。クラブから少し離れた路地裏だ。僕は室外機の影に隠れるようにして、壁に沿ってズルズルと座り込んだ。喉が渇き、無意識に呼吸が浅くなる。深く吸おうにも、肺に穴が空いているような物足りなさを感じた。

 「はぁあああ……」

 盛大な敗者のため息を吐き零しながら頭を抱える。一回戦突破は今日も叶わず、めでたくも100連敗達成だ。週末の度にエントリーフィーを払っては負ける日々は、もう2年目に突入している。

 MCバトルに挑戦する理由は自分を変えたかったからだ。だから始めたばかりの頃は、それこそDJセットの前に、観客の前に立つだけで達成感があった。普通の人間はマイクを握らない。僕は特別になれたんだ、と高揚できた。しかし、それは一夜限りだった。次の日からは日常が始まってしまう。僕は特別などではなく、ただ週末にマイクを握っただけの一般人だった。

 勝てば、きっとこの渇きは収まるはずだ、と必要な努力を始めた。友達と練習したり道端のサイファーに乱入したり、週末になれば必ずバトルに応募した。即興性とライミングを訓練し、リズムキープ力を鍛え上げた。今では胸を張って赤の他人にもラップを聞かせられる。

 それでも勝てない。ずっと勝てない。一回戦の壁は思ったよりもずっと高く、ずっと分厚い。何度も何度も「僕には才能がないのではないか」という不安が頭をよぎった。その度に「一回勝てば報われるはずだ」と自分を奮い立たせた。

 そして今日、100連敗の大台を突破してしまった。1年間、負けに負けに負け続け、2年目も負けに負けに負けようとしている。

 つまり僕は、ついに挫けた。粉々に砕け散ってしまった。

 「うぅうううう……」

 遠くからはクラブの外に屯しているらしいラッパーたちのサイファーや酒で酔って燥ぐ声が聞こえてくる。耳を塞いで目を瞑ると、鼻が熱くなって瞼の隙間から涙が割って出て行った。悔しくて惨めだから歯を食いしばって声を抑えた。こんな路地裏で独りぼっちで泣いているなんて、知っているのは僕一人でいい。この世界の誰にも知られたくない。

 バトルを始めて得た唯一の財産は、負けた時の身が引き裂かれるほどの悔しさだ。世間は『失敗は成功の素』だの『敗北しても立ち上がればそれは真の敗北ではない』だの宣っているが、そんなものは強者の戯言だ。そいつらは勝っているから好き勝手に言うことができるが、負けの途上にいる人間には何も言う権利がない。負けたのは自分の責任だ。誰にも言い訳できない。この悔しさは何にも代えがたい。

 そうやって思考を回転させることで暴れたい衝動を抑えていると、こちらに向かってくる足音が聞こえた。反射的にビクリと身体が震える。どうしよう、ここから離れるべきか。いや、ここは路地裏とはいえ公共の場なんだ。ここで独りで泣いていようが誰にも咎められる筋合いは無い。

……というか、もしかして、ここに人がいることに気づいていないのか? ちょうど僕が室外機の影に収まってしまっているのだろう。今さら出ていくこともできず、僕は縮こまってしまった。

 足音が止まる。二人分の足音だった。

 「あの……ここまで来れば大丈夫ですよね? ひ、引きたいんですけど……DMしたサイドです……」

 「待ってたよ。まいどありぃ」

 一人はオドオドした男性の声、もう一人は余裕そうな男性────少し幼い調子だ。同い年くらいの声音に聞こえる。

 僕は、ひっそりと室外機から様子を伺う。長髪の男性がに何かを渡している。長髪はこちらに背を向けているから、ここからではもう一人の方しか分からない。彼らは手に収まるほどのサイズの……袋? を遣り取りしていた。透明な袋だが中身は分からなかった。

 「使い方わかってる? 道具も売ろっか?」

 「あ、いえ……グラインダー自体はあるんで……」

 「おっ、そっか。じゃ、また足りなくなったら連絡してよ。次は多めに売ってあげるから。もっと高純度のヤツとかさ」

 「あ、あざます……」

 「またのご利用をお待ちしてまーす」

 そうして、一人の足音が遠ざかっていった。静かになったと思ったら、タバコの匂いが漂ってくる。

 オドオド男の言葉に引っかかる。グラインダー……一般的に金属を削ったり切断する工具を指す言葉だ。しかし、それ以外に、タバコの葉を粉々にするための道具も指すことがある。それにタバコの葉だけでない。HIPHOPにおいては別のものも砕くことがある。例えば────

 「大麻……」

 わざわざ人通りの少ない夜の路地裏に二人きりでやってきた理由、「引く」という『いかにも』な隠語を使っていた理由、「グラインダー」という専門的な言葉、何より、あの透明な袋は、よくリリックに登場する「パケ」────全て妄想かもしれない。しかし脳が勝手に点と点を線にしてしまう。

 僕は大麻の売買現場に居合わせてしまったのではないか?

 犯罪だ。大麻の所持・譲受・譲渡は立派な犯罪だ。まさか大麻の売買が現実にあるなんて。ラッパーもどきの僕が感じたのは強烈なカルチャーショックだった。

 毎年のようにラッパーが大麻を理由に逮捕されている。アメリカの抑圧された黒人から芽生えたHIPHOPは、その文化的背景に大麻が深く根差している。HIPHOPにおいて大麻は権力からの抵抗、解放を意味するのだ。しかし、HIPHOPを輸入して半世紀も経っていない日本は、未だに法律とカルチャーの狭間で揺らいでいる。大麻に対する価値観はラッパーとしてのアティチュードを明確に示すことに繋がる。

 僕だって頭では理解している。だけど僕は、まだ一回戦も勝ち上がれず地元をレペゼンすらしていない中途半端なラッパーだ。僕にとっては大麻もカルチャーも所詮、画面の中やイヤホンの向こうでの出来事だった。それが今、1メートルも離れていない目と鼻の先で行われてしまった。

 僕は、いつしか手で口を押さえていた。今春高校三年生になったばかりの僕にとって、目の前の犯罪は巨悪で、太刀打ちできない。見て見ぬフリしかできない。一方で、だから一回戦で負けるんだよ、と意地の悪いもう一人の僕が囁いてくる。しょうがないじゃないか、だって僕は、ただ、ラップが好きなだけの一般人だったんだから────

 「誰だっ?」

 ひっ、と思わず息を飲んだ。身じろぎした時、わずかに僕の靴の下敷きになっている砂利とアスファルトが擦れた。その音は路地裏に響き渡り、売人らしき男の声が緊張感を帯びる。どうか、このまま見つかりませんように……そんな願いは虚しく、男はスマホのライトで周囲を照らし始め、暗闇に紛れていただけの僕は────

 「……なんだ、ガキじゃん」

 すぐさま見つかってしまった。目が合う────いや、彼はサングラスをかけていた。路地裏の暗闇も相まって、どんな人相をしているのか分からず不気味だった。売人は僕を見下ろしながら呆れたような声音を漏らす。僕は目を逸らしたまま謝罪の言葉を口にする。

 「ご、ごめんなさい! 何も見てません、誰にも言い────」

 ません、と言いかけたところで顔面に拳が飛んできた。

 「まぼっ!?」

 その勢いのまま、僕はアスファルトに沈む。口を開けていたせいか、食いしばって耐えられなかった衝撃が頭全体に響き渡る。痛い。殴られたら痛い、なんて当たり前の話だ。当たり前のはずなのに初めて実感した。殴られると痛い。そして、この人は殴り慣れている。

 カランっ、という軽い音がした。見遣ると、サングラスだった。殴った勢いで顔から外れたのだろう。売人はサングラスを拾いつつ、軽い口調で続ける。

 「やばっ、落としちゃったよ……あー、ごめんね? 一応お願いなんだけどさ。このこと誰にも言わないでもらえる? 他は誰も見てないよな?」

 「い……痛い……」

 「親とか学校の先生とか……あとSNSにも上げちゃダメだよ? 言われちゃうとさ、おれ困っちゃうんだよ。頼むよ」

 「いった、いったい、痛い……っ」

 「……あのさぁ、聞いてんの? 聞こえてんなら返事しろよ、おい────!」

 いつまでも痛みに悶えているばかりの僕へ、しびれを切らした売人は胸倉を掴んで目を合わせた。

 ちょうど、その時、月明りが差し込み僕らを照らした。

 僕は初めて彼の顔を見た。

 魂が抜かれるほど美しい容貌が目の前にあった。

 「……綺麗だ」

 彼の色素の薄い長髪が月明りを反射して、まるで彼自身が輝いているようだった。僕は、うっかり口から魂が出ないように口を噤んだ。

 「はぁ?」

 僕が思わず口にした言葉に、彼は顎が外れるほど、あんぐり口を開けた。

 「え、正気? 一発しか殴ってないけど……もしかしてイイところ入っちゃった? 大丈夫?」

 「……殴ったくせに心配しないでくださいよ……」

 何を言っているんだ、僕は。殴ってきた相手に、こともあろうか「綺麗」だなんて。しかも相手は大麻の売人なのに。まだ頬がじんじん痛む。

 「あれ、さっきバトルに出てたヤツじゃん! MCケイだっけ? 一回戦で負けてたよな!」

 こちらをじっと見下ろしていたと思ったら、彼は明るい声音を出す。100連敗突破の記憶が再び呼び起こされて僕は、また落ち込んで項垂れる。

 「おいおい、落ち込むなって。けっこー良いバトルしてたよ? 8×2の先攻は負けてもしゃーないって!」

 「さ、触らないでくださいっ!」

 気安く肩に手を置こうとする彼を払いのける。反射的な動きだったが、誰かを拒絶したのは初めてだ。僕が自分の行動に驚愕していても、彼はヘラヘラと続けるだけだった。

 「なんだよ、慰めてんのにさ。おれもラッパーだから気持ち分かるよ。負けると相手に手ぇ挙げた客ぶっ殺したくなるよな」

 「いや、なりませんけど……負けたのには理由があるはずじゃないですか。観客はちゃんと判断してくれてますよ」

 「え、何? 負けに納得しちゃってんの?」

 鼻で笑われた。

 「クソシャバ。ラッパー失格だな」

 その時、頬の痛みが吹き飛んだ。

 「────は?」

 いつの間にか、僕が彼を見下ろしている。今さら気づいた。彼の方が立ち上がった僕より背が低いし、肩が細い。全体的に華奢だ。なのに拳が、あの威力だったのは、きっと身体の動かし方を良く分かっているからだろう。

 「おい、手ぇ離せよ」

 僕は彼の胸倉を掴み、細い身体を壁に押し付けていた。彼は低い声を出して僕を睨みつける。興奮した僕は何も言い返せず、ただ掴み上げている手に力を込めただけだった。

 「二度目は無ぇぞ」

 「……撤回してください」

 「あ?」

 「ラッパー失格なんて言わないでください」

 沸騰した頭は何の言葉も出てこない。ラッパーならフリースタイルが出来るのは当たり前だ。そのはずなのに、即興で何も言うことが出来ない。僕は言葉未満の激情を彼にぶつける。

 「たしかに僕はラッパーですらない、ただのワナビーです。ラッパーに憧れるだけのキッズで、ラッパーになれていないから勝てないんです。そんなの百も承知ですよ。だけど、だけど……!」

 そうだとしても、ラッパー失格だと自分で認めたら終わりだ。砕け散ったはずの心が激しく鼓動した。

 「そう言われて何も言い返せない自分になりたくないんだっ!」

 僕だけは僕をラッパーだと思っていたい。一度、抱いてしまった憧れは止められないから。その憧れを抱いた過去の自分を裏切りたくないから。

 「だからなんだよ」

 僕の渾身の絶叫は簡単に一蹴されてしまった。彼は心底あきれ果てたように深く、ため息を吐く。

 「別に、お前のことなんか、どーでもいいよ。ハイハイじゃあアンタはラッパーですよ。ハイ、これでいい?」

 「謝ってください」

 「あぁ?」

 「僕に失礼な言動をしたこと、謝罪してください!」

 「……お前さぁ……二度目は無ぇ、って言ったよな?」

 そして、僕はボコボコに殴られた。何度も何度も顔面や腹にパンチを食らい、徹底的にシメられた。途中からは痛みが飽和して感覚はオーバーフローし、いつしか衝撃しか感じなくなった。

 「いってぇ……」

 月明りしか光源が無いような路地裏では、やはり誰も助けに来ることはなく、僕は独りぼっちで天を見上げていた。青がかった黒色がビルの額縁を所せましと染め上げている。コンクリートの地面が冷たくて気持ちいい。

 酷い目にあったにもかかわらず僕は晴れやかな気持ちだった。自分に嘘を吐かなかったからだ。負けっぱなしの僕だけど、そこだけは褒めてやってもいい。

 ラッパーならリアルであれ。リアルとは、等身大の自分を隠さず曝け出すことだ。

 僕は改めて今日の出来事を深く胸に刻み、やがて目を閉じた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る