短編小説『BOOK LUCK』
サード
潮と悪魔と帰る灯り
夜の路地を、雨の名残が淡く照らしていた。
濡れた舗道に自動車のテールランプが滲み、店先のランタンに彫られたカボチャの顔が、「BOOK LUCK」と刻まれた看板の隣で、かすかに笑っている。
――カラン。
扉のベルが鳴り、潮風のような香りが流れ込んだ。
浅見道久は、カウンターでミルを回す手を止めた。
ふと顔を上げると、扉の向こうに立つ赤い髪の女と目が合う。
長い旅の塩気を纏い、どこか緊張した笑みを浮かべている。
「……あ、あの、ここ、飲食店ですよねっ?」
「ええ。いらっしゃいませ。ようこそ、喫茶 BOOK LUCK へ」
浅見は穏やかに微笑み、手で席を示した。
「どうぞ。雨に打たれた体を、少し温めていってください」
赤髪の女は、何度も小さく頭を下げながら、
恐る恐るカウンター席に腰を下ろす。
「ひ、ひゃぁぁ……っ。 こ、コインちゃん、こういう静かなお店って慣れてなくて……!」
「“コインさん”とおっしゃるんですか?」
「え? あ、はい! 正式にはコイン……シルヴァロットで……サーベツ……あ、いえ、その、海の近くの港町から来たんです!」
浅見は、ほんの一瞬だけ目を細めた。
聞き覚えのない地名。そして、家名を名乗ることをためらった少女。
家族に何か事情があるのかもしれない――そんな考えがよぎったが、詮索はしない。
ただ、ゆったりとコーヒー豆を計りながら微笑む。
「……港町ですか。ここ人智市からは少し遠いですね。では、潮の音が聞こえそうな一杯をお淹れしましょう」
お湯がポタリと落ちる。
立ち上る香りは、静かな波のように店内を満たしていく。
「こちらは“浅見ブレンド”といいます。深い苦味と、果実のような香り。最後にほんのりと甘みが残るようにしてあるんですよ」
カップが置かれた瞬間、
コインの瞳が少しだけ見開かれた。
「……いい香り。海の匂いでも、焚き火でもない……でも、どこか“帰る場所”の香りがしますね」
「帰る場所――ですか」
浅見の声に、ふっと笑みが混ざる。
「いい言葉です。きっと、あなたの旅が長いからでしょう」
「……まぁ、そうですね。あちこちで夢を売って歩いてますから。“夢と希望、まとめてお得ですよ!”なんて」
彼女は軽くウィンクして、
けれどその笑顔の奥に、どこか寂しさがあった。
浅見は、それ以上は何も問わず、
カウンターにもう一皿を置いた。
黒く輝くプリン。黒猫のしっぽのようなクリームが乗っている。
「“黒猫プリン”です。苦味を抑えた、優しい味ですよ」
「うわっ、かわいい……!」
コインは思わず声を漏らした。
スプーンで耳の形をなぞり、一口食べた途端、
目を閉じて息を呑む。
「……とろける……。甘いけど、どこか切ない味……」
「ええ、そういう味なんです。苦味のあとに残る、やさしい甘さ。“明日ももう一度立ち上がれる”――そんな味でしょう?」
コインはゆっくりと目を開けた。
彼女の青い瞳に、焙煎の灯りが映っていた。
「……あんた、商売上手ですねぇ」
「いえいえ、私はただ、この店に来た人の“今”に合わせて味を出しているだけですよ」
浅見は、カウンター越しに静かに頷いた。
「人も、珈琲も。冷めても、もう一度温め直せば、また香りが立ちます」
その言葉に、コインは何かを思い出したように小さく息を呑んだ。
「……まるで、潮茶みたいですね」
「潮茶?」
「クラウ……故郷の海塩と香草で煮出したお茶です。例えるなら海の匂いと、潮騒の音がする飲み物……。飲むと、“今日も生き延びた”って思えるんです」
「……素敵な話ですね」
浅見は、それがどのような飲み物かは知らない。
けれど、確かに心の中に“潮の香り”が広がった気がした。
「――きっと、それがあなたの“帰る灯り”なのですね」
コインは、照れくさそうに笑った。
そして、小さくカップを掲げる。
「なら、この“浅見ブレンド”もお返しです。潮茶と同じ、“生きてる証拠”の味がしました」
浅見は微笑んだ。
カウンターの灯りが、静かに二人の間に滲む。
その光は、まるで遠い海の灯台のように温かかった。
――ゴーン。
ベルの音が店内に響いた。
時計が九時を告げると、雨音の余韻もすでに途絶えていた。
道路には、まばらに車の光が流れていく。
カップの縁から立ちのぼる湯気が、灯りに溶けて、夜の空気へと消えてゆく。
コインは、三杯目の〈浅見ブレンド〉を飲みながら、
スプーンの先で黒猫プリンの耳を、つん、と突いた。
「……ねぇ、マスター。このプリン、耳のカーブが完璧すぎません? 誰が作ってるんです?」
「早乙女優奈という子がいましてね。レシピは厨房の庵のものですが、甘いものを作らせたら店で一番ですよ」
「へぇ〜……職人の手、って感じしますねぇ。商売は“手の信頼”が命ですから」
浅見は笑いながら、静かにカップを磨いた。
その時――奥の扉が小さく開いた。
――カチャリ。
「……へぇ? 村田の言った通り。おかしな格好の“お客サマ”って、ほんとに来てたんだ」
声は軽く、どこか挑発的。
制服の袖をまくり、黒いリボンを揺らしながら現れたのは、
喫茶〈BOOK LUCK〉のもう一人の従業員、召田碧莉だった。
赤い髪の商人と、黒いリボンの少女。
ふたりの目が合った瞬間、空気がわずかに変わる。
「にっ……にぎゃあ!? だ、誰っ!? え、ちょ、距離近っ!」
コインがスプーンを握ったままのけぞる。
「“ざぁこ♡”って言ってほしい顔してたから、ついね」
碧莉が笑う。
その笑みは、悪戯と自信と、ほんの少しの好奇心でできていた。
「こら、碧莉。お客様に失礼ですよ」
浅見が磨いていたカップを置き、静かにため息をつく。
だがその目尻には、叱責よりもむしろ苦笑が滲んでいた。
「……はーい、マスター」
碧莉は軽く肩をすくめ、それでも挑発的な笑みを崩さない。
「でもさぁ、うちの店に“潮のにおい”がする人、そうそう来ないんだもん。気になるでしょ?」
「コインちゃんはただの旅人ですよ。海の向こうから」
コインは苦笑を浮かべながら、カップの縁を指でなぞった。
白い湯気が立ちのぼり、指先をかすめて消える。
その仕草は一見無邪気だが、どこか逃げるようでもあった。
「ふーん……じゃあ、“潮茶”ってやつ、今度作ってよ。さっきマスターと話してたでしょ?」
碧莉がスプーンを指の間でくるくると回す。
「代わりにあたしが“悪魔スイーツ”出してあげる」
「悪魔……?」
コインの眉がぴくりと動く。
「“ざぁこ”って言葉より、もっと中毒性あるやつ。名付けて――《デビル・カトレア》。見た目は真っ黒、でも中はトロトロのベリーソース。苦いのに、笑っちゃうくらい甘いんだ。――きっと、潮茶よりも美味しいよ?」
碧莉の唇が、挑発的にゆがむ。
その声音には、毒と蜜が同じ割合で混ざっていた。
スプーンを軽く振るたび、照明の光が刃のように反射する。
「……なにそれ、ずるい!」
コインが思わず身を乗り出した。
頬はうっすら紅潮し、スプーンを“武器”のように構え直す。
彼女の青い瞳が、炎のようにきらりと光った。
「なら、取引しましょうか。“潮茶”と“悪魔スイーツ”。どっちが“生きてる味”か――勝負です!」
浅見は苦笑しながら、新しいポットに湯を注ぐ。
「やれやれ。どちらも風が強い」
碧莉はカウンターに肘をついて、挑発的に笑う。
「いいね。その勝負、買った」
彼女がスプーンをトン、と叩く。
その音が合図だった。
コインはまず、ゆっくりと息を吸った。
語るように、売るように、まるで詩を紡ぐように話し出す。
「潮茶の最初の一口は、驚くほど静かなんです。海の底みたいに透き通ってて、香草がふわって鼻をくすぐる。でも、次の瞬間――舌の奥に小さな波が来る。塩気が喉をすべって、“今日も生き延びた”って思えるんです」
碧莉が、思わず息を呑んだ。
笑うでもなく、ただ目を細める。
「……しょっぱいのに、優しいんだ」
「ええ。“負けたあとに笑える味”。それが潮茶の真骨頂です」
沈黙。
浅見はカップを磨きながら、その空気を壊さない。
やがて碧莉が、ふっと笑った。
「いいじゃん。あんたの潮茶、ちゃんと味がしそう」
そう言って、厨房へ消える。
そして数分後――
戻ってきた彼女の手には、漆黒の皿があった。
黒いムースに花の形の紅い飴細工。
その中心で、微かに光るベリーソースが揺れている。
「ハロウィン限定品の《デビル・カトレア》」
スプーンが差し出される。
コインがひと口食べた瞬間、言葉を失った。
「……っ、苦い……でも、すぐに甘い。笑うしかないくらい、痛いのに甘い」
碧莉が微笑む。
「“泣いたあとに笑える味”でしょ?」
二人はしばらく見つめ合い――そして、同時に笑う。
「……商談成立ですね」
浅見が静かに言った。
碧莉はスプーンを指で回しながら言う。
「ねぇ、次に来る時は、本物の潮茶、淹れてよ。あたし、甘いだけのスイーツじゃ満足できないんだ」
「ええ、その代わり――“ざぁこ”禁止ですよ。」
コインが笑う。
「ふふ、言ったら値段三倍に跳ね上げたりとか?」
夜の喫茶店に、潮と笑いの香りが広がった。
浅見は二人を見ながら、小さく息をついた。
“しょっぱさ”と“悪魔の甘さ”。
どちらも、確かに生きている証拠だった。
――異なる二つの世界が、
夜の入り江でそっと帆を寄せ合い、
一陣の風だけを交換したような気がした。
その夜、喫茶BOOK LUCKは静かだった。
潮茶と悪魔スイーツの余韻が、まだカウンターに漂っている。
テーブルの上に置かれたカップからは、微かに焙煎の香り。
外の街はすっかり夜を飲み込み、雨上がりの石畳が遠い灯を反射していた。
カラン――。
扉のベルが、ひとりでに鳴ったように思えた。
けれど、そこに立っていたのは長い黒髪の女子高生――
常連客の夕闇黒江だった。
彼女はいつものように、何かを見透かすような笑みを浮かべている。
浅見は、彼女が黙ってメニューを手に取るのを見守りながら、窓の外の夜に目をやった。
「……へぇ? また随分と遠い場所の香りがするね~。支配人さん、他のお客さんでも来てたのかな?」
黒江がぽつりと呟く。
紫がかった瞳は、先ほどまで客が座っていた席を片付けている従業員へと静かに向けられていた。
「そうですね。ずいぶんと不思議なお客様でしたよ。このあたりの地理に疎いようでしたし、無事に帰られたかどうか……」
浅見は、支払いに渡された謎めいた銀の貨幣を指先で転がしながら答えた。
「おぉ~、見たことない銀貨だね~。換金すればそれなりの金額にはなると思うけど……日本のお金持ってなかったのかな? そのお客さん」
黒江は、ニヤリと笑みを浮かべると――
「ジャック・オー・ランタン……ね」
カウンターの端に置かれたカボチャの装飾を見つめ、小さく呟いた。
「彷徨う火じゃなくて――帰るための灯り、だったのかもね。――きっと帰れたと思うよ? だって今日はハロウィンだからね~」
メニューをぱらぱらとめくりながら、黒江の唇に楽しげな笑みが浮かぶ。選び終えたらしい彼女は、ひょいと浅見へ声を投げた。
「支配人さん。いつもの黒猫プリンと……せっかくだしハロウィン限定の“デビル・カトレア”も追加で~」
「畏まりました。黒猫プリンとデビル・カトレアですね」
浅見は静かに厨房へ向かった。甘い香りの奥で、潮の気配がわずかに揺らめく。
ふと窓の外へ視線を移すと、歩道に並んで輝くカボチャたちは、まるで道標のように思えた。
「カボチャじゃねーって、パンプキン!」
路地裏に、野菜売りの騒がしい声が響いていた。
どうやら、カボチャに似た外国の野菜を売っているらしい。
ここはサーベツ王国の首都、クラウ。
交易品として珍しい品が流れてくるのはよくあることだが──
オレンジ色のカボチャに顔を彫る文化があるとは、コインには不思議でならない。
「……あれ?」
暖かい潮風が吹き抜ける街並みを眺めながら、コインは小さく首をかしげる。
「こんなカボチャ、どこかで見たような……いや、気のせいですね。さてさて、今日は何を売りましょうか!」
露店用の屋台を引いて勢いよく歩き出したコインの背後では、オレンジ色のカボチャが笑顔を向けている。
潮風が、ふとコーヒーの香りを運んできた気がした。
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