25年前の僕へ、

倉木元貴

第1話

 生まれてこのかたいいことが起きたことがない。そう思っている人も少なくないと思う。

 僕自身もそうだ。

 かれこれ23年勤めてきた会社をクビになった。理由は至って簡単で、事業縮小によるリストラ。

 元々小さい会社だってこともあって、選ばれたのは数人だったが、まさか自分が入っているなんて思ってもいなかった。こんな歳になって突然社会に放出されても行く当てもないし、再就職も難しい。なんでもする覚悟があったところでキャリアもない僕なんかを雇ってくれる会社は少ないだろう。それよりもキャリア形成のために若者を採用する。僕が採用する側だって同じことをする。当然の摂理だ。

 だが、長いことこのままでというわけにもいかない。両親もいなく、妻や子供もいない。兄弟もいない1人っ子の僕には仕事をする以外にやりがいがないし、金もない。23年も会社に勤めてきたから退職金は多めにあると思っていたが、明細を見てびっくり。たったの80万円しかなかった。ボロアパートに住んだって、1年で底が見える。それまでに就職先を探さないと生きていくことが困難になる。最悪生活保護も手にはあるけど、負け組みたいでできれば頼りたくない。

 頼れる人がいないというのもある。

 交友関係を築いてこなかったのは自分自身だが、交友関係の築き方もわからなければ必要だと思ったことも少ない。1人でだって生きていける。誰にも頼りたくない。ずっと他人と壁を作って過ごしてきた。

 その結果がこれだ。まだ半分残っているかもしれない人生の半ばで放り出される。

 身から出た錆だと言われれば言い返す言葉も思いつかない。まあ、誰からも言われることもないのだろうけど。これからも1人で寂しく死ぬまで生きていく。それでいい。

 だが、本当に仕事だけは探さなければならない。こんな歳でできる仕事は少ないと思うが、なんでもいいから仕事に就きたい。

 そんな思いから、ハローワークに毎日のように通った。履歴書講座や就職準備講習も何度も受けて、何度も何度も履歴書を送ったが、どこからもいい返答はなかった。計54社。全てにおいて年齢が行き過ぎていると断られた。

 なんとなく自分自身でも感じていた。最初の就職でさえも時間がかかっていた僕なんかがこの歳になって新たな就職先を見つけるのは困難なのではと。これという資格も持ってないし、せいぜい持っている資格は運転免許証だけ。こんな人材を誰が雇いたいと思うだろうか。

 最寄りのハローワークは背後に公園があるから便利だ。ベンチで何も考えることなく流れる雲を見続けられるから。こうしていると時間の経過が早い。ひとつひとつ形の違う雲。速度も違って見ていて飽きない。大の大人が雲の行方を案じているなんて恥ずかしい話であるが、それくらいにやることがない。

 そんな僕に話しかけてきた男がいた。

 身なりはスーツで綺麗な革靴を履いている。装飾品も少なく、見た目は至って普通の営業マン。

 くだらない営業なら勘弁してくれ。金はないわ仕事はないわで困っているのだから。というか、こんな汚い身なりの僕に話しかけて営業が取れると思っているのか。だとするととんだ底辺だな。

 僕よりは酷い人生を歩んでくれないでくれよ。それはないか。年も同じくらいだし、もし酷い人生を歩んでいるのならそんな綺麗なスーツは着られないか。現に僕がずっと使っていたつなぎ服だから。

 人に話しかけられるのも久しぶりのことで、口からは声が出なかった。代わりに、脳内では饒舌に言葉が出てきていた。

 

「あの、もし勘違いだったら申し訳ないんですけど、もしかして日野洋太さんですか?」

 

 なんでこいつは僕の名前を知っているんだ。あったことなんてないだろうに。

 

「あ、全然怪しいものなんかじゃなくて、えーっと、どっかこの辺に。あ、あった。これ名刺。私、玉野光と言います。覚えていませんか?」

 

 その名前を聞いた瞬間。戦慄が走った。

 だって忘れることのない名前。忘れたくても記憶から消すことのできなかった名前。

 高校時代に僕のことをいじめていた張本人の名前だったから。

 なんで今更僕の前に姿を現すんだ。だって、大阪に行ったって言ってたじゃないか。もう二度と会うことはないと思っていたのに。人生は立て続けに嫌なことが起きてしまうんだ。これが神の選んだことというのなら、信仰できる神などこの世界にはいないというのか。

 

「やっぱり人違いでしたか? 似ているのでそうかと思いました。お時間頂戴してすみません。では私は失礼します」

 

「あ、あの……待ってください……あの、僕、日野です……日野洋太です……」

 

 なんで呼び止めてしまったんだ。なんで名乗ってしまったんだ。無視しているのが最善の策だったのに。関わらない方がいいに決まっているのに。こいつと関わっていいことなんて今まで一度もなかったのだから。

 

「やっぱり。そうだと思った。こんなところで何してるんだ?」

 

「あ、うん……まあちょっとね……」

 

「そういえば今仕事は何しているの?」

 

 プライベートなことをずけずけと。昔から変わらずデリカシーのないやつ。でも、性格は柔らかくなったんだな。あの時は王様のような立ち振る舞いだったから。敬語も使えるようになったんだな。

 

「金属加工の工場に勤めていたんだけど……ついこの間クビになって……今は新しい仕事を探し中。バイトも同じくして……」

 

「あー、そうなんだ。最近不景気だからどこも似たようなものだよな。俺もさ、会社に限界を感じて一度仕事辞めているんだ。今は会社起こして小さい会社だけど社長をしているんだ。今はまだ従業員が3人しかいないけど、今年中には事業を拡大する予定だから今人材を募集中でさ。あ、そうだ。日野。ここで会えたのも何かの縁だから、俺の会社では働いてみないか。もし合わないと思ったらすぐに辞めても大丈夫だから。うちに来ないか?」

 

 神はまだ僕を見捨てたりはしていないのか。

 それにしてもタイミング良すぎるだろ。こんな物語でしか起きないような奇跡が現実に起こることがあるんだ。年も結構いっているのに、本当にいいのか。要領よく仕事ができないかもしれないんだぞ。

 

「ど、どんな仕事をするの?」

 

 玉野は僕の隣に腰掛けた。広いベンチではないから距離が少し近いけど、なぜだか今は昔ほど嫌な思いはしない。

 

「やることは本当に簡単だよ。名簿に書いてある人に電話をかけて商談するだけだよ。会話が苦手でもマニュアルがあるからその通り話せば大丈夫だから。たまにいかつい人とかもいるけど、そんなのは少数だから気にしなかったら大丈夫だよ」

 

 聞いている限り、仕事内容は本当に簡単なものだ。会話は確かに苦手だけど、マニュアルがあればなんとかなるのか。

 ただ……

 何か怪しい。名簿、電話、商談。全てがマニュアル化されているのも怪しい。

 

「商談って何売っているの?」

 

「うーん。輸入品とかかな」

 

「ああ、税関がそこにあるから」

 

「まあ。そんな感じ。あとは不動産とかも少々。本当に少しだけだから、触れることはないから大丈夫だよ」

 

「そ、そうなんだ……」

 

 なんで言葉を濁すんだ。輸入品。それはどんな輸入品なんだ。ワインなのか小さな電子機器なのか。どちらにも知識がないのに、簡単に輸入品を扱うことができるのか。マニュアルがあるとは言え、その手に詳しい人間からの電話が来たら何も対応できないぞ。

 僕には難しそうな仕事だな。もっとずっと同じことをできる仕事を探していたのに。

 

「あ、あの……誘ってくれているところありがたいのだけど、もうしばらく考えさせてもらってもいい? 今すぐに返事はできないかも……」

 

「ああ、大丈夫だよ。ゆっくり考えて前向きに検討してくれたらありがたい。俺の連絡先紙に書くから、いつでも連絡してきて」

 

「じゃあ俺は行くから」とハローワークとは逆の方向に玉野は歩いて行った。

 玉野は、これからも仕事を続けるのだろうな。対して僕は、相変わらず空を流れる雲を見ていた。僕も雲になりたい、そんなことを思い浮かべながら。

 せいぜい枝に巣を張る蜘蛛くらいが関の山だろう。

 はあ。

 何を思っても悲観にしか考えられない。

 春の風は、環境の変化や新たな挑戦からくる心地のいいものだと皆言うが、リストラされた人間にとってはひどく重たいものだ。おまけに腰も重い。今日はもう動きたくない。

 流れていく雲をずっと見ているなんて、そんな暇なことをしている立場ではないことは重々理解しているが、何もすることがないのが事実。今まで暇な時間なんてなかったのに、急に暇な時間ができたら何をするのかがわからない。休みが欲しいと何度も願って、金はないけど願いがいざ叶ったら、何をするべきなのかがわからない。

 何かをずっとやりこんできた人間は、何かを手放した途端に何もできなくなる。

 所詮、人間なんてこんなものだ。

 何かに依存していないと生きていけない。

 僕は依存するものを失った。仕事を辞めたことに関しての喪失感は少ないけど、ただ時間が流れていく今の時間はもったいないとは感じる。だからと言って何もできないことには変わりはないが。

 時刻はそろそろ夕刻に差し掛かっていた。

 もういい時間だし、そろそろ帰ろうか。ああ、そういえば玉野から電話番号をもらっていたのだった。輸入品を扱うとか言いながら、何を取引しているのか言えないあたり、怪しい物を取り扱っている可能性もある。こんな歳になって警察に捕まるのはごめんだ。もちろん刑務所での生活が僕にとっては安定していると感じてもだ。

 玉野の連絡先は悪いが捨てさせてもらおう。性格が丸くなったとはいえ、昔のことを忘れることはできないから。


 僕の住んでいるアパートからハローワークまでの道のりには、この市で唯一の交番がある。いつ見ても少ない人しかいないが、警察官は在住している。

 玉野の話を警察の人に話すのもいいかもしれない。証拠はまだ揃ってないけど、未然に犯罪を防ぐことができるのならそれに越したことはない。ただ、こんなズタボロの僕の話を誰が信じてくれるのだろうか。

 もしこの場に、僕と玉野がいたとする。お互いがプレゼンをして、犯罪か犯罪じゃないかを言い合う。どうだろう。僕の話を信じる人はいないだろう。見た目や話し方で信ぴょう性は果てしなくゼロに近いだろう。

 つまり、僕が交番に行ったところで、相手にされることはなく、妄言を話していると貶されるだけ。行かないほうがいいな。

 警察に行くことを諦めて家路に就いた。何もすることが起きないから、いつもにまして道のりが長く感じた。足取りも重く、家に着いてからもご飯を食べたいとも思わなかった。

 帰って何もしないまま、床に無造作に敷かれている布団に横になった。

 

 明日からも同じような生活が待っているのか。

 

 絶望感しかなかったが、仕事を探さないほうがもっと大変で絶望的な環境になるから、ハローワーク通いは明日以降も続ける。

 とりあえずはバイトでもさせてくれるコンビニでも探すか。夜間とかであれば募集しているところもあるかもしれないし、生活の質を高めなければ、最悪なんとかなるかな。

 

 ハローワークに通うのは気持ちも足も重かった。どれだけ応募しても、また落ちるばかり。

 この間のコンビニはバイトを募集していたが、汚い格好って言われて落とされた。いい服なんて持っていたら、コンビニの夜間バイトになんて応募しないって。それに、時給は最低賃金の夜間増しのみ。バイトだから福利厚生は充実していない。ここのコンビニはもう二度と来ることはないだろう。さようならコンビニ。

 

 コンビニを少し歩いたところにも公園がある。ベンチには誰もいない。同じようなことはしたくなかったが、空を眺めるにはちょうどいい天気だ。

 今日の雲は少し動きが早いな。

 そんなことを思っていると、視界に1人の男が現れた。

 玉野光だった。

 

「やっぱり日野じゃんか。今度はどうしたんだ?」

 

 玉野にはバイトの件は伏せていたほうがいいな。嫌な顔でもされたら何されるかもわからないし。

 

「少し休んでいただけ。本当に」

 

「仕事は?」

 

「……まだ」

 

「検討はしてくれた?」

 

「まあ……うん。でも、僕にできるか不安なんだ……」

 

「最初は誰だってそうだよ。少しずつ慣れていけばいいし、いきなり正社員が難しいって言うのなら、最初はアルバイトからでもいいよ。無理は禁物だからね」

 

 本当にただ丸くなったのだろうか。人の優しさに触れるのが久しぶりすぎて、こんなに暖かい物だったのかと感じてしまう。

 だが、どこかで疑っている節もある。それは玉野だからとかではない。本当にこんな扱いを受けるのが久しぶりすぎて、何か罠でもあるのかと思ってしまっている。性格が歪んでしまった人間だから仕方ないってことにしてくれ。

 

「そ、そう言ってくれるのはありがたいけど、迷惑だけはかけたくないんだ。僕にできることなんて数少ないから」

 

「迷惑って……さっきも言ったけど、最初は誰だって迷惑をかけるのだから気にしなくてもいいのに。最初から何でもできる完璧人間がいるなら、俺はそいつこそ雇いたくはないね」

 

「そんなものか?」

 

「そんなもの。最初から何でも完璧にできる人なんていないのだから」

 

 もう答えを出してしまいそうだったけど、まだ疑いは完全に晴れていない。玉野は信じてはいけない人。僕の中でその答えだけは変わらない。過去のことを水に流したことはないんだから。

 

「悪いけど、もう少し考えさせてもらってもいいかな」

 

「ああ。いつでも大丈夫だから」

 

 今日は僕が先に帰った。玉野はベンチに座ってどこかで買った缶コーヒーを飲んでいた。

 僕の分も買ってくれているなんて……あたたかいなコーヒーは。

 

 いつもより少し足取りが軽かった。ポケットに入っているあたたかい缶コーヒーがより一層、心を満たしていた。

 交番を素通りして、人が溢れているスーパーを横目に、車の入れない狭い道に入った。

 この道を抜けた先には少しだけ住宅街が広がっていて、ほとんど顔を見たことはないが、嫌われていることは理解しているから、素早く素通りする。

 一体僕がいつ迷惑をかけたというのか。世の中の偏見とはその辺にいくらでも転がっている。見た目だけで言わないでほしい。僕だって好きでこんな格好をしているわけではないのだから。

 住宅街を抜けた先は小さな畑と工場が混在している場所に出る。工場といっても、何を作っているのかも知らないし、本当に稼働しているのかも怪しいくらい静かで全体的に赤錆びている。

 いつもは車なんて止まっていないのに、今日は珍しく黒いワンボックスカーが止まっている。

 誰か来ているのか。それに黒のワンボックスカーなんて近寄りがたい存在だな。

 黒のワンボックスカーの近くは通らないように気をつけながら、工場の脇道に入ろうとした。この先に僕の住んでいるボロアパートがあるからだ。だけど、小道に入ろうとしたその瞬間に、背後から何者かに腕で首を絞められ、叫ぼうにも声が出なく、ひどい眠気のように意識が遠のいていった。

 気がついた時には薄暗いどこかにいた。広い空間、金属の錆びた匂い。どこかの工場だ。

 僕はパイプ椅子に座らされていて、口にはテープを貼られ、身体を紐で縛られていた。

 顔を上げると、コツコツと足音が聞こえて僕の前には2人の男が現れた。

 見覚えのある顔。もし僕の思っている通りなら、最悪の事態になっていることが確定する。

 

「あの、僕が何かしましたか?」

 

 まず右の男が、笑いながら僕に顔を近づけてきた。

 

「久しぶりだな。またこうして出会えたことを光栄に思うよ。また一緒に遊べるなんて楽しみだな〜」

 

 ああ。間違いない。こいつは玉野の友人の前田だ。僕を1番いじめていた人物だ。

 つまり、隣にいるのが……。

 

「武尊。あまり脅かすなよ。せっかくの商品に傷がついたらまた光に怒られるぞ」

 

 玉野のもう1人の友人、村山か。

 最悪だ。本当に最悪だ。やっぱり、全て嘘だったんじゃないか。だから嫌だったのだ。玉野が改心したなんておかしな話だと思った。あの玉野が改心するわけないじゃん。だって、今まで何人もの人をいじめては転校させて、新しいいじめ先を見つけてを繰り返していたらしいから。

 未だに続けているんだな。高校生の時からろくな大人にはならないんだろうなとは思っていたけど、まさか犯罪を繰り返しているとは。まあ、想像はできたか。犯罪なんて高校生の時からすでにしていたのだから。

 僕はこの先どうなってしまうのだろうか。安易に考えつくことは、このまま消されること。だけど、村山が僕のことを「商品」だと言った。何かしらの価値が僕にはあるのだろうか。その価値が保たれている間は殺されることはないのだろうか。どちらにしても行き着く先は“死”なのか。

 だったら早い方がいい。苦しむ期間が少ない方がいい。これ以上苦しみたくない。

 殺すのであればさっさと殺してくれないかな。

 そう思っていると、薄暗い先からもう1人の男が現れた。さっきまで会っていた玉野だ。

 

「瑛太も武尊も、随分とおとなしいじゃないか。電話でも言ったが、そいつには気づかれたんだ。このまま生かしておくわけにはいかない。自殺に見せかける算段はついている。早く始末してくれ」

 

「そっかーじゃあ、早速気が済むまで殴ってやろうか」

 

「待て、武尊。光、自殺に見せかける算段はついているのだったら、殴らない方がいいんじゃないか?」

 

「多少の打撲痕はかまわない。手形だけはつけるな。指紋は残さないように手袋だけは絶対に外すなよ」

 

「りょーかい。さあ日野、お楽しみの時間だ。今回は逃げるなよ」

 

 どうやったら僕が逃げられると思うのか。椅子に縛り付けられていて手も出せないというのに。もう勘弁してほしいよ。殴るとか、そういうのいいから、早く殺してほしい。昔のような思いはしたくない。

 

 神はこんな時でも僕を見捨てるのか。

 

 何度殴られたのかは覚えていない。

 殴られすぎてもう痛みなんて感じない。いや、やっぱり感じる。痛みと絶望が。

 早く終わってくれないかな。もう何もする気が起きない。

 

「なんだこいつ。生きているのか死んでいるのかわかんねえくらい何もしないな。面白いな」

 

「武尊。そろそろ終わりにしないと殴られていたことが警察にばれる。光そろそろいいんじゃないか?」

 

「ああ、そうだな」

 

 これから何をされるんだ。まあ、何をされてもいいか。動く気力なんて全く出てこないから。

 村山は縛っていた紐を解いた。椅子から切り放たれて僕は床に倒れた。

 

「立て!」

 

 そうは言っても村山。もう立てる気力なんて残ってないんだよ。身体のどこにも力が入らなくて、自分でも本当に生きているのかわからないくらい何も考えられないんだよ。

「立て!」と言われて立たなかった僕に対し、村山は腹に1発蹴りを入れてそれでもびくともしないから、僕は前田に引きずられて工場の階段を上がっていた。

 何をされるのか、だいたい想像がついた。やっとの思いで死ねる。ここまで本当に苦しかった。後悔しかない人生だった。今度もし生まれ変われるのなら、人間以外のひとりで生きていける生物にでもなりたい。

 

 “25年前の僕へ。

 やっぱりあの時に死んでおくべきだった。

 42年我慢しながら生きてきたけど、いいことなんて何もなかった。

 早く終わらせておくことが正解だった。”

 

 村山と前田によって僕の首には縄が巻かれ、2人で持ち上げられた僕の身体は小さな放物線を描きながら落ちていった。

 やっと死ねた。さらば憎き人生。

 

 

 僕は何故だか目を覚ました。

 見覚えのある天井。壁についている棚には懐かしい本がたくさん並んでいた。

 確かこの本たちは15年前に捨てたはず。

 それだけじゃない。壁に高校の時の制服が飾られている。床には僕が苦手としていた数学の教科書も。使っていたリュックサックも。

 どういうことだ。全て夢だったとでも言うのか。それならなんてリアルな夢なんだ。いや、そんなはずない。僕は42歳のおじさんだ。会社にも23年勤めてきて、両親は事故で他界。ボロアパートに1人で暮らす中年。

 部屋を飛び出し、階段を駆け下りて、洗面台の鏡で素顔を確認した。

 剃りが甘く無造作に生えていた髭、ふっくらとした顔立ち、荒れた髪の毛だったはずが、髭なんか生えてなく、シュッとしたフェイスラインに短く整った髪。間違いなく高校時代の僕だった。

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