第39話 見ない自由、思い出す勇気
代々木の午後。
雨上がりの光がガラス窓を濡らしていた。
《ハート・ラボ》のドアが開く。
入ってきた女性は、長い黒髪をまとめ、灰色のコートの袖をぎゅっと握りしめていた。
「……すみません、予約していた相原です。」
声は落ち着いていたが、その奥に震えがあった。
真由は柔らかく微笑み、席を示した。
「どうぞ。ゆっくりで大丈夫です。」
カウンセリングルームの隅には、
観葉植物の影が午後の光を揺らしている。
彼女は深く息を吸い、スマートフォンをテーブルに置いた。
「これを、見るたびに心臓が痛くなって……。」
画面には、消されたアカウントの名前。
写真も投稿も、すべてが消えていた。
「二年付き合って、突然ブロックされて……理由もわからないまま。
なのに、まだ“通知音”を聞くたびに、彼のことを思い出してしまって。」
真由はうなずいた。
「“喪失の音”って、あるんですよね。
目の前にいないのに、心がそこに戻ってしまう。」
「忘れようとしても、逆に思い出すんです。
写真も消したのに、夢に出てくる。」
「それは自然な反応です。」
真由はメモ帳を開いた。
「“失恋の悲嘆”――恋の喪失も、心にとっては“別れ”なんです。」
相原柚は、小さく息をのんだ。
「……悲嘆、なんですか。」
「はい。大切な誰かを失うという意味では、同じです。
ただし、死別と違って“まだどこかにいる”から、心が落ち着きにくいんです。」
真由は少し間を置き、提案した。
「少しだけ、スマホを伏せましょうか。
“見ない時間”をつくる練習です。」
柚はためらいながらも、画面を伏せた。
その瞬間、ほんの少し肩の力が抜けたのを、真由は見逃さなかった。
「……静かですね。」
「そう。通知がないだけで、世界が少し静かになるんです。」
真由はペンを取り、ボードに簡単な図を描いた。
――【悲嘆の波】
上がる → 下がる → また上がる → そして少し、穏やかになる。
「この波は、悪いことではありません。
“立ち直りたい”と“思い出したい”が交互に来るんです。
人の心は、ゆっくり揺れながら整っていきます。」
柚は黙って聞いていたが、やがて小さく笑った。
「……先生、優しいですね。」
「優しさというより、観察です。
あなたはもう、“前を見ようとする波”が来ています。」
そう言って、真由は手元のメモに記す。
感情:安堵 表情:穏やか。
「これから一週間、“見ない自由”を続けてみましょう。
通知も、検索も、思い出すことも、禁止ではなく“お休み”です。」
「……お休み。」
「ええ。悲嘆にも、休息が必要です。」
柚は小さくうなずき、スマホをバッグにしまった。
その仕草に、もう迷いはなかった。
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夜。
真由が帰宅しようとしたとき、メールの着信音が鳴った。
> 【相原柚】
通知を切ってみたら、今夜は少し眠れそうです。
明日の朝、走ってみます。
真由はほっと息をついた。
画面の端には、桐谷からの短いメッセージ。
> 「見ない自由は、心の免疫。
上手に使えています。」
窓の外では、首都高のライトが静かに流れていた。
誰かを失ったあとも、街は動き続ける。
そして人もまた、少しずつ動き出す。
――恋のグリーフケア。
それは、終わった恋を“なかったこと”にする支援ではない。
思い出を、痛みから意味へと変えるための、
静かな再起動のプロセスだった。
(つづく)
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📘 次回(第40話)予告
「心の距離、仕事の距離」
失恋のケアを終えた真由に、別の来訪者。
桐谷が語る“支援者の孤独”と、“見守ることの愛”とは――。
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