第38話 再始動 ― 葛西臨海公園デート実習

 かつての「熱海実習」で、ハート・ラボの経費は軽く吹き飛んだ。

 新幹線代、施設使用料、温泉の利用チケット――

 “恋愛トレーニング”という名のもとに組まれた実験的プログラムは、

 心理的効果よりも、経理担当の頭を抱えさせる結果になった。


 けれど、その経験が無駄だったわけではない。

 あの遠い海辺での実習を経て、桐谷は新たな方針を立てた。


> 「支援はもっと“日常”の中でやるべきだ。

心を動かすのに、新幹線はいらない。」




 こうして生まれたのが《ハート・ラボ Reconnect》の新プラン――

 “都心から30分で行ける、現実的なデート実習”。


 行き先は、東京湾の風が吹く葛西臨海公園。

 空も、海も、心の距離も、すべてはすぐそばにあった。



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🐟 水族園 ― 回遊する心


 水族園のドームに入ると、青い光が一面に広がっていた。

 巨大な水槽をクロマグロの群れが回遊している。

 止まらない命。円を描くたびに、海斗の視線が吸い込まれていった。


「……止まったら、沈んじゃうんですね。」

 彼の声は、反射する水の音に溶けて消えた。


「そう。でも、一匹じゃないから沈まないんです。」

 真由が答える。

「群れで泳ぐ。誰かの呼吸に合わせながら。」


 海斗は目を細めた。

「僕も、ずっと一人で泳いでたのかもしれません。」

「それに気づけたなら、もう泳ぎ方は変わり始めてます。」


 マグロの影が、二人の間をゆるやかに横切る。

 真由は手帳を開き、小さくメモを取った。

 ――呼吸、安定。視線、柔らかい。感情表現、自然。


 その様子を遠くから見守る桐谷は、スマホ越しに映像を確認し、

 静かにうなずいた。

 “導く支援”ではなく、“寄り添う支援”――それが再起動後のラボの原則だった。



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🏖 西なぎさ ― 風にゆれる境界線


 水族園を出ると、冬の陽光が一面の砂を照らしていた。

 西なぎさ。人工的に造られた砂浜には、海鳥が舞い、

 家族連れの笑い声が遠くから聞こえる。


「ここ、人工の浜なんですよね。」

 海斗が言う。


「そうです。人の手でつくられた“自然”。

 でも、こうして風が吹けば、本物みたいでしょう?」


「……人の関係も、そんな感じかもしれません。」

 海斗のつぶやきに、真由は頷いた。

「ええ。完璧じゃなくても、風が通るなら、それでいいんです。」


 潮風が二人の髪を揺らした。

 真由は海斗の横顔を見て、小さく息を吐いた。

 ――彼は、もう前を向いている。



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🎡 観覧車 ― 見下ろす世界、見上げる勇気


 観覧車のゴンドラがゆっくりと上昇していく。

 眼下には西なぎさの白い砂と、遠くにかすむゲートブリッジ。

 夕陽の光が東京湾を黄金色に染めていた。


「……こんなに広かったんですね。」

 海斗がつぶやく。

「前は、画面の中でしか人を見ていなかったのに。」


「ちゃんと見えてますよ。」

 真由が笑う。

「“見よう”と思えた時点で、もう一歩進んでます。」


「……白石さんがいたからですよ。」

 その言葉に、真由は一瞬だけ視線を落とした。

 支援者としての“線”が揺れる。けれど、笑って答えた。


「ありがとうございます。

 でも、これからは自分の足で見てくださいね。」


 観覧車の中、沈黙が少し続いた。

 けれどそれは、もう“気まずさ”ではなかった。

 安心して黙れる静けさだった。



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🌇 夕暮れの再起動


 夜の気配が近づき、観覧車が光り始める。

 西なぎさのベンチに座った二人の影が、波に揺れていた。


「今日の実習は、これで終わりです。」

 真由が言うと、海斗は静かに笑った。

「ありがとうございました。

 “誰かを信じてみよう”って思えました。」


 その笑顔に、もう迷いはなかった。


 真由は少し離れたところでスマホを開く。

 画面には、桐谷からのメッセージが届いていた。


> 『よくやった。

心を動かすのに、距離は関係ない。

風が通れば、それでいい。』




 潮風が頬をなで、観覧車の光が夜の海に反射していた。

 その光は、まるで見えない誰かが

 そっと見守っているように、静かに揺れていた。



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📘次回予告(第39話)

「海の見える再起動」

熱海、葛西と続いた実地支援のあと。

《ハート・ラボ Reconnect》が正式に動き出す。

だが、真由のもとに届いた一通のメールが、

再び“心の境界線”を揺らし始める――。

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