第33話 熱海トレーニング ― 再会の道

 冬の光が、熱海駅前のロータリーを白く照らしていた。

 潮の香りと温泉まんじゅうの甘い匂いが混ざり合い、観光案内のスピーカーが流すBGMが、

 どこか胸の奥にやわらかく残った。


 川瀬海斗は、バス停の標識の影に立っていた。

 スマホを握る手は冷たく、指先がわずかに震えている。

 それでも逃げ出さなかった。――今日という日を、やり直すために来たのだ。


 ほどなくして、バスが停まり、ドアが開く。

 降りてきたのは、真司と真由。

 真司は黒のコートにマフラー、真由は淡いベージュのストールを肩にかけていた。

 どちらも、仕事のときより少し柔らかい表情をしている。


「おはようございます」

 海斗が頭を下げた。

「よく来たな」

 真司が穏やかに微笑む。

「いい天気ですね。……再会日和です」

 真由が笑った。


「先生も来てくださるんですね」

「実地支援のときは監督者が同席するんだ。

 今日は見守り役。声はかけないから、思い切って行こう。」


 海斗はうなずき、深く息を整えた。

 三人は並んでバスに乗り込み、来宮神社へ向かった。


 境内は静かで、風が木々の枝を揺らしていた。

 参道の石畳に冬の光が降り注ぎ、

 樹齢千年の大楠が、まるでこの場所の時間を見守っているように立っていた。


 海斗はその前で立ち止まり、拳を握る。

「……緊張しますね」

「それでいいんです」

 真由の声は穏やかで、確信に満ちていた。

「“怖い”は、“心が動いている証拠”です」


 少し離れた場所で、真司がメモを取りながら言った。

「行く前に、少し練習しようか」

「練習……ですか?」

「言葉を“声にする”練習だ。心の準備になる」


 真由がうなずき、優しく促す。

「本番で伝えたい一言を、いま声に出してみてください」


 海斗は小さく息を吸い、言葉を選ぶように口を開いた。

「……“久しぶり”って言います」

「いいですね」

 真由が頷く。

「それだけで十分です。短くても、誠実な言葉は届きます」


 真司が小さく笑った。

「いまの“久しぶり”、本物の声だった。行こう」


 海斗はゆっくりとうなずいた。

「――行ってきます」


 その声には、もう震えがなかった。


 少し下のベンチに、ひとりの女性が座っていた。

 白いコートの肩に冬の光が落ちる。

 彼がかつてSNS越しに恋をし、そして失った相手だった。


 海斗は一歩、また一歩と歩み寄る。

 真由と真司は距離を保ち、静かにその背中を見つめた。


「手、少し震えてますね」

 真由が小声で言う。

「それでも、もう逃げてない」

 真司の声は静かだった。


 やがて女性の顔が上がる。

 ふたりの間に短い会話。

 何を話しているのかは聞こえない。

 けれど、海斗が笑ったのが見えた。――それだけで十分だった。


「……伝わりましたね」

「そうだな」


 参道の鈴が風に揺れて鳴った。

 それは祝福のようでもあり、別れのようでもあった。


 夕暮れのサンビーチ。

 波が寄せては返すたびに、街の灯りが海面にゆらめく。

 三人は海沿いのベンチに腰を下ろしていた。


「彼女、話を聞いてくれました。

 “ありがとう”って言ってくれて……もう、それだけで救われました」


 真由が笑った。

「それが一番、伝えたかった言葉ですね」

 真司が頷く。

「恋の練習は終わりだ。

 これからは、“誰かと生きる練習”だな」


 海斗は照れくさそうに笑い、うなずいた。

 その笑顔に、もう迷いはなかった。


 波音が静かに響く。

 灯台の光が、ゆっくりと回りながら夜の海を照らしていた。


 真由が空を見上げる。

「先生。……花火がない夜も、いいですね」

 真司は少し笑ってうなずいた。

「そうだな。静かな夜のほうが、心の音がよく聞こえる」


 風が三人の頬を撫で、

 その冷たさの中に、確かなあたたかさが残った。


(つづく)


📘次回予告(第34話)

「別れのない別れ」

熱海から戻った夜。

《ハート・ラボ》に静けさが戻る。

だがその夜届いた一通のメールが、

真司と真由、それぞれの“心の選択”を試すことになる。



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