第32話 別れのない別れ

 夜の《ハート・ラボ》は、海の名残りがした。

 コートに染み込んだ潮の匂いが、暖房の空気に薄く混じっている。机の上には、熱海でもらった薄い紙の地図。折り目のところだけ、指の脂で柔らかくなっていた。


 真司はマグを二つ洗い、布でふきながら時計を見た。九時を少し回っている。窓の外の代々木は、風が強い。街路樹が身を縮め、看板の鎖がかすかに鳴っていた。


 ドアが控えめに叩かれ、真由が顔を出す。

「先生、戻りました。……あ、まだ洗い物してたんですね」

「儀式みたいなものだ。終わった日の、後片づけ」

「わかります。現場の音が、少しずつ静かになる」


 真由が気を利かせて加湿器のスイッチを押す。白い蒸気がふっと立ち上がり、部屋の乾いた空気に丸い輪を描いた。


 そのとき、真司のノートPCが軽く鳴った。メールだ。

 件名に、ためらいがちな言葉が並ぶ。


> 【ご報告とお礼】川瀬海斗です




 真司は開き、声に出さずに読み進めた。画面の光が、彼の頬を淡く照らす。


> 今日は本当にありがとうございました。

来宮神社で、彼女と短く話せました。

「久しぶり」と「ありがとう」だけなのに、ずっと言えなかった言葉を渡せた気がします。


花火はなかったけれど、海の光を見ていたら、

なくしたと思っていたものが、形を変えてそこにあるって思えました。


白石さんにも、ありがとうございましたとお伝えください。

あと、次回は“告白の練習”ではなく、“日常の会話”の練習をお願いしたいです。

たぶん僕は、特別な言葉より、ふつうの言葉が苦手でした。


追伸:帰りに、スマホの古いトーク履歴を一つだけ消しました。

でも、写真は残しました。

それでいいんですよね。




 真司はゆっくり画面を閉じ、マグを一つ真由に差し出した。

「海斗くんからだ。……“別れのない別れ”だったな」

「うん」

 真由はイスに腰を下ろし、両手で温かさを包む。

「縁を切るんじゃなくて、結び直す感じ。ゆるく、長く」


 時計の秒針が、部屋の呼吸みたいに進む。二人のあいだに沈黙が落ちても、重くない。熱海の風が、まだ少しだけ袖口に残っている。


「……支援の終わりって、いつも不思議ですね」

 真由がぽつりと言う。

「終わっているのに、終わっていかない。

 関係は続かないのに、影響は残る」


「潮みたいなものだ」

 真司は言葉を選ぶ。

「引いたあとに、濡れた砂だけが残る。でも、そこに次の足跡がつく」


 真由が微笑んだ。「先生の比喩、好きです」

「古い人間の言い回しだよ」

「古くて、温かいです」


 壁のコルクボードには、今月の予定表。今日の欄に、小さく鉛筆で「再会実習/熱海」と書かれている。真由は席を立ち、ボードの横のメモ用紙を破り取った。

「記録、残しますね」


> 再会実習:

・“久しぶり”と“ありがとう”を渡す。

・拒絶=拒否ではない(相手の選択の尊重)。

・日常の会話練習へバトンを渡す。




 彼女は書き終え、ピンで留めた。紙の四隅が少し反って、影が四つ、壁に咲いた。


「そういえば」真由が思い出したように言う。

「海斗くん、帰り際に聞いてました。……《ハート・ラボ》、ずっと続きますかって」

 真司は少し肩をすくめた。

「続けたいさ。続けたいけど、続けるって言葉はいつも不安を抱えてる」

「経営ですか、それとも倫理ですか」

「どちらもだな。支援は、うまくいけばいくほど慎重になる。

 “恋の実習”なんて名前をつけている限り、なおさら」


 真由はマグを口に運び、熱さに目を細めた。

「でも、今日みたいな日があるなら、私はやれる気がします」

「今日みたいな日が、全部じゃない」

「それでも、支えになります」


 真司はうなずく。

 窓ガラスの向こうで、赤いテールランプが川のように流れていた。

「……明日、一本、個人で診る。沈黙が多い方だ」

「私、裏でタイムライン見てます」

「いや、明日は一人でいい。静けさに少し耐えてみる」


 真由は「了解」と短く答え、椅子の背にコートを掛けなおした。

「先生、さっきのメール、海斗くんの追伸――“写真は残しました。それでいいんですよね”って」

「それでいい」真司は即答した。

「消すことが前進じゃない。持ち運び方を変えることが前進だ」

「……いいな、それ」

 真由はメモに、いたずらのように小さく書き足した。


> 物を捨てるより、重さを持ち替える。




 二人でボードを見上げた。文字は黒く、小さい。けれど確かに、今の二人の声だった。


 帰り支度をしながら、真由がふと笑う。

「先生、これ飲んでみます?」

「何だ」

「自販機のココア。……甘すぎてびっくりします」

「そんなにか」

 紙コップを受け取り、一口。

「……甘いな」

「でしょう」

「でも、今日なら悪くない。砂糖は、たまに薬になる」


 笑い声が、室内の空気を少し暖めた。

 真司は机の端に置いてあったホワイトボードマーカーを取り、ボードの隅に小さく書き込む。


> CASE #028 Reunion / closed




 キャップを閉める音が、夜の合図になった。


 明かりを落とす前、真司はノートPCをもう一度開き、短い返信を書いた。


> 海斗くんへ

こちらこそ、よく来ました。

“日常の会話”の練習、次回のテーマにしましょう。

写真は、残していいです。

それを“今の自分”で見られるなら、もう十分に前です。


《ハート・ラボ》 桐谷




 送信ボタンを押すと同時に、ビル風が窓を軽く叩いた。

 真由がスイッチに手を伸ばす。

「先生、消します」

「ああ」


 灯りが落ち、観葉植物の影が床に長く伸びた。

 廊下の非常灯だけが、薄い緑色の光で足元を縁どっている。

 二人は並んでドアを出た。鍵が回る小さな音が、夜に吸い込まれていく。


 エレベーターを待つ間、真司は言った。

「別れのない別れは、難しいけど美しいな」

「はい。……続きが書ける別れだから」

 扉が開き、二人は乗り込む。

 降りていく箱の中、鏡に映る自分たちの顔が、少しだけ静かに笑っていた。


(つづく)



---


📘次回予告(第33話)

「沈黙のセッション」

言葉の少ない依頼者。

答えのない沈黙に、桐谷は“支援者としての不安”と正面から向き合う。

その頃、真由の机には一通の封書が届いていた――境界線を問い直す、静かな試験。

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