月明かりのベンチ

蒼のシレンティウム

第1話

「月が綺麗ですね」

いつかの国語の授業で教師が意味について解説していた。

曰く、「愛しています」を遠回しに表現した言葉だとか。

私がそんなことを思い出すくらいに、この言葉を聞かされている。


大学帰り。卒業論文の佳境で毎夜毎夜この公園を通っている。

明るい公園ではあるのだが、一角だけ街灯が届かないベンチがある。

コンビニで安くなった中華まんを片手に買食いしていく。というのが最近のルーティンだ。


そんな日々のとある日。確か細い三日月が出ていた夜だったと思う。

年は同じくらいの男の子が、声をかけてきた。

「いつもこの時間ですね」

私は顔を上げて声の主を見上げた。聞き慣れぬ人の声が今日の疲れた私に少し心地よかった。

「ああ、突然声をかけてごめんなさい。毎日見かけてて、ちょっと気になってしまって」

少し言い訳がましく、彼は言った。その慌てた様子が少しおかしくて、クスリとした。

「毎日教授からチクチクうるさくって、参っちゃうわ」

私がそう返すと、彼は嬉しそうに笑って、「そうなんですね」と続けた。

「隣座っても?」

私はベンチの真ん中から少しだけ端へずれた。

彼との出会いは、そんな夜の日だった。


それから時々、彼とは会話をするようになった。彼の話は月に関することが多かった。相槌を打ちながら、決して行くことがないであろう月に対して人々がどんな思いをそこに捧げていたのかを知っていくうちに、彼の話を聞く時間をとても好ましく思っていた。

「月が綺麗ですね」

知ってか知らずか、とても有名なフレーズでいつも会話が始まる。

彼から聞かされた話で、私がよく覚えている話を3つほど聞いて欲しい。


「実はね、月って毎年ちょっとずつちょっとずつ地球から離れていっているんだ。宇宙の広さからしたらそれこそ微生物くらいの距離だけね」

「そんなちょっと?」

「そう、少しだけ。この親指くらい」

「えぇ~~ほんとかな」

半分くらいの月が照らすベンチで二人は自然と笑みが溢れていた。


「月に氷って存在していると思う?」

氷?月に?水がないと出来ないし、ああでも宇宙に水なんてないし。と考えて

「え?ないんじゃないかな」

「ところがね、月の極点――北極と南極だね。月にはクレーターがあるでしょ?」

「あのあなぼこ?」

「そう、あなぼこ」

と笑顔を浮かべて彼は続ける。

「そのクレーターに太陽の光が届かなくてね。ずぅっと昔から水も氷もあるんだって」

してやったりといった顔で彼は言った。

「僕達が生きてる時間なの何億倍も時間をかけて残ってるなんて、すごいよね。知るのが面白いんだ」

私の知らないことを沢山知っていて、それを子供のような顔で披露する彼の言葉は論文で疲れた心にすっと入り込んできていた。


「鐘の音は好き?」

突然何を?

「えぇ……どうかなぁ……」

「月はね、鐘なんだよ」

彼は時々、突拍子もないことを言い出す。

「昔ね、宇宙船が月へ行った時に月にぶつけたんだって」

「何を?」

「ああ、ごめんね。宇宙から帰る時に、使わない宇宙船の残骸みたいなものをね」

「ああ~なるほど」

「そう。そしたら月がしばらく振動してたんだって。だから鐘みたいだなって」

「月って鳴るのかな?」

「震えてるから、近くにいたら聞こえるのかもね?」

ベンチに座って彼は見上げて、まもなく満月になりそうな月に思いを馳せていた。私はそれをぼんやり眺めて、明日も続く論文と教授の相手のことを考えると少しだけ憂鬱になっていた。

「まだまだかかりそう?」

呆けていた私を見て、何かを察したのだろう。

「そうだね~またうだうだ言われるのめんどくさい~」

愚痴る私の話を聞いてくれるのも恒例となっていた。


薄ら雲の奥の半月が照らす夜。私はようやく論文を提出し終えて、この夜のルーティンもしばらく終わりと思っていた。

「月が綺麗ですね」

いつもの挨拶を彼がしてくる。

「や~~っと論文提出終わったよ」

「おお、それはお疲れ様でした」

今ならどんな労いの言葉もありがたい。

「ほんと、毎日夜遅くまであーでもないこーでもないってやってた甲斐があったなぁ」

と呟いて、ふって笑った。

「だから、しばらくはもうこの時間には来ないの」

横に座っている彼の顔は見えなかったけれど、少し大きく息を吐いた気配がした。少しの静寂。雲が月を隠したりする度に、私達が座るベンチが薄暗いから暗闇になったりを繰り返していた。

「月が綺麗ですね」

また、彼は言った。

「今度ちゃんとデートしませんか?」

突然過ぎて、私の脳が追いつかず、固まってしまった。横を向いたら、いつもより真剣な顔をした彼がいた。

私は彼の真剣さに笑顔を返して。

「喜んで」


そんなわけで、彼からの愛を囁くような言葉を思い出しながら、月明かりが差すベンチで彼がそっと薬指に指輪をはめてくれた。

彼曰く、どうしてもここが良かったのだと。

また幾度も囁かれるであろう言葉に、そっと気持ちを重ねて。

この月明かりの下、二人の未来を想像して、手をつないで歩き出した。

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月明かりのベンチ 蒼のシレンティウム @aono_silentium

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