腐海に芽生えを
ホノスズメ
第1話 はるうららかに
寒気もどこへやら、昼下がりのことだった。
庭先を眺めていたら、小鳥のさえずりにぼうっとしていたら、その記憶は溢れ出した。
「……は?」
わたしは五歳、わたしは元浦トシ、わたしはーー。
わたしはただの労働者だった、はず。これといって夢もなく金もない、社会の底辺だった。それがいつのまにやら、こども?
自分の手をまじまじ見つめる。
大紅葉よりも小さいであろう、幼い手だった。
そうだ、わたしはこどもだ。元浦家長男にして、いつまでもぼうっとしていると苦笑されるのが常な、そんなぱっとしないこどもだ。
安全圏を超えて鮮明になっていく意識が、急速に現状を整理し始めた。
……こどもの手。短い足。知らない街中の古民家。生まれてこの方男という生き物を見たことがない、記憶。
「これ、まさか転生したとでもいうの?」
その手の物語があるのは知っていた。男が少ない世界という物語も。しかし、いざ当事者となれば、受け入れ難いものがあった。
顔がしかめっつらになっていくのがわかる。
別にこれと言って執着のある人生ではなかった。しかし満足のいくものではあったのだ。それが、急にこどもの肉体など、はなはだ遺憾である。
思えば転生譚は救済の体がとられることが多かった。わたしはそんなもの望んでいない。毎日あくせく働くだけの人生でもよかった。
しかし、と息をつく。
のどかな空気で怒る気力も霧散していく。
「起こってしまったのだから、どうしようもないのか」
「おや、トシくんどうしたんだい?」
「……おじいちゃん」
背曲がりの老父が廊下の奥からやってきた。祖父だった。
そうだ、男ならおじいちゃんがいたではないか。ふいと庭先を眺めてつぶやく。
「なんでもない」
足をぷらぷらさせて気を紛らわせる。おじいちゃんは横に腰を下ろした。老人特有の枯れた香りがする。
人によっては嫌いかもしれないが、わたしは好きな方だった。
「そうかい……」
元浦トシ、元の名を忘れた今となっては空々しく思えた。
それから十年の歳月が流れた。
不思議なことに、光陰矢の如く時間はまたたくまに過ぎていった。男がはるかに少ないこと、そんな奇怪な世界の仕組みや歴史を研究していると、とんと人間関係は薄れていく。
もとより親から愛されていたのかもわからない。それは前世も今世も変わらない。
わたしはひとりで生きたかった。この社会では男の一人暮らしなど危なっかしくて仕方ないと親類のみなみな様に反対されたが、ならば高校を出て働くと豪語した。
箱入り娘ならぬ、箱入り男が一般的な社会である。中卒で結婚(出荷)するのが普通だった。
それ以上はお金持ちやお偉方の箔付のようなもので、実質的な学歴の価値などないに等しい。
母は言った。「あなたは婿として子を残せばいいだけ」と。
父は言った。「働く必要がどこにある」と。
男は養われるもの、たしかに郷に従えばおかしくないのかもしれない。
だが、わたしは受け入れられなかった。
「どこぞの馬の骨とも知らん婚約者に、わたしの命を預けてひとり悠々と暮らせるか!」
扶養とは負債に他ならない。それはいくら言葉を取り繕っても変わらない。制度的に手厚い支援が受けられるとはいえ、自分の生活を賄えない人生は嫌だった。
人としての責任を渡したくなかった。
結局、婚約は破談となり、わたしは祖父母の家に身を寄せることになった。
春一番の風がふき、今日から二度目の高校生である。前世の日本と同様、学歴の力は大きい。
学知が好きとは口が裂けても言えない。どんよりした気分で学校へと向かう。もとは下っ端労働者だ。初々しい気持ちなどとうの昔のものだ。
同年代の子どもたちが坂道をゆく。ゆったり歩いていると、彼女らの急く足がよくわかった。
「元浦トシです。一年、よろしくお願いします」
自己紹介はほどほどに平凡を、クラス内の反応はないにも等しかった。三十人クラスの内三人しか男子はおらず、他二人がなんとも神々しい。
「朝倉はじめです。よろしゅう」
艶っぽい口の男は、その言葉ひとつで女子を沸かせた。あれだな、大人の色気がどことなく。花街の締め役でもやらせれば人気でそう。
いやそれじゃ遊女が仕事にならんか。
ほおづえを突いて紹介を聞き流していく。
「等外伊織、北方から越してきた。慣れないこともあるので、この地方のことを教えてくれると助かる」
ほりの深い美丈夫は、それこそ熊でも撃ち殺していそうな雰囲気があった。まあ、高校に通うだけの理由がある、お上の血筋なのはほぼ間違いないが。
ホームルームが終わるとささっと二人のもとえ女子が集りにゆく。わたしは担任ーー音無先生に手招きされて教室を出た。
「先生、お話があるようで」
「ああうん、ちょっとね」
なかなか口火を切らない先生を前に、窓を開けて空気を入れる。廊下だ、行く女子に会釈しつつ並んで立っていると、新人教師は意を決したらしい。
音無先生はぐっと拳をにぎった。
「あのね、元浦くんは女性嫌いでかなり有名なの」
「そんなことはありませんが、そう思われて風潮されているのはわかっています」
「あ、うん。それでね、他の子たちは声をかけにくいから、自分から話しかけにいってもいいかなって」
それは、男に要求する態度としてはめずらしい類のものだった。扱いにくいと顔に書いてある。それでも無視はできないのだろう。
高校に入るだけの意思があるのだから、最低限の期待はされているということだ。
「わたしは、言い方は悪いですが、あまり好まれる方ではないかと。朝倉くんや、等外くんと違って特徴もないですし。もちろん何かお困りなら、できるだけサポートはさせていただくつもりですが」
音無先生はぽかんと口を開けて固まっていた。
「先生?」
「んん、いや、ごめんなさい。呆けてた。それならクラスメイトが困っているときは、積極的に関わってくれるということね」
「……すいません、気を遣わせてしまったようで。先生も申しつけたい雑用があれば教えてください、わたしは別に女性嫌いとかコミュ症というわけじゃありませんから」
まだぶかぶかの制服のすそをちょいちょいと。音無先生は苦笑して眉を下げた。
改めて思う。どこの時代でも教育者というものは貴重だと。特に、この世界の一般女性なら男性に気を使いすぎるから、かえって強引に詰め寄るかの二択になりやすい。
音無先生は中間管理職の気があった。
新人でその雰囲気はどうかと思うが。
「ならありがたく。にしてもいい天気ですねえ」
振り返った先生が窓際に肘をつく。肩の力が抜けたようだった。
「はい。ですが冬恋しくもなります」
「ははあ、それはまたなぜ?」
「祖父の月見に付き合う時間、遠のきより響く嬌声がないからです」
音無先生は口を閉ざした。冗談はまだ早かったらしい。
「失礼、戯れでした」
「ハハハ、ですよね……?」
わたしは応えない。不思議そうに廊下をゆく女生徒の目が痛かった。
教室に戻ると、色男と目が合った。女子をひきつれ、歩いてくる。横目にした、音無先生は心なしほうけていた。
「や、元浦くん」
「どうかした?」
「用ってほどもないよ。ただ話したかった」
少ない男だが、だからこそ格付けが必要なときがある。それはクラスという中での立ち位置(ポジション)だ。今回は必要なときだったのだろう。
ふむ、と口元に手を当て不躾に見てくる朝倉は、それを許される立場にある。反応せず、抵抗しないことで従属の意を示しておけば問題はなかった。
「いやすまない。元浦くんは調子が悪そうだ」
「ええ、そちらの方々の方が楽しいおしゃべりができるでしょう。ごゆるりと」
朝倉は満足げにうなずくと踵を返した。もう一方の男子、等外は怒涛の質問責めに「ああ」だの「そうだ」だの、短い言葉しか返さない。
若干弾みが足りないように思われ、しかし女子の側はそれを寡黙で素敵! と騒ぎ立てる。
「人気ですねえ。たしかにどちらも違った色があると思いますが」
「まあ、あそこまで毛色がはっきり分かれると、かえってやりやすいのかもしれませんね。やや、いつの間にか敬語に」
「お互いそっちの方が話しやすいからでしょう」
「いや、きみのは形式ばりすぎですよ。どこの風情人ですか。朝倉くん若干引いてましたよ?」
気のせいだろう。素知らぬ顔をしてれば、音無先生は追及してこない。
教卓横に並ぶわたしたちは、ときおり奇異の目で見られるが、はるうららかな空気がどうにかしてくれるだろう。
気にならないものだ。
「元浦くん、ご家族は」
「父母共に袂を分かっています。今は祖父母と暮らして、まあ気の良いものですよ。あちらこちらへ引っ張り出されずに済みますし。お見合い相手を紹介されるようなこともありませんから」
前世なら目が飛び出すような美女、美少女でも、あいにくわたしは恋仲は向いていない。お互い不幸になるという理由でなんど断ったことか。
音無先生も噂を聞いてるなら知っているはずだった。しかしこれも会話のつなぎ、無粋に指摘するようなことはしない。
「まあわたしのことはいずれまた。この学校って随分と伝統やらに厳しいようですが、やはり先生方も苦労されたり……」
教室や校内の設備は新しいものだが、パンフレットやその評判からして国内有数の高校であることに間違いない。
教師でさえ新任が回ってくるのはめずらしいと思っていると、音無先生は胸を張った。張るものがあったかは、名誉のために口にしないでおこう。
「これでも新しい教育要領や方法を研究して、成果を出してましたからね。ですがはい、結構なしごきというか小言というか、ローカルルールは」
「それが教範に繋がるなら実利でしょうが、見たところまだ先生はそう思えないようですね」
「そうなのよね、この手の慣習には慣れるのがとんと苦手で、あ……このことは内密に」
「聞かなかったことにしておきます。しかしわたしたち男は入学試験なしといったところ、将来の日本を担う女子たちの婚約者探しの場ということも兼ねているのですね」
口は災いのもと、わたし以外に聞かれてないことにほっと息をついた音無先生に話題を投げる。
この時間は生徒間、教師との交流という体の自由時間だった。
「昨今はそれこそ受胎医療も発展してきたけど、やっぱりまだね。男性との直接的な交流、これは偉い方々の特権みたいなものだから」
それだけに苛烈なのよねえ、と吐息をつく音無先生は、なにかしら経験しているのだろう。
なるほど、男子学生というものは一定のブランド価値を持つらしい。
「男のいない学校の方が多いから、この高校はそれが売りだったりするのよ」
「しのぎを削るだけの価値は、彼女たちにはあると」
「見ての通り、交流の機会はそのまま、という事もあるから。夢のある学生生活であるのは間違いないわ」
夢、ね。
姦しい教室を眺めて反芻した。
帰りの頃になると惜しまれつつ朝倉と等外が出ていく。わたしも荷物をまとめて席を立つ。
そのとき、隣の女子の手がどこかで擦りむいてるように見えた。
放置するのは気持ちが悪い。逡巡して声を出す。
「あの」
「は、はい!」
意外だったらしく、周りの女子らもなんだなんだとばかりに目を向けてくる。
相手は小柄な子だった。妹より幼く見える。ボブの髪はよく手入れされていて、きっと自慢なのだろう。
周りに失礼とばかりに頭を下げれば、気にしないふりして忍び目を向けてくる。これくらいならいい。
「相良さん、でいいかな?」
「は、はい。相良舞です」
「緊張させたなら申し訳ない、そんな大したことじゃないから肩の力でもぬいて。そう、深呼吸」
鞄を膝上に、手をかざして促せば、がちがちしていた体も落ち着いていた。
「ほんとに大したことじゃないから。相良さんの左手薬指、擦ってるよ」
「あ……」
鞄からオキシドールとハンカチ、絆創膏を取り出して机に置く。
「手を出して、それとも自分でする?」
「っは、えっとその……」
目を泳がせて躊躇うような相良さんは、周囲を気にしているらしかった。さすがにわたしごとき男に処置されたところで、嫉妬なんかされやしないと言ってやりたいが、安心しないだろう。
手を取って鞄に乗せる。
されるがままの相良さんはどう反応していいかわからないようだった。
数滴、オキシドールをハンカチに垂らし、赤みがかった部分にそっと当てる。絆創膏を相良さんの前で揺らせば、受け取ってくれた。
道具を入れなおして席を立つ。
「じゃ、お大事に」
「……うん」
どんな表情をしていたか、教室を出る頃には忘れてしまった。
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