第5話

 セリカリーナの父は体調を崩しており、客室で休んでいた。

 なおさら体調が悪くなるかも知れないが、この不当な屈辱を、ただちに訴えなければならない。


 廊下は、息を潜めるように静まり返っていた。


 宴のざわめきはまだ遠くで続いているはずなのに、この一角だけが別の時の流れに閉ざされたようで、冷気が肌を撫でていく。その空気の重たさは、音さえも吸い込む底なしの井戸のようだった。


 セリカリーナは震える指先で、父がいるはずの客室の扉に触れた。


 蝶番の軋む音がやけに大きく響いた瞬間、胸の奥がぎゅっと締めつけられる。息が詰まる――その理由を、彼女はすぐに理解した。


 部屋の中には、血の匂いが満ちていた。鉄のような、熱と絶望の混じった匂い。


「……う、そ……」


 そこに崩れ落ちていたのは、父だった。


 セリカリーナには、母も兄妹もいなかった。

 生まれたときから――父以外の温もりを知らない。


 その父が血溜まりの上に伏している。


 言葉が空気に溶け、彼女の中で何かが崩れる音がした。

 足が前に出ない。頭の中が真白に塗り潰され、視界が揺れている。


 その刹那――背後の空気がわずかに揺れた。


『セリカリーナ・デクリィッチェ・ハーベストだな?』


 冷ややかな声。

 振り返るよりも早く、鋭い光が視界を裂いた。


 反射的に身体をよじる。床に転がりながら、耳元で風を裂く音を聞く。

 次の瞬間、短剣が壁に突き刺さった。髪先が数本、宙を舞う。


「誰ですの!?」


 答えはなかった。

 暗闇で姿がよく見えないが、その人影の瞳は、理性の残滓すら宿さない。獣のようだった。


 セリカリーナはドレスの裾を掴み、転がるように廊下へ駆け出す。

 背後で金属が軋み、追いかけてくる足音が響く。甲高く、鋭く、息の音にまで刃を混ぜて。


 息が切れる。視界が滲む。突然の出来事に思考が混乱している。

 それでも止まることなどできなかった。立ち止まれば、そこで終わる。


「だ、誰か! ――不審者ですわ! 誰か!」


 声が廊下の壁にぶつかり、乾いた残響だけが返ってきた。

 返事はない。絹のドレスの裾が床を擦り、靴音が孤独に響く。


 この王城の長い廊下が、まるで彼女一人を飲み込むために伸びているかのようだった。


 セリカリーナは息を乱しながら、光の漏れる方へ駆けた。

 扉を押し開けた先――そこは、先ほどまで自分が主役だった舞踏会場。


 煌びやかなシャンデリアが揺れる中、彼女の視線は一点で凍りついた。


 部屋の中央。

 そこに立つのは、第三王子――いや、もう“元婚約者”と呼ぶべき男だった。


 そしてその腕の中には、見覚えのある女。

 学院の同級生だった平民の娘。


 その唇が、彼の唇に触れていた。


 頬の筋肉が勝手に引きつり、笑っているのか泣いているのか、自分でもわからなかった。


――どうして。

――私が何をしたというの。

――何なの……今日は。何なの?


 拍手が起こった。まるで祝福の鐘のように。

 見物人たちは彼らを讃える。


 「お似合いだわ」「まるで物語のよう」「身分違いの愛だが、私は応援する」


 その声のひとつひとつが、刃となって彼女の心に突き刺さる。


 罵詈雑言を叫ぼうにも、背後で音がした。


 足音。

 静かながらも、確実に近づいてくる。


 その響きだけで、セリカリーナの背筋が粟立った。


(追ってきた――! 父を殺したあの刺客が……!)


 振り返る余裕もなく、セリカリーナは舞踏会場を駆け抜けた。

 ドレスの裾が裂け、装飾の宝石が床に散る。


 だが、来賓客たちの視線は幸せ絶頂の二人だけを見ていた。セリカリーナなどの部屋に漂う埃のように、気に留める価値など無いように。


 セリカリーナは散らばった宝飾具は無視して舞踏会場を飛び出しては、階段を踏みしめ、裏手の厩舎へと駆け込む。


「馬車を! 今すぐ出して!」


 御者台で眠りこけていた御者が飛び起きる。目をこすりながら戸惑いの声を上げた。


「お、お嬢様? お披露目会は……それに旦那様はどうされたのです?」


「いいから! 早く! 詳しいことはあとで話すわ! 今は一刻でも早くここから去るのよ!」


 震える声。

 だが命令の響きには、貴族としての最後の矜持が滲んでいた。

 御者はそれ以上問わず、慌てて手綱を握る。


 蹄鉄が地面を打ち、馬車が夜の王都を駆け抜ける。

 城壁の外に出た瞬間、セリカリーナは背もたれに崩れ落ちた。


 胸の奥で、まだ誰かが笑っている気がした。

 あの舞踏会場で響いた拍手が、耳から離れない。

 婚約破棄の屈辱と、父の死の冷たさと、刺客から逃走の恐怖が、すべて混ざり合って胸を焼く。


「どうして……こんなことに……どうして……」


 かすれた呟きが、闇に溶けた。

 外では雨が降り始めていた。


 馬の鬣が濡れ、石畳を叩く音が、まるで心臓の鼓動のように遠くで響いた。

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