第3話 呼んでいないのに、そこにいる

朝の空は、白い布を一枚かけたみたいに薄かった。

路面は乾いているのに、空気の粒だけがすこし湿っている。季節の端が動くときの匂いだ。

通学路の角を曲がる。パン屋の前に並ぶトレーが金属の音を立て、奥で生地を叩くリズムが午前を刻む。


「……普通だ。」


独り言の形で、心の中の重さを均(なら)す。

言葉にしてしまえば、それは一度だけ軽くなる。そういう癖を、いつのまにか身に着けていた。


校門までの人の流れに乗る。

黒い学ラン、紺のブレザー、白いマフラー。

その中で、呼んでいないのに視線が先に薫を拾った。


昇降口の前。

淡い色のカーディガンの上に、薄い白の手袋。

昨日のピンと同じ形の、色違い。髪にかかる角度が少し浅い。

誰かに話しかけられて、笑っている。

けれど、その笑いの“終わり”に少しだけ余韻が残っていた。疲れ、というより、考え事の名残。


(眠れなかった。か、考えていた。どっちかだな)


推測に根拠はいらない。

ただ、そう“感じた”ことが事実だった。


薫がこちらに気づく。輪がすこしだけ解けて、その隙間に俺が滑り込む形になる。

歩幅は合わせた覚えがないのに合う。


「おはよう、凛くん」


「おはよう」


手袋に目がいく。指の先がすこし丸い。

口より先に言葉が出た。


「それ、似合ってる」


言ってから、しまった、と思った。

言う必要のないことだったし、言ってから回収できる言葉でもない。


薫の瞬きが、一拍遅れる。

反射的な笑いではなく、素の驚きが出てから、声が追いつく。


「……ありがとう」


半音下がった声。

喉の奥で温度が少しだけ落ち、胸の内側で拾われる。

昇降口の金属の冷たさが、ほんの短い時間だけ柔らかくなった。


靴を履き替え、階段を上がる。

教室のドアは、昨日と同じ重さだ。冬でもないのに、開閉の音がひとつ深い。



一時間目は数学。

黒板の数字は、今日も整列している。

先生のチョークの音は一定だが、ところどころで粉が飛び、空中で小さな雲を作る。


薫は手を挙げて、短く質問した。

無駄がない。言葉の骨格だけで立っている。


その直後、斜め前の席の女子がノートを落とした。

机の脚に当たって、ノートの背が軽く開き、ページの角が床を滑る。

拾おうとした女子の手が、机の裏にぶつかり、指先がはじかれた。


「……っ」


小さく漏れる痛み。

周囲の目は、授業へ戻る。良い授業態度だ。

でも、それだけでは救えない瞬間というのが、世界にはある。


薫が椅子をすべらせた。音は出さない。

席は立たない。視線も動かさない。

ただ、背筋をすこし折って、手を伸ばす。

落ちたノートの背を、開き癖がつかないように、指の腹でそっと押し戻す。


声は出ない。笑わない。

「優しさを見せる」ではなく、「傷を増やさない」をしている。


「はい」


目線の高さだけを相手に合わせ、手を離す速度は、相手が受け取りやすい速さ。

女子は驚いた顔をして、それから小さく頷いた。

何も起きなかった、という顔に戻るのに、二秒かからなかった。


その二秒が、俺には二分に感じられた。


(……形が、選ばれてる)


誰にでも同じ笑顔、ではない。

誰にでも同じ声、でもない。

状況に合わせて、傷の形に合わせて、触れ方を変える。


小五の体育館の匂いが、ふっと喉の奥に上がる。

均等に向けられた「大丈夫?」の笑顔。均等な距離。均等な声量。

俺だけが助からなかった、あの瞬間の空気。


チョークの音が戻ってくる。

先生の説明が、黒板の数字に肉をつける。

薫はペンを走らせる。あのときの手の柔らかさは、もうどこにも出していない。

見せないことを、見せない。


胸が、すこしだけ痛くなる。

痛みというより、縮むという感覚のほうが近い。


(——あれは、できない人のほうが多い)


俺にはできない、と思う。

たぶん須藤にもむずかしい。

あれは、訓練ではなく、生きる姿勢に染みている種類の所作だ。


気づけば、目が追っていた。

視線を剥がすのは、剥がしている最中にしか気づけない。


「春日井」


名前を呼ばれて、顔を上げる。

先生が黒板の前で止まり、関数の途中式を指で叩く。

当てられた問題は難しくない。

簡潔に答えると、先生がうなずいた。


視界の端。

薫の視線が、紙を滑って、こちらに跳ねて、またノートへ戻る。

笑ってはいない。

ただ、受け止めるときの眼をしていた。



二限と三限の間。

廊下の空気は朝の冷気をまだ少し持っている。

蛇口から手に水を受けて、額に当てる。冷たい。

鏡の中の自分は、そこそこ。寝癖はない。数字にすると六十五点くらい。


曲がり角。

前から小走りの足音。

反射で半歩引くと、薫がぴたりと止まった。

息が上がって、前髪のピンがさっきより傾いている。


「ごめん、走った」


「別に」


「プリント、コピー機が詰まってて。助けてくれたの、用務員さん」


説明は言い訳の形に見えたが、言い訳ではなかった。

状況の共有。そういう話し方をする人だ。


「ピン、曲がってる」


「え、どこ?」


空中に角度を示す。薫は指先でそっと直そうとして、うまくいかない。

俺は手を挙げかけて、下ろす。触れることの線引きは、いまはまだ早い。


「……ありがとう」


その“ありがとう”は、ピンではなく、直そうとしない線引きに向いていた。

そう感じて、違う可能性も同時に否定はしないでおく。


すれ違う。

足音が遠ざかる。その途中で、一回だけ、背中に視線の気配が触れた。

ふり返らない。ふり返らないことを、選ぶ。



昼休み。

弁当箱の蓋を開ける前に、机のまわりに影が増える。

昨日ほどではないが、噂の余熱はまだ生きている。

「週末どうするの」「両家で集まるの」「服どうする」

質問の矢印はやさしい形をしているのに、数が多いと鈍くなる。


須藤が椅子を鳴らして一歩前に出る。


「すみません、本人、案件の性質上ノーコメで。質問は私が窓口で」


「秘書に任命した覚えはない」


「自薦。手数料は羊羹」


「どこまでも食い意地」


くだらない言葉遊び一つで、空気の傾きが直る。

世界の圧に対して、須藤はよく効く。


窓際。

薫が女子の輪にいる。

笑いは均等。声は軽い。

でも、一度だけ、こちらへ視線が寄る。

“見た”ではなく、“いることを理解した”視線。

俺は箸を一回だけ置く。

薫の目尻が、ほんの少しだけ柔らかくなる。

次の瞬間には、輪の音に戻っている。


卵焼きを口に入れる。甘い。

甘さの均等は安心だ。

けれど、均等であることがいつも正解ではない、ということを、体はもう知っている。


(あの日の体育館——)


古い匂いがのどの奥で少し身じろぐ。

「誰にでも同じ」を実行して、誰も傷つけたくなかった人たち。

それは、たしかに優しかった。

でも、“俺にとって”は、救いではなかった。


須藤が声を落として訊く。「大丈夫?」


「大丈夫」


「“普通”って言わなかったの、進歩」


「腹が減ってるだけ」


「はい唐揚げ没収」


「それは犯罪」


唐揚げを一個ずつ救い合って、弁当箱の中が均等ではなくなる。

均等でない弁当は、見た目は悪いのに、なぜか美味しい。



四限目の歴史。

先生の「ここテスト出るぞ」が冗談にしか聞こえないタイミングで、教室の前方が騒がしくなる。

クラス委員が来週のイベントのプリントを配り始めたのだ。


「来週金曜、学年全体の避難訓練で、クラス別の担当決めまーす。

拡声器、救護班、体育館の開閉、誘導札、あと点呼。

今日のうちに立候補取るから、頼むぞー」


誰も手を挙げない。

視線が机上の消しゴムや爪の白い部分に落ちる。

ものを見ているふりをしながら、ものを見ていない視線。

学校あるあるの風景。


「はい、相良」


いる。

薫がまっすぐ手を挙げる。


「救護班、できます。去年経験あるので」


委員が助かる、と素直な顔をした。

救護班は、一見地味で、実際疲れる。

当日、いちばん汗をかく役だ。


「もう一人——」


沈黙。

誰かが誰かの名前を出す前に、自分が手を挙げるのは、たいへんに勇気が要る。

指名は均等ではないが、責任は均等でもない。


須藤が俺の脇を肘でつつく。

俺は自分の掌をみた。

掌には、昔の体育館の冷たさがうっすら残っている。


「……点呼、やる」


自分の声が、教室の音の平面に落ちる。

委員がこちらを見て、ありがとな、と笑った。


「じゃ、救護相良・田丸、点呼春日井、拡声器は——」


田丸が手を挙げる。

あの、理科室でいつも顕微鏡を覗いている女子だ。

視線は弱いけれど、手を挙げるときの角度は強い。


役割が決まっていく。

責任の重さは均等ではない。

でも、均等ではないからこそ、補い合える。


プリントが配られる。

救護班のところに、細かいチェックリストが並ぶ。

熱中症、捻挫、過呼吸。

学校の安全は、誰かの目と手で、ひとつずつ作られている。


薫がプリントにさらさらと書き込み、俺の方へ一瞥を寄こす。

笑わない。

でも、「頼りにするね」と言っている目だった。

胸の奥が、縮んで、広がる。



放課後。

空は曇りのまま、光の温度だけが夕方に寄る。


今日は帰りに商店街で誘導札の材料を見ておくつもりだった。

厚紙、穴あけパンチ、ビニールのカバー。

買わなくてもいい。見るだけで、当日の段取りが頭に入る。


昇降口で靴を履いていると、背中から声。


「凛くん、商店街行く?」


振り向く。薫が鞄の紐を肩にかけ直すところだった。


「行く。誘導札」


「救護の箱も、中身確認したい。ガーゼのサイズ、去年のが残ってるかな」


「見るだけ」


「見るだけ」


歩き出す。

今日の歩幅は、最初からぴたりと合った。

意図ではなく、慣れの始まりに近い。


アーケード。

八百屋、薬局、文具店。

文具店の前で足を止める。

穴あけパンチのコーナーに、やけに種類がある。

軽い、重い、色つき、業務用。

均等に並んでいるのに、それぞれ少しずつ違う。


「どれがいい?」


「当日、札は三十枚。厚紙にビニールかける。……重いと手が疲れる」


「じゃあ軽い」


「でも軽いと、壊れる」


「壊れない軽い」


「わがまま」


薫が笑いかけて、笑い切らない。

代わりに、真顔で重さを手で測り始める。

手袋はもう外している。指先の腹で、微妙な重さの差を確かめる。


「これ」


選んだのは、派手ではない、けれど、作りの良いメーカーのものだった。

俺も同じものを手に取る。


「買う?」


「見るだけ」


「見るだけ」


目が合って、互いに小さく笑う。

同じ言葉で、同じ逃げ道を持つ。


薬局に移動する。

救急箱の棚。

ガーゼ、消毒液、テープ、ビニール手袋。

薫が小声で数を読み、去年の残量と自分の記憶を照合する。


「これ、サイズ違い。こっちが使いやすい」


「どっちも同じに見える」


「同じに見えるけど、違う。……“同じ”は、ときどき意地悪」


言ってから、薫は自分で小さく頷いた。

たぶん、自分に言い聞かせるように。


店を出る。

アーケードの天井に吊られた旗が、風で回る。

「感謝デー」が逆さになって、また戻る。


角を曲がる前、薫が足を止めた。

信号待ち。

横断歩道の白線の塗り替えが最近あったらしく、白がやけに白い。


「ねえ」


「うん」


「今日、授業でノート落とした子。……気づいてたんだよね」


「うん」


「見てた?」


「見えた」


「そう……」


薫はほんの少しうつむく。

風が前髪を揺らす。


「私、ああいうとき、笑っちゃだめって思ってる」


「笑ったら、こぼれる」


「そう。……“均等”に笑うと、こぼれる。

どっかから、こぼれる。昔、一回、やった」


「見逃した?」


「見逃した」


薫はそれ以上、説明しない。

俺も訊かない。

説明の言葉が、温度を奪うことはあるから。


「だから、形を選ぶ。……ほんとは、ずっと前から選ぶ」


「ずっと前から?」


「うん。朝起きてから」


「朝起きてから」


「歯を磨く前に、今日は笑いを何回にするか決める」


「回数制限の笑顔」


「違うよ。……そうじゃなくて、“誰のために使うか先に決める”」


胸の奥が、静かに熱くなる。

それは、俺がずっと欲しかった言葉だった。


信号が青になる。

歩く。

白線を踏む音が、かすかに鳴る。


歩ききった角で、薫が小さく手を振る仕草をしかけて、やめる。

代わりに、目だけが笑った。


「また明日」


「……また明日」


別れる。

五歩、十歩。

振り返らない。

でも、背中のあたりにまだ、目に見えない糸の感触が残っている。



家の玄関を開けると、醤油と生姜の匂い。

母が顔を出す。「今日は豚の生姜焼き」

頷いて階段を上がる。

机の上に、昨日のプリントと穴あけパンチの品番メモ。

スマホが震えた。「相良 薫」。


誘導札、ビニールよりラミネートの方が丈夫だって父が。

でも重くなるから、野外ならビニールかなって。

迷ってます。

たぶん、すごく。


「たぶん、すごく」。

その言い回しが、メッセージの中だけでなく、呼吸の中に住んでいることがわかる。


明日、学校の倉庫の在庫見てから決めよう。

そっちの方が無駄がない。


送る前に、書きかけの「無駄がない」を消して、「いいと思う」に変える。

効率の正解は、いつも正解ではないからだ。


明日、倉庫見てから決めよう。

いいと思う。


送信。

既読。

「手を振る」スタンプ。


画面を伏せて、天井を見る。

白い塗装の継ぎ目は、昨日より滑らかに見えた。

心臓の拍は落ち着き、代わりに胸の奥の小さな灯が、消えずに残る。


(——呼んでいないのに、そこにいる)


気づけば、視界の中に薫の動きがある。

笑わない瞬間、半音下がる声、指先の慎重さ。

均等でない優しさが、日常の目に見えない場所で繰り返し使われている。

そのたびに、昔の体育館の空気が、少しずつ薄まっていく。


名前はまだ、与えない。

与えた瞬間に、何かが終わってしまう気がするから。


でも、明日は今日より半歩、近づける気がした。

近づくのが正しいかどうかは、まだわからない。

それでも、そう思ってしまう。


——また明日。


心の中で繰り返す。

同じ言葉なのに、昨日より温度が高い。

温度が上がるほど、声は小さくなっていく。

それが、たぶん、正しい。


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