第2話 ひとつだけ、見つけてしまう

翌朝の空は、薄い雲が一枚かかったような白だった。

雨の気配はないのに、光はやわらかく拡散している。

通学路の角を曲がると、電線の上で二羽のカラスが同じ角度でとまっているのが見えた。左右対称。顔の向きまで一緒だ。少し笑って、すぐやめる。


笑った理由が、自分で説明できなかったからだ。


昇降口はワックスの匂いと少し湿った空気。靴箱の列は今日も規則正しい。

須藤が先に見つけて、片手を上げる。


「おはよ。……顔」


「普通」


「その“普通”って単語、意味広すぎるのよ」


からかわれて、肩だけで返す。

本当に普通なのだ。いや、違う。普通にしたい。その差は、きっと見ればわかるのだろう。


靴を履き替えて階段を上がる。

教室のドアが少しだけ重い。冬でもないのに。


ドアを開けた瞬間、視線が先に走った。

意識よりも、反射で。


——探している。


黒板の前。プリントの束を両手で持って、列に沿って配っている相良 薫がいた。

髪を留めるピンは昨日と同じ形だけど、角度が少し違う。

淡い色のカーディガン。袖口から覗く手首の骨が細い。

誰かに声をかけられて、笑う。


均等な笑顔。

教室を明るくするための、正しい光の分配。


その笑顔がふっと切れて、目元がほんの少しだけ崩れる瞬間があった。

息継ぎみたいなほんの一瞬。

それが、やけに目に残った。


(……“均等じゃない”)


心臓が一拍、余計に跳ねる。

自覚した途端、視線をそらした。窓際の席、いつもの椅子、鞄を置く。

そらしたはずなのに、背中でまだ何かを見ている感覚が残った。


須藤が斜め後ろから肘で小突く。


「なるほどね」


「なにが」


「始まってる、の前段階」


「始まらない」


「本人の自覚って、たいてい最後尾なんだよ」


ひとつ深呼吸して、教科書を出す。

黒板の白がやけに明るい。チョークの粉までくっきり見える。

視覚の解像度だけが、勝手に上がっている。



一時間目の現代文。

先生が板書するたび、粉がほのかに宙に舞う。

薫はノートを取るのが早い。行間が揃っている。

ペン先が紙をすべる音が、小さく規則正しい。


昨日までは知らなかったことを、知ってしまう。

それだけで、同じ教室の空気が少し違って見える。


先生が「ここで段落を分ける理由は何か」と問い、数名が答える。

薫は手を挙げない。代わりに、ペンを止めて、窓の外を一秒だけ見る。


考えている顔。

誰にでも向ける笑顔のときには絶対に見せない、素の表情。


胸の奥が、かすかに痛んだ。

痛みというより、縮む、に近い。


(……知らない顔がある)


知らないのは当然だ。

同じクラスにいて、まともに言葉を交わしたのは昨日がほとんど初めてなのだから。

それでも、“知りたい”に名前がつく前の何かが、もう動いている。


先生が歩きながら「春日井」と声をかける。

黒板の脇で止まったまま、さっきの段落の話の続きを求められる。

答えながら、視界の端で薫の横顔が少しだけこちらに向くのを感じる。

笑ってはいない。

ただ、目の奥で何かを受け止める音がした気がする。



二時間目と三時間目の間。

トイレ前の短い廊下は、朝の冷気がまだ残っている。

蛇口の水を手に受け、額に当てる。冷たい。

鏡を見る。寝癖はない。目の下のクマも、まあ許容範囲。

息を吐いて、扉を押す。


曲がり角で、正面から小走りの足音。

ぶつからないように半歩引いたら、薫がぴたりと止まった。

息が少し乱れている。前髪のピンが、さっきよりさらに傾いている。


「ごめん、走った」


「別に」


「プリント、コピー機が詰まってて……助けてくれたの、用務員さん」


言い訳みたいに説明して、すぐ笑うのかと思ったら、笑わなかった。

代わりに、両手のプリントの端をきゅっと揃えて、目線をわずかに落とす。


「昨日の。ありがとう」


「なにが?」


「“知らないだけ”って、言ってくれたやつ」


ああ、と短く返す。

何を言うのが正解なのか、わからない。

謝ることでもないし、礼を言われる筋合いでもない。

でも、伝えてよかった、と言われた気がした。


「ピン、曲がってる」


「え、どこ?」


「ここ」


指で空中の角度を示すと、薫は「ありがとう」と言って、指先だけで直した。

髪に触れる仕草が妙に慎重で、笑いそうになったのをごまかすために咳払いをひとつ。

すれ違う。行き止まりの方へ、薫の足音が遠ざかる。

ふり返らない。けれど、ふり返られている気配が一回あった。


(……ほんとに、始まってない)


心の中ではそういうラベルを貼るのに、足取りが軽い。

そういう自分が、少し面白くもあり、少し怖くもある。



昼休み。

弁当を広げる前から、机の周りに影が増える。

昨日ほどではないけれど、噂の余熱はまだしっかり温かい。


「春日井くんってさ、どっち派? 和食? 洋食?」

「相良さんって昔から面倒見いいよね〜あーそっか同じクラスか」

「週末って外でお食事? 服はスーツ?」


質問はどれも無害な形をしている。

でも、矢印の数が多いと、それだけで圧になる。


須藤が椅子をギッと寄せて、さらっと前に出る。


「すみません、本人まだ案件の詳細、社外秘です」


「誰が秘書に任命した」


「自薦。マージンは羊羹でいい」


くだらない会話を挟むだけで、矢印の角度がゆるむ。

昼の教室は救われる。

窓際を見ると、薫は女子数人に囲まれている。

小さな笑い声が波のように揺れて、また収まる。


(……均等)


その中心で、薫が一瞬だけ視線をこちらへ寄越す。

笑わない。口角も上げない。

ただ、気づいている、という目をする。

テーブルの上で箸を一回だけ置く。

それが合図のように、薫の目尻が柔らかくなる。

次の瞬間には輪に戻って、誰かの話に相槌を打っている。


弁当の卵焼きを口に入れる。甘い。

甘さは均等で、安心する味だ。

でも、均等であることが、いつだって正しいとは限らない。


小五の体育館の匂いが、一瞬だけ喉の奥に戻る。

均等に配られた「大丈夫?」の笑顔。均等な距離。均等な声量。

——その均等が、俺には届かなかった。

思考の奥で、古い痛みがわずかに身じろぎする。

そこに重ねるように、今の教室のざわめきが音量を戻す。


須藤が小声で問う。「無理してない?」


「普通」


「だからその“普通”が」


「大丈夫」


言い切る。

言い切りたい。

言い切れるようになりたい。



五時間目が終わる頃、雨が降りそうな匂いがした。

実際には降らなかったけれど、空の色が少しだけ濃くなる。


放課後。

今日は、一緒に帰らない。

約束したわけではない。ただ、流れとしてそうなった。


昇降口のガラスドアを押し、外に出る。

風が正面から来て、制服の裾が少しだけ膨らむ。

ポケットの中でスマホが軽く震えた——と思ったが、錯覚だった。

代わりに、遠くで部活の掛け声が上がる。


振り返る。

教室の窓のそばで、薫がプリントを束ねているのが見えた。

姿勢がまっすぐで、指先が整っている。

夕陽が髪の一本一本に薄くひっかかって、金色の埃みたいに舞う。


それを見ているだけで、胸の奥のなにかが動く。

“名前のない感情”。

名前を与えれば、それはもう戻らないだろう。

だからまだ、呼ばない。


(……また明日)


声にはしない。

でも、心の中では確かに言った。


歩き出す。

校門の外の道は、夕方の匂いがした。

揚げ物の油、どこかの家の洗剤、バス停の古いゴム。

信号の手前で止まる。

歩行者用のランプが青に変わるまで、十秒。


その十秒が、やけに長い。

長いのに、嫌じゃない。



商店街のアーケードに入る。

八百屋の前に、山積みのトマト。

赤の均一は、気持ちいい。

だけど、少しだけ青いのを選ぶ人もいる。

時間をかけてちょうどよくするために。


「——春日井くん」


背中から呼ばれて、ふり返る。

走ってくる足音。

息の速さ。

薫が両手で鞄を抱えるみたいに持って、立ち止まる。


「一緒に、そこまで」


「さっき、帰らないのかと思って」


「配布、終わらせた」


短い言葉が重なって、歩幅が合う。

今日の薫は歩くのが少しゆっくりだ。

意図的なのか、残った疲れなのか、判断がつかない。


「ねえ」


「うん」


「昨日、勇気いった?」


「どれ」


「“知らないだけ”って、言うやつ」


少し考えて、頷く。


「いった」


「だよね」


薫は前を見たまま、半歩だけ近づく。

肩がかすかに触れた。

わざとではない距離。

でも、自然にそうなる距離でもない。


「ありがとう」


「礼を言われるほどのことじゃない」


「ううん。私、言葉にしてもらわないと、たぶんわからなかった」


「そういう人はいる」


「私、そういう人」


はっきり言うのが、彼女らしいと思った。

笑わないまま言うのが、昨日と違うところだとも思った。


「“均等”なやり方、怖い時あるって言ってたでしょ、昨日」


「言った」


「私も、怖い時ある。

均等でいることに慣れると、いつか“誰か”を見逃す気がして」


「見逃したこと、あるの?」


「……ある」


薫はそれ以上、説明しない。

俺も聞かない。

それでいい。こういう話は、説明すると、急に温度を失うことがあるから。


アーケードの天井から吊り下げられた旗が、風で少し回る。

「商店街感謝デー」の文字が逆さになって、また戻った。


角を曲がる手前で、薫が立ち止まった。

信号の待ち。

向こうの車道をトラックが通り過ぎる。一瞬、風の圧がくる。


「……ねえ、凛くん」


「なに」


「昨日、私、あれだけど。

“誰にでも同じ笑顔”じゃなかったんだよ。ほんの少し」


「知ってる」


「え」


「見てた」


薫の目が丸くなり、それから、ほどける。

笑ったわけじゃない。

でも、目元と頬のあたりが、確かにやわらいだ。

それは、俺だけが知っている種類の変化だ。


信号が青になって、人が動き出す。

俺たちも動く。

横断歩道の白の上を数えるみたいに歩いて、向こう側の角で止まる。


「私、こっち」


「俺は、あっち」


「また明日」


「……また明日」


別れる。

五歩、十歩。

振り返らない。

だけど、足取りの軽さはもう隠せない。



家の玄関を開けると、醤油の匂いがした。

母が台所から顔を出す。「今日は焼き魚」

頷いて二階に上がる。

机の上に昨日の羊羹の箱だけが残っていて、妙に場違いだ。

スマホが震えた。画面には「相良 薫」。


今日、走って追いかけたの、ちょっと恥ずかしかった。

でも、言いたかったから。

ありがとう。


短い文。

「ありがとう」という言葉の、均等じゃない重さ。

ここまで走って、息を上げて、それでも言おうとした人間の重さ。


親指が止まる。

長い返事を書いては消して、また短くする。


了解。

また明日。


送信。

既読がすぐ付く。

スタンプひとつ、「手を振るやつ」が返ってきた。

それだけで、十分だった。


ベッドに背中をつけて、天井を見る。

塗装の継ぎ目が、昨日より少しだけなめらかに見える。

心臓の拍が落ち着いていく。

落ち着くたびに、胸の奥の小さな灯が、消えずに残る。


(……見つけてしまった)


均等じゃない一瞬。笑わない顔。半音低い声。

目の奥の、考えている光。

俺だけが見た、と思えるもの。


それを、特別と呼ぶのはまだ早い。

でももう、完全に知らないふりをするのも難しい。


明日は今日より半歩、近づけるかもしれない。

近づかない方が安全だと知っていながら、そう思ってしまう。


——また明日。


心の中で繰り返す。

昨日と同じ言葉なのに、今日の方が少しだけ温度がある。

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