第二話 自由
川港フィラデルフィアは、かつて合衆国の首都が置かれた都会で、誰もがトラウザーを穿いていた。
赤煉瓦敷きの大通りには、タウンハウスが軒を連ねる。英国式の赤煉瓦造りに白い窓枠、半地下を備えた三階建てや五階建て。縦にも奥にも細長い建物の間に、独立記念公園、市役所、それから、ペンシルバニア大学があった。
セオドアは、市役所裏手に小さなタウンハウスを買い与えられた。一八四〇年、大学生活が始まる。十五歳の秋だった。
「──ゴードン、グッド・ニュース! 司書先生が言ってた新しい地理辞典、今日から配架に出すって。行こう、一番乗りだ」
「テッド、グッド・ニュース。──行くぜ!」
フロックコートを肩に羽織り、講堂前の狭い芝生を速足に渡った。同期ながら一つ年上のゴードンは、入学日に話しかけられて以来、一番親しい。小さな丸机に肩を寄せて、真新しい革張りの地理辞典を開いた。
北米大陸の地理や各州の概要が、表と共に記される。ゴードンが出身地デラウェア州の頁を指して言った。
「人口は、八万人弱か。そんなに少ねぇか?」
「一八三〇年時点の数値だから、今はもう少し増えているんじゃない?」
「だろうな。あと、たぶん出稼ぎは入ってねぇ数だ。うちの
ウィルミントン随一の造船所の跡取り息子は、常に気っ風のいい港言葉だった。おっとりした田舎の少年とは、男振りが違う。
「すごいなぁ、千人も。僕のところ、ケンタッキー州マクラッケン郡だけど、郡全体で千人とかじゃないかな」
「嘘だ、そんなに少ないことがあるか」
「あるさ。──ほら、ご覧よ。マクラッケン郡、一二九八人。しかも、どうせ半分以上は
「
「見えない。
「その間、ずっと畑なんだよな?」
「そう。ずっと煙草」
「……そんなんで、何して遊んでたんだ?」
「雲を見たり、石を拾ったり。──嘘じゃないってば!」
笑うゴードンと怒るセオドアとに、司書教諭から矢のように貸出証が飛んで来た。ゴードンは身を屈め、戯けて詫びる。司書教諭の険しい一目が外されると、腰掛を寄せて、小声のうちに話し出した。
「つまり、ケンタッキーの主産業は農業だ。だから、奴隷が多く要ると」
「うん。じゃあ、主産業が工業のウィルミントンでは少ない?」
「少ないな。というか、北部では新しく奴隷を買うこと自体が出来ない。ちょっと待てよ──あった、デラウェアの奴隷人口。一七九〇年時点で、八九〇〇人くらい。それが、四十年で三三〇〇人まで減ってる」
「死んだにしては多いから、解放された、ということ?」
「──か、西部南部に移されたか、だな。今、綿花畑すごいらしいぜ? ルイジアナからカロライナまで、有り余る財を築いた
「へぇ、見てみたい。ねぇ、冬休み、君の屋敷に行ってもいいかって、ご両親にお許し願ってくれないか?」
「いいぜ、最高! なんだ、テッド。船大工に興味持ってくれたのかい?」
「うん、船は好きだよ」
「そうだ、クリスマスじゃ工員も働いてねぇから、フィラデルフィアの
その夜は、借り出した本をゴードンのタウンハウスに持ち込んで、疑問を挙げては話し合った。ランプを灯し、大きなソファーに肩を寄せ合い、一つの本を読む。ここだけ挙げれば、勤勉な学友だが、実態は少し異なる。
酒瓶もあれば、葉巻もある。土曜日の夜には、部屋に入れるだけの友人を集め、トランプで遊び、負けたならグラスを空ける。学生は大抵、街の
日曜礼拝に行かずとも、教授も叱らない、友人からも白眼視されない。大切なのは、信仰心を見せることではなく、博識であること、かつ、流行りに乗っていること。規律と信仰とが善き人格を育てる、などと、勉強部屋に押し込められていた少年期への反抗に違いなかった。
ゴードンは、一年生の中で最も
「規則正しさが求められるのは、機械とそれを操る工員とだけさ。そうだろう、テッド。俺たちは、資本家になるのだから、そんな規則正しさなどは要らぬものだ」
葉巻を咥えて、トランプを場に捨てていく。フルハウスに揃えて、セオドアの負け分をきっちり回収してくれた。
春には、夜遊びは常習となっていた。バーや劇場など、先々で
シャンデリアの煌めく応接間では、薄いドレスを纏った女たちが手を振って客人を迎えた。深いソファーに腰掛けると、両側にはそれぞれ二人ずつの女が座る。手を握られそうになり、セオドアは慌てて両の手をしっかりと組んで膝の間に収めた。
「かわいい坊ちゃん。どんなレディがお好きなの?」
「綺麗なお
口々、左右から話しかけられ、助けを求めるが、若社長は常連の女と情熱的に愛を言い交わしており、ゴードンもまた、セオドアなど見ていない。胸を大きくはだけさせた女の腰を抱いて、耳許に囁いては笑わせている。見覚えある顔に、記憶を辿れば、先日の公演で端役を務めた女優だった。
セオドアは結局、酒のグラスに手も着けないまま、替わるがわるやって来る香水の匂いに耐えた。随分と経ち、ゴードンが二階から軽やかな表情で戻り来た。隣に座る勢いのまま肩を抱こうとするが、セオドアには実に穢らわしく思えて、手を払い除ける。そのままハウスを出た。
「──おい、テッド。テッドやい! お前、コート着ろよ、ほら。帽子も」
フロックコートが肩に投げ付けられる。セオドアは振り返りもせず、袖を通した。ガス燈に影揺らぐ煉瓦道を進む。
「この一時間、君を待って無駄にしたな。さっさと帰って、小論文進めていればよかった」
「あんまりトゲトゲするなよ、セオドア坊ちゃん。なんだい、年上の女は怖いかい?」
舌打ちして、足を速めるが、ゴードンの腕が伸び来て、肩を抱き寄せられる。あやすように巻き毛を撫でられて、帽子を載せられた。
「何事も経験さ。一度知れば、大したことないと度胸が着く」
「僕は……素性も知らない女と話したくて、今夜、君と外に出たんじゃない」
「素性が知れねぇのが良いんだろ? こっちが望む通りに演じてくれるんだから」
「そう。ならば今後はお一人でどうぞ。生憎、僕は素人演劇には興味ございませんので」
「へっ、こんなときにも育ちの良さ見せ付けてくれるよな、お貴族様がよぅ」
「何それ、どういう嫌味──?」
すっかり気を立てたセオドアが、ゴードンに詰め寄った。しかし、ゴードンは軽く鼻で笑って、セオドアの帽子の
「今から、お前の家に行く」
「……汚ない男は、僕のソファーに座らせないよ」
「着替えてから、お訪ねするよ。紅茶を淹れておいてくれ、俺も今晩は課題に充てる」
紅茶片手に、一時を過ぎるまで。勤勉な学生ごっこは黙々と続いた。
ゴードンが先に寝室に入って、随分と経ってから。セオドアも静かに寝台へ上がる。ランプを消したとき、ゴードンが声を掛けた。
「テッド……」
「あ、ごめん。起こした」
「起きてた。なぁ、お前、女は嫌いかい?」
「別に。仲良くない人は大抵嫌い。若社長さんたちだって、君のお父様の
「ははっ、そりゃあ良いや。じゃあ、仲良くなるところからだな」
「なるつもりはない」
「女じゃないのも試してみたらいいさ」
「……うん?」
「おやすみ。木曜の夜は空けておけよ」
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