故郷遠く

小鹿

前編

第一話 故郷

 ケンタッキー州西部。オハイオ川の両岸には、作付けを待つ裸の畝がまっすぐに伸びる。その南岸、丘陵の頂に、農園の黒人奴隷たちがビッグ・ハウスと呼ぶ邸宅があった。

 暁の薄闇にも明るい白亜のコリント柱は、半円を描いて六本。柱に従って張り出したバルコニーと、スレート屋根との、さらに上。ドームを備えた見張り塔 キューポラ が、今まさに、鎧戸を開いた。

 金の巻き髪を窓枠の釘に引っ掛けながら、首を突き出したのは、十歳になったばかりのセオドア少年。眠さに霞む目をらして、十マイル先のオハイオ川までを見渡す。幾重かの生垣と、黒人小屋 キャビン 。整えられた長い畝。朝の冷えた空気を吸い込めば、初夏の青い濡れた匂いが胸一杯に広がった。

「──テディや、どうだね?」

 梯子の下から、父が尋ねる。セオドアは高揚に任せて、窓枠から首を引っ込めたと同時に、また釘に巻き髪を取られた。解きながら、声を張る。

「父さん、見えないよ! 霧はない! これで七日目だから、夏が来たってことだ!」

 何本かの金髪を窓枠に残して、セオドアは梯子の中段から飛び降りた。オハイオ川から立つ朝霧が、七日続けて見られなければ、夏が来た証として、煙草苗の植え付けが始まるのだ。

 鶏の丸焼きと葡萄酒、堅焼きのブレッド。たくさんの大籠に詰めて、黒人メイドたちが黒人小屋 キャビン へと運ぶ。セオドアと父は、それぞれ馬に乗って、ご馳走行列の後ろを歩いた。三十余名の黒人たちが前庭に集まって、拍手に出迎える。

「ご主人、坊ちゃん! おめでとうございやす!」

「夏でっさねぇ。気張りますでぇ、なあ!」

「ああ!」

「さあ、坊ちゃん──」

 仲間一番の怪力自慢が、セオドアを馬から抱え降ろし、女たちはそれぞれの家族へと木椀を配る。一口ずつの葡萄酒が行き渡ると、セオドアの父は黒人小屋 キャビン の階段に立ち、グラスを掲げた。

「神よ、今年もこの良き日を迎えられましたことに、深く感謝いたします。嵐の来ることなく、怪我など負うことなく、豊かな収穫を迎えられますよう、お導きください。アーメン」

 アーメン、との斉唱の後、葡萄酒が飲み干される。セオドアも小さなグラスを掲げ、水で薄めたキリストの血を飲んだ。


 祝祭は、朝だけ。残りの一日はいつも通り、畑に囲まれた屋敷にて過ごす。幼い弟妹では遊び相手に不足なので、セオドア少年は今日も、ノッポのチャールズに付いて歩いた。

 チャールズは、母の従妹の子、という遠縁ながら、工業都市ボストンの空気に喘息を患ったために、グレン家にて療養をしている大学生だった。いつでもくるぶし丈のトラウザーを着ていた。セオドアの父や周りの領主たちは膝丈のキュロットを穿いているが、東部ではもう貴族趣味のキュロットなど時代遅れだという。

「テディ、ご覧よ。この空」

 気象学を専攻しているチャールズは、散歩がてら屋敷を出ては空を見上げて、尋ねるのだ。

「今日の夕方は、このまま晴れかい? それとも、崩れるだろうか」

「崩れる」

「なぜ? 明るい空じゃないか」

「空は確かに明るい。けれども、もう騙されないよ。五月の降水確率は四〇パーセントなんでしょう? この一週間、雨は降っていない。だったら、そろそろ降ってもいい頃だ」

「ははは、賢いことだ。だけれど、確率というのは、そういう考え方はしないんだよ。天の神さまが指折り数えて、雨を降らすわけじゃない」

「……じゃあ、晴れたまま」

「よくご覧。本当に晴れでいいのかい?」

 青い空は高く晴れて、雲といえば、遠く南の空に細い薄雲が幾筋か伸びているばかり。雨が降るなら、低いところに雲があるはずだ。セオドアは、腰を屈めて覗き込んでくるノッポな学生に、強く頷いて見せた。抱き上げられて、肩車にされる。

「残念だったね、テディ。今日の日暮れ前には雨が来るよ。──あの雲をご覧。あれは、巻雲けんうん。真っ直ぐ、こちらへ伸びて来ているだろう? 合わせて、南風が湿っている。きっと、三時にはもこもこ・・・・の雲が湧いてきて、五時には黒雲が来るよ」

 チャールズの予言通り、夕食の支度が匂うころには、雨は静かに降り出していた。

「……ねぇ、チャールズ。貴方、本当は神様とお話できるんじゃないの? だから、当てられるんでしょう?」

 枕許に座り、寝かし付けにかかるチャールズへと、セオドアは小さな声で尋ねた。子供部屋の黒人メイドたちは、グズって泣く弟をあやすことにかかりきりで、セオドアはまだしばらくチャールズと話せそうだと踏んでいた。

「僕、誰にも言わないよ」

「テディ。天気を読むことは、科学だ。神様との会話ではない」

「でも、雨が降らなければ神様にお願いするでしょう? 今日だって、父さん、嵐が来ないようにってお祈りしていたじゃないの」

「……セオドア、誰にも言わないかい?」

「言わない。言わないよ」

 身体を起こしかけたセオドアを、チャールズは優しく掛け布団の下へと押し戻す。金の巻き毛を撫で、目蓋を閉じさせるように痩せた手を置いた。

「いいかい? 天気と神様とは、関係ない。全ては風の向き、雲の位置で決まる」

「……神様はいないの?」

「神様はいるさ。だけれど、天気とは関わりない」

「じゃあ、あの祈りは無駄だったってこと?」

「そんなことはない。神様は、常に側にいてくださる」

「だけれど、祈りを聞いてくれない?」

「神様は、頼まれ屋ではないからね。簡単には叶えてくれないさ。だけれど、テディ。お前が良い子にしていたなら、きっと神様はお前を助けてくれる。──さあ、おやすみ。神様の手の中に」

 

 チャールズは神を否定しない。しかし、科学の話はいつでも、神とは無関係の領域として語られていた。

 夏にはキャンプ道具を担いで、二人で化石掘りに出向いた。オハイオ川が大きく曲がり、削られた台地が地層を見せる場所で。地球の年齢は、数千万年、もしかすると何億年かもあるだろう、と聞かされながら、砂岩を削り、石を割る。割っても、割っても、ただの石は外見通りの無機質な中身をしていたが、二日目の夕暮れ、ついに青灰色の二枚貝が出た。

「──ほら、テディ。嘘じゃないだろう? ここは昔、海だったんだ。これは、その証なんだよ。長い長い時間をかけて、地球は姿形を変えてきた」

「……神以前の時代から?」

「そうだ。神以前の時代から。……ご覧よ、小さな貝殻だ。何千万年、何億年、ずっとこの地に眠っていたんだね」

 チャールズはノッポの背を屈めて、愛おしそうに化石を撫でた。しかし、屋敷に戻ったときには、化石掘りの片手間に集めた石英や黒曜石の欠片を並べて見せるだけで、化石についても、地球の年齢についても、皆に語ることはなかった。

 こうして、セオドアの心に、科学への関心と神への無関心とを育てながら、快方したチャールズは二年目の秋を前にボストンへと帰って行った。


 十二歳になったセオドアには、大学進学に向けた家庭教師が付けられ、ギリシア語・ラテン語に加えて、数学や歴史、文学などが詰め込まれた。地理学や物理学も習いたい、と父に頼んだが、ケンタッキーの片田舎に教えられる者はいない。そこで、チャールズに頼み込み、文通にて教わることになった。

 一度、試しに父へと地球球体説や地動説を説いてみたが、予想通り、取り合われなかった。同じく、四歳下の弟へと教えてみたら、黒人メイドが母に告げたらしく、馬車で二時間かけて町の教会に連れられた。牧師から二時間かけて、聖書における世界の記述を説かれた。地球は平面で、太陽や星々は地球を周る、と。

 人に興味を語ってはいけない。神の及ばざる領域がある、と考えているだなど、悟られてはいけない。父母にも、屋敷の黒人たちにも。敬虔な父の跡継ぎ息子に相応しく、敬虔な微笑みを浮かべて過ごし、十五歳には慣わし通りにバプテストとしての洗礼を受けた。

 その初夏。大学進学を控えた、最後の植え付け祭。セオドアは、小さなグラスたっぷりに注がれた葡萄酒を片手に掲げながら、父による祈祷を聞いていた。無事と豊作の祈り。居並ぶ老若男女の黒人たちも、目蓋を閉じて祈念する。

 アーメン、との斉唱の後に、一息にグラスを空けた。言い表せない焦りと罪悪感とが、胸におりとして溜まっていた。

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