岩蝦蟇雪崩石は呪いを食べる
岩蝦蟇 雪崩石
第1話
序章:朝の職場と、小さな呪いのざわめき
朝の光がオフィスの窓から差し込む。
淡いオレンジ色の光は、机の角に落ちると微かに揺れて、紙の束やコーヒーカップの縁に細かい影を描く。窓の外では自転車のベルが短く鳴り、微風がカーテンをくすぐる。職場はまだ静かだ。椅子の軋む音、コピー機のわずかな振動、時計の針が進む音だけが耳に届く。
岩蝦魔雪崩石(いわがまなだれいし)は椅子に腰を下ろす。背筋は自然に伸び、手は机の木目に沿って置かれる。触れた感触は微妙にざらついていて、長年の使用で丸みを帯びた角が指先に心地よい。パソコンの冷たい金属も、体温で少しだけ温もりを帯びるのがわかる。
「おはようございます、雪崩石さん!」
背後で同僚の声が弾む。小さな缶コーヒーを手に、笑顔を浮かべながら差し出してくる。温かさが手のひらに伝わる。香りもほのかに漂い、焙煎の微妙な酸味が鼻をくすぐる。
「ありがとう、いただきます」
軽く頭を下げ、缶を口元に運ぶ。コーヒーの液体が舌に触れ、少し苦いけれど、どこか心を落ち着かせる味が広がる。
でも、この職場には普通じゃないものが混ざっている。
目に見えない波動、空気にまぎれる小さなざわめき。たとえば、書類の束の端が微かに揺れているように見えたり、観葉植物の葉の影が、ほんの一瞬だけ人の形を思わせるように伸びたり縮んだりする。
他の人たちは気づいていない。いや、気づかないふりをしているのかもしれない。だが岩蝦魔雪崩石にはわかる。空気の粘度の微妙な変化、光の屈折のわずかな乱れ、音の残響に混ざる微かに低い響き…。それらすべてが、呪いの痕跡なのだ。
私は、こうした変化を「観察する」のが好きだ。目を凝らせば、光の粒子がほんのわずかに震えていることも見える。耳を澄ませば、空調の小さなノイズの中に、言葉にならないささやきが混じっているのも感じられる。
「さて、今日も…行ってみるか」
手を机の上で少し動かす。ペンの感触、紙の摩擦、キーボードのクリックの反動。どれも日常の細部だが、私にとってはすべて観察対象。細かく丁寧に感じるほど、呪いの波動の微細な揺らぎもわかる。
私には、どんな呪いも届かない壁がある。
普通の人なら、あの微かなざわめきで心を乱される。だが私は平然としていられる。誰かが奇妙な行動を取っても、どんな生霊が近くにいても、心の中は静かだ。だから、呪いの根源を探すことに専念できる。
今日も職場を巡りながら、微細な変化のひとつひとつに目を向ける。コピー機の下、観葉植物の鉢の土の隙間、天井の蛍光灯の端。どこに呪いの核が潜んでいるか、すぐにわかる。手を伸ばせば、触れた感触とともに、呪いの波動がわずかに抵抗するのを感じる。
「うん、ここだ」
そう思った瞬間、空気が少しだけ重くなる。まるで見えない手が肩を押すような感覚。深呼吸をしても息は浅くしか入らない。でも、私は平然として掴む。手のひらの中で、呪いが微かに震えるのを感じる。その感触は、冷たく、粘っこく、でもどこか愛らしい。
そして、私はそれを飲み込む。手の中の波動を完全に取り込み、心の壁の中に封じ込める。
すると、世界が少しだけ揺れたように感じられる。光も、音も、空気も、ほんの一瞬だけ色を変えたような…そんな気がする。
職場の人たちは今日も平然としている。いや、平然としているふりをしているだけかもしれない。だが、私は知っている。誰もがこの小さな奇妙さを感じていて、それぞれのやり方で対処しているのだと。
そして私は微笑む。今日もまた、呪いの核をひとつ取り込んだことを、静かに喜ぶ。
第2章:コピー機のささやきと、観葉植物の秘密
朝の光が少しずつ角度を変え、机の上の紙やペンに微妙な光の筋を描く。
岩蝦魔雪崩石は椅子に深く腰を下ろし、コピー機の方を見た。普段ならただの事務機械。しかし今朝は、なぜか小さな「ざわっ」とした気配があった。
コピー機の下には、紙くずや埃がわずかに溜まっている。ふと覗き込むと、埃の中の小さな光の粒が、微かに揺れているように見える。
「ん…?」
思わず眉をひそめる。
他の人は気づかないだろう。いや、気づいても気にしないかもしれない。でも、私はすぐにわかる。この微妙な揺れは、ただの埃や光の反射ではない。
指先を伸ばし、コピー機の下に触れる。触れた感触は冷たく、少し湿った金属の感触。そして掌に伝わる微弱な波動。それは、確かに生き物のように蠢く小さな力だった。
「ふふ…今日も元気だね」
私は心の中で呟く。微笑むと同時に、波動を読み取る。小さな怨嗟、微かな嫉妬の気配、そしてほんの少しだけ「助けて」と言いたげな未成熟な呪いの粒。
そのすぐ隣に置かれた観葉植物にも注意を向ける。葉の緑は艶やかで、生き生きとしているように見えるが、根元の土の奥で微かに黒い影が蠢く。土に触れた指先は、湿気を感じ、微かにぬるりとした感触があった。
「なるほど…ここも隠れているか」
植物は日常の中に紛れて、呪いの小さな核を守っている。光を通して葉をなぞると、影の揺れが微かに反応する。まるで私を試しているかのように。
職場の空気は相変わらず軽やかに見える。笑い声、電話の呼び出し音、コピー機の印刷音。それぞれが日常のリズムを刻む。
しかし私には、音の間に潜む微妙な濁りがわかる。声の裏に潜む不安、紙が擦れる音に混じる小さな怨嗟のざわめき。目には見えないけれど、確かに存在している。
「さて…次はどうするか」
コピー機と観葉植物の間を行き来しながら、私は微細な波動を追う。手のひらに伝わる感触を頼りに、呪いの核を探し、少しずつ掴み取る。触れた瞬間、波動が微かに震え、私の壁に吸い込まれる。
周囲の人たちはまるで何も起きていないかのように作業を続ける。だが、私にはわかる。今日も誰かの心の奥で、小さな恐怖や不安が少しだけ消えたのだと。
昼の光がさらに角度を変え、室内の空気に柔らかい影を落とす。
岩蝦魔雪崩石は椅子を少し回転させ、窓際の書類の山に目を向ける。紙の端に微かにシワが寄り、角度によって黒い小さな粒が光を反射する。その粒は、昨日まではそこになかったものだ。
「また新しい子がいる…」
小さく笑い、指先でそっと触れる。波動は冷たく、粘っこく、でも確かに生きている。掌に伝わる感触は不快ではなく、むしろ手応えのある感覚だ。
こうして、私は今日も職場の小さな呪いの粒をひとつずつ掴み、壁の中に封じ込める。
外から見れば、ただ机に向かって作業する普通の人。しかし私の五感は、光も音も手触りも、微細な波動も、すべて記録し、分析し、吸収している。
そして、ふと笑う。
今日もまた、平穏な職場の裏で、静かに世界を整えたのだと。
職場の人たちは気づかないだろうけれど、私は知っている。小さな奇跡が、今日もここで起きているのだと。
第3章:消えた付箋と、微かなざわめき
午後になり、窓の光は少し赤みを帯び始めた。
机の上の付箋が、一枚だけ消えていることに気づいたのは、紙の端の微妙な陰影を確認した瞬間だった。
「ん?」
手を伸ばして探すが、そこにあるのは机の平らな面だけ。ほんの数秒前まで確かに存在していた黄色い付箋が、跡形もなく消えている。
他の人は気にも留めない。誰かが無意識に取ったのかもしれない。いや、でも机の周囲には誰もいない。空気をよく感じると、微かなざわめきが手のひらに伝わる。これは、ただの風や光の反射ではない。小さな怨嗟の波動だ。
「ふふ…ここにもいたか」
掌に触れるように空中を撫でると、消えた付箋のあたりで、波動が微かに震える。まるで、小さな生き物がこちらを見ているかのようだ。指先でその波動を掴み、壁の中に引き込む。触感は冷たく、わずかに粘つく。だが、不快ではなく、むしろ手応えがある。
その直後、隣のデスクで同僚が小さく声を上げた。
「え、えっと…資料が…」
振り返ると、手元の書類の山が微妙に崩れている。順番がわずかに狂い、紙の端に小さな影が蠢いていた。光の反射のせいか、それとも…やはり呪いか。
岩蝦魔雪崩石は静かに笑う。
「大丈夫、すぐに整えてあげる」
近づき、手で書類をそっと撫でる。紙の摩擦、指先に伝わる微細な振動。波動を感じ取りながら、書類を元の順序に戻す。瞬間的に、空気のざわめきが収まり、同僚の眉間のしわも消えるように和らぐ。
机の上に目を戻すと、観葉植物の葉がわずかに揺れているのに気づく。
「今日も元気だね」
小声で話しかけながら葉をなぞると、根元の土に潜む微かな黒い影が一瞬だけ蠢く。波動を掌に感じ取り、そっと吸収する。手触りは冷たく粘っこい。小さな波が壁に吸い込まれる感覚。
周囲の人たちは何事もなかったかのように作業を続けている。だが、私は知っている。
誰かの机の上で、誰かの書類の間で、今日も小さな呪いの粒が生きている。そして私がそれを見つけて封じるたびに、世界の微細な秩序が少しずつ保たれているのだ。
午後の光が徐々に柔らかくなり、空気が温まる。
コピー機の微細な振動、電話のベル、椅子の軋む音――そのすべてが、波動の隙間で小さく共鳴している。
岩蝦魔雪崩石は椅子を軽く揺らしながら、机の上の微細な変化に目を走らせる。
紙の端のシワ、鉛筆の芯の反射、コーヒーの缶の光。ほんのわずかの違和感も見逃さない。
そして彼は、今日も小さな呪いの核を手に取り、心の壁の中に吸収する。
「これでまた、少し平和になったね」
口元に微かな笑みを浮かべながら、掌の感触を確かめる。
冷たく、少し粘つく波動は、今日も確かに「生きていた」。
職場の人々は、今日も何事もなかったかのように机に向かい、パソコンのキーを叩く。
だが私は知っている。世界の秩序は、こうして微細な波動の積み重ねで保たれているのだと。
第4章:微かなざわめき、そして滲む現実
午後の光はすっかり柔らかくなり、オフィスの机や書類の角に温かい影を落としていた。
しかし、その柔らかさの中で、何かが微かに歪んでいた。
最初に気づいたのは、経理の佐藤さんだった。
「え…これ…数字が…」
声が途中で止まる。パソコンの画面には、入力したはずの数字がぐにゃりと曲がり、文字列が蠢いているように見える。彼は手を伸ばすが、触れられない。画面は微かに呼吸しているかのようだ。
そしてその瞬間、佐藤さんは椅子ごと倒れ、床に崩れ落ちた。
同僚たちは驚き、駆け寄る。しかし、岩蝦魔雪崩石の目には、すでに彼の波動が霧のように拡散していくのが見えた。普通なら悲鳴を上げる場面だが、私は静かに観察していた。冷たく、しかし生々しい波動。
「ふ…ふむ…」
微かな声が自分の口から漏れる。空気のざわめきが耳に絡みつき、コピー機の振動、時計の針の音、蛍光灯の微かなチラつき――すべてが重なり、共鳴し、わずかにねじれた音色を奏でる。
そのうち、事務室の空気が徐々に変わり始めた。
壁際の観葉植物が、葉をわずかに逆さまに広げるように揺れる。書類の端は、ほんの数ミリの間に変形し、紙のシワが深く折れ曲がる。空気の密度が、湿った布を巻き付けられたようにねっとりと重くなる。
次に倒れたのは、窓際の新人、藤井くんだった。
彼は書類を手に取ろうとした瞬間、目の奥が異様に赤く光り、口から泡を吐いて崩れ落ちる。世界の時間が、微かにずれる。
「いや…いやいや…いやぁ」
言葉が、頭の中で勝手にひび割れ、意味を失う。声は外に届かず、内側で暴れまわる。
コピー機の振動は鼓動に変わり、蛍光灯はまるで眼を持つ生き物のように、瞬きするたび形を変える。
私はただ、観察する。
壁の中の特殊な防御に包まれ、精神は揺らがない。だが、外界の現実は崩れ、ねじれ、音も光も意味を持たなくなる。
紙、光、空気、声――すべてが粘液のように絡まり、意識の隙間に入り込もうとする。
「やっぱり…呪いの根源は…ここだ」
口の中で言葉が震える。意味も構造もなく、ただ音として存在するだけ。目の前の世界は、机、椅子、書類、同僚、すべてが蠢き、波打ち、吸い込まれるように変形する。
生きているもの、死んでいるもの、呪いの粒、私の壁――すべてが混ざり、秩序のない迷宮のようになった。
空気は粘りつき、床は揺れ、蛍光灯は笑い、壁は呻き、コピー機は呼吸する。
誰が生き、誰が死んだか――それすらわからなくなる。
私はただ、ゆっくりと、手を伸ばし、呪いの核を掴み、壁の中に取り込む。掌の感触は冷たく、粘っこく、そして異常なほど生々しい。
世界はまだ崩れ続ける。
時間は重く、空気はねっとりと、音は歪み、光は溶け、存在は混ざり、意味は消え、ただ呪いの波動が空間を満たしている。
第5章:蠢く職場、波打つ現実
空気は重く、粘性を帯びた。
コピー機の鼓動は机の下から這い上がり、椅子の脚を通じて床を震わせる。
蛍光灯は瞬きのたびに形を変え、細長く伸びたり、ねじれて丸まり、壁の隅で低く呻く。
「…やめろ…」
同僚の声が、意味を持たずに宙を漂う。
佐藤さん、藤井くん、そしてまだ名前も知らぬ影たち――床に沈み、壁に張り付き、存在が溶けていく。
時間は遅く、そして早く、波のように揺れる。
指を伸ばすと、空気そのものが掌の中に吸い込まれる感触。冷たく、粘り、震える。
岩蝦魔雪崩石は歩く。歩くたびに、床が波打つ。椅子も机も紙も、すべてが波紋となって広がる。
「まだ…ここだ…」
声は自分の耳の中で裂け、言葉が形を失い、意味は光の粒となって散らばる。
観葉植物の葉が蠢き、机の上の書類が自ら宙に舞い、光と影がぐるぐると回転する。
誰が生きていて、誰が死んでいるか、わからない。いや、もはや「誰」と「何」を区別することすら意味を持たない。
掌に伝わる波動は、核の存在を示している。
それは小さな光の粒のようで、冷たく、粘っこく、うねり、こちらを引き寄せる。
近づくほど、世界は溶ける。壁、天井、床、机、椅子――すべてが液体のようにねっとりと波打ち、私の視界に絡みつく。
音も溶け、声も色も形も崩れ、存在は粘液のように絡まり合う。
一瞬、私は立ち止まる。
周囲の全てが狂気に染まる中、掌の中の波動だけが確かに存在する。
「そうか…これが根源…」
言葉にならない言葉が、頭の中で螺旋を描きながら響く。
コピー機は唸り、蛍光灯は笑い、机は呻き、床は呼吸する。
生きているものも死んだものも、呪いの波動の中で螺旋を描き、渦となり、吸い込まれていく。
私は手を伸ばす。
掌の中で震える波動を掴み、壁の中に取り込む。
冷たく、粘っこく、そして確かに「生きていた」。
吸い込んだ瞬間、世界のねじれが一瞬収まる。
だが、収まったのはほんの一瞬。空気は依然として厚く粘り、音は歪み、光は蠢き、存在は渦巻く。
職場全体が、もう誰のものでもない。
名前も顔も記憶も、意味も、消え、ただ呪いの波動だけが蠢く。
しかし私は歩く。壁の中の防御に包まれ、精神は揺らがない。
足元の床、机、椅子、コピー機――すべてを観察し、触れ、波動を吸収しながら、私は根源へ近づく。
微かに見える、黒い塊。
それが、この狂気の中心、呪いの核――この職場のすべての秩序を崩す存在。
掌を差し伸べると、核が微かに震え、世界のすべてがその波動に巻き込まれる。
光は、音は、空気は、形を失い、ただ蠢く。
しかし私は躊躇しない。
飲み込む――
掌の中の核が震え、波動は壁に吸収される。
その瞬間、世界は微かに揺れ、すべての蠢きが収束する。
だが、秩序はまだ完全ではない。
空気は粘り、光はまだねじれ、声はまだ遠くで裂けている。
世界は、完全な平穏を取り戻す前に、さらに深く、ねじれ、蠢き続けるのだろう――
そして私は、ゆっくりと、次の核を探す。
第6章:臓物の渦を貪る瞬間
蛍光灯の光は、もはや光ではなかった。
微細な粒子となって宙に漂い、ねっとりと絡みつき、時折、わずかに赤みを帯びた揺らぎを見せる。
コピー機の振動は鼓動ではなく、粘液が床を這い回るような感触となり、足元の床は柔らかく、吸い込まれるように波打っている。
その中心に、黒く濡れた塊――呪いの根源があった。
見る者の感覚を混濁させるその存在は、まるで臓物が寄せ集まった塊のように蠢き、脈打ち、表面は光沢を持ち、微かに生温かい。
微細な波動が空気を伝い、掌に触れる前から皮膚をくすぐり、冷たく、ねっとりと絡みつき、指先に届く。
私はゆっくりと手を伸ばす。
指先が核に触れた瞬間、波動は皮膚を介して全身に伝わり、骨の奥、内臓の奥まで痙攣するような冷たさと粘性を伴って震える。
掌に伝わる感触は単なる固体ではない。柔らかく、ねっとりと粘り、脈打ち、微細な振動が微妙なリズムでこちらを試すように跳ねる。
「…ふ…ふむ…」
声にならない声が頭の中で裂け、意識の端で微かな波紋を描く。
視界の端で、コピー機の影は伸び、机の角は牙のように蠢き、椅子の脚は触手のように伸び、観葉植物の葉が囁く。
時間はゆっくりと、そして急速に押し寄せ、微細な瞬間が延々と引き延ばされる。
私は核を掌に押し付け、少しずつ口元に引き寄せる。
粘液の表面が唇に触れ、冷たさと生温かさが混ざり合い、わずかに反発する感触が舌の先に伝わる。
匂いは血と土と腐敗の混ざった濃密なもの、嗅覚を刺激し、理性の縁をかすかに揺さぶる。
舌先に感じる波動の微振動、粘膜の微細な抵抗、牙のように蠢く核の表面――すべてをゆっくりと咀嚼する。
一度、唇で包み、口腔の中で押し潰すようにすると、粘液の塊は掌と口の中でさらに脈打ち、微かな痙攣を伴い、世界の秩序の微細な波動が反応する。
コピー機は呻き、蛍光灯は瞬き、机と椅子は微細な波を描き、空気はねっとりと掌の波動に吸い込まれ、残滓の存在が押し返すように蠢く。
咀嚼、少しずつ呑み込む。
根源の波動は掌と口腔の中で反発し、微細な振動として全身に伝わる。
背筋に沿って波が走り、骨の奥が微かに震える。
掌で吸収する波動と、口で咀嚼する波動が重なり、世界の歪みが瞬間的に波紋として広がる。
コピー機の振動、蛍光灯の微かな揺らぎ、床の粘液のような柔らかさ――すべてが私の咀嚼のリズムに同調し、蠢き、ねじれる。
一口、また一口、呪いの根源を貪るたびに、掌の中の波動は収束し、微かに秩序を取り戻す。
だが世界の残滓はまだ蠢く。
机、椅子、コピー機、蛍光灯――すべては微かに生きているかのように波打ち、空気はねっとりと粘着し、触れれば掌に吸い付く。
そして私は、深く息を吸い、咀嚼し、呑み込み、掌の中の核を完全に封じる。
臓物のような存在は、冷たく粘っこく、生きていたまま私の中に収まった。
世界は微かに揺れながらも、秩序を取り戻し始める。
コピー機はただの機械に、蛍光灯は光源に、机と椅子は机と椅子に戻る。
しかし微細な波動の残滓は、掌の中で微かに脈打ち、存在の痕跡として残り続ける。
私はゆっくり立ち上がる。
掌の中の冷たく、生温かく、脈打つ波動を確かめながら、職場を見渡す。
世界は戻ろうとするが、完全ではない。
秩序と混沌、生と死、光と闇、すべてが微細な揺れの中で共存する。
そして私は、掌の中に抱えた呪いの根源を意識しながら、ゆっくりと歩き出す。
秩序と混沌の狭間を、冷静に、しかし確実に、咀嚼し、貪り、歩き出すのだ。
第7章:地獄後
職場――かつて書類とコピー機が整然と並んでいた場所――は、もはや地獄そのものだった。
床には血と肉が粘液のようにべっとりと張り付いており、椅子の脚には臓物が絡まり、天井からは黒く濁った液体が滴る。
蛍光灯は眼を持つかのように瞬き、コピー機は呻き、壁は溶け、波打つ。
空気は重く、粘度のある赤黒い霧となり、触れると掌に絡みつき、体温を吸い取るかのように冷たい。
音は歪み、声は言葉を失い、時間はねじれ、存在そのものが蠢き、残滓は生きているかのように跳ねる。
その時、外からサイレンの音。警察が到着した。
ガラスドアが割れ、制服を着た男たちが踏み込む。
「な、なに…ここは…」
声は震え、意味を持たない。
彼らの眼には、床に貼り付いた血、壁に絡みつく肉塊、天井から滴る液体、ねじれた机と椅子、蠢く蛍光灯――すべてが地獄絵図として映る。
誰も、もはや日常には帰れないことを直感していた。
岩蝦魔雪崩石は静かに立ち上がる。
掌の中には、呪いの根源を吸収した波動が脈打っている。
精神は壁に守られ、冷静そのもの。
周囲の狂気も、警察の悲鳴も、腐敗した空気も、すべてただ観察対象に過ぎなかった。
「さて、次の職場は…」
呟く声はかすかに震えるが、意味は明確。
地獄絵図を後に、彼は日常回帰不可能な世界で、次の職場を探すために足を踏み出す。
職安――公共の施設の空気はまだ秩序を保っていた。
しかし、彼の目には、過去の職場の狂気と地獄の痕跡が微かにちらつく。
静かに椅子に腰掛け、求人票をめくる。
血と肉、臓物、蠢く空間――記憶の片隅で微かに残る狂気を抱えたまま、彼は次の職場を探す。
世界は秩序を保とうとしている。
だが、職場という名の迷宮は、永遠に彼の記憶に刻まれたまま。
冷静に、しかし確実に、岩蝦魔雪崩石は歩き出す。
掌の中の波動を感じながら、次の秩序と混沌の狭間へ。
岩蝦蟇雪崩石は呪いを食べる 岩蝦蟇 雪崩石 @imaitetsuyuki
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