第3話 移植された罪

1

一月の冷たい雨が、産廃処理場の屋根を叩いていた。

榊シキミは事務所で「帳簿」を眺めていた。過去二ヶ月で扱った二件の事件――木村家の134万円、金属加工工場の800万円。どちらの事件にも、ある共通点があった。

「北陸水資源開発計画」

シキミは古いファイルを開いた。十年前の公共事業。ダム建設、立退き、補償金の配分。そのすべてに、父の名前があった。

榊誠一。

シキミの父は、この事業の補償金管理を担当していた。そして、不正入札事件の責任を問われ、自殺した。

シキミはファイルを閉じた。そして、机の上に置かれた封筒を手に取った。

差出人は柏木聡。弁護士だ。

便箋には、几帳面な文字でこう書かれていた。

「臓器移植ミスの医療訴訟で、賠償金3000万円が支払われました。しかし、この金は間違った人間に渡っています。真の被害者に金を流してほしい」

シキミは封筒の中身を確認した。裁判の判決文、医療記録のコピー、そして一枚の写真。

写真には、笑顔の青年が写っていた。高校生くらいだろう。その目には、希望が満ちていた。

写真の裏には「藤崎隆、17歳」と書かれていた。

シキミは「帳簿」を開き、ペンを手に取った。

「柏木聡。3000万円。調査開始」

短く記入し、ノートを閉じる。彼女は立ち上がり、コートを羽織った。

外では、冷たい雨が降り続いていた。

シキミは小さく呟いた。

「移植された罪。誰の罪だ?」

軽トラックは、雨の中を走り出した。

2

柏木聡の法律事務所は、市内の繁華街にあった。古いビルの三階。シキミはエレベーターに乗り、事務所の前に立った。

ドアを開けると、受付に若い女性が座っていた。

「榊と申します。柏木先生との約束があります」

女性は内線で確認し、シキミを応接室に案内した。

しばらくして、三十代後半の男性が現れた。スーツは皺だらけで、目の下にはクマがあった。柏木聡だ。

「榊さんですね。お待ちしていました」

柏木は握手を求めた。シキミは応じた。

「依頼書を読みました。医療訴訟の賠償金が、間違った人間に渡っているとのことですが」

柏木は深くため息をついた。

「そうなんです。私は、この訴訟を担当しました。そして、勝訴しました。でも――」

柏木は言葉を切った。

「勝つべきではなかった」

シキミは手帳を取り出した。

「最初から話してください」

柏木は頷き、語り始めた。

3

三年前、宮田浩という男性が心臓移植を受けた。

宮田は四十代の会社員で、拡張型心筋症を患っていた。余命は一年と宣告されていた。だが、ドナーが見つかり、移植手術が行われた。

手術は成功した。宮田は回復し、退院した。

だが、三ヶ月後、宮田は突然死した。

死因は、移植された心臓の不全。

遺族は病院を訴えた。「病院が適切な検査を行わなかったため、欠陥のある心臓が移植された」と主張した。

柏木はその訴訟を担当した。彼は医療記録を調べ、病院の過失を証明した。

裁判所は遺族の訴えを認め、病院に3000万円の賠償を命じた。

「私は、勝ったんです。でも――」

柏木は顔を伏せた。

「後から分かったことがあります。ドナーの家族が、心臓に疾患があることを知っていたんです」

シキミは手帳に書き込んだ。

「ドナーは?」

「藤崎隆という青年です。三年前、交通事故で死亡しました」

「家族は?」

「母親の藤崎悦子。彼女が、ドナー登録の承諾をしました」

シキミはペンを止めた。

「藤崎悦子は、息子の心臓に疾患があることを知っていた?」

「はい。彼女は、息子が生前、心臓疾患を患っていたことを知っていました。でも、ドナー登録を続け、移植を承諾した」

「なぜ?」

柏木は黙った。そして、小さく呟いた。

「復讐だと思います」

シキミは顔を上げた。

「復讐?」

「宮田浩は、十五年前、藤崎隆を轢いたんです」

4

柏木が語ったのは、十五年前の交通事故だった。

当時、藤崎隆は高校一年生だった。ある夜、彼は自転車で帰宅途中、車に轢かれた。

加害者は宮田浩。飲酒運転だった。

隆は重傷を負った。頭部を強打し、肋骨が数本折れた。そして、心臓に損傷を受けた。

宮田は逮捕されたが、示談金300万円を払い、執行猶予で済んだ。

隆はその後、後遺症に苦しんだ。心臓疾患が悪化し、何度も入院を繰り返した。

そして三年前、隆は別の交通事故で死亡した。

「藤崎悦子は、宮田を恨んでいました。息子が苦しんだのは、宮田のせいだと」

柏木は続けた。

「だから、彼女は息子の心臓を使って、宮田を殺そうとしたんです」

シキミは手帳に書き込んだ。

「悦子は、それを認めましたか?」

「いいえ。でも、状況証拠から、そうとしか考えられません」

シキミは立ち上がった。

「藤崎悦子に会わせてください」

柏木は頷いた。

「彼女は、市内に住んでいます」

5

藤崎悦子が住んでいたのは、市の外れにある古いアパートだった。二階建ての建物で、壁には蔦が絡まっていた。

シキミは二階の一室の前に立ち、インターホンを押した。しばらくして、ドアが開いた。

現れたのは、五十代の女性だった。痩せた体つきで、顔には深い皺が刻まれていた。藤崎悦子だ。

「藤崎さんですね。柏木先生の紹介で来ました」

シキミは名刺を差し出した。悦子は名刺を受け取り、じっと見つめた。

「榊……ですか」

悦子の声は低かった。

「はい」

「入ってください」

悦子は部屋に招き入れた。

部屋の中は、簡素だった。古い家具が置かれているだけで、装飾品は何もなかった。だが、壁には一枚の写真が飾られていた。

笑顔の青年の写真。藤崎隆だ。

シキミはテーブルの前に座った。悦子も向かいに座る。

「何の用ですか?」

「宮田浩さんの死について、お話を伺いたいんです」

悦子は表情を変えなかった。

「あの人は、もう死にました」

「あなたが、殺したんですか?」

悦子は微笑んだ。

「殺しました」

6

シキミは驚かなかった。ただ、手帳を取り出し、メモを取り始めた。

「どうやって?」

「息子の心臓を使いました」

悦子は淡々と語った。

「息子は、十五年前、宮田浩に轢かれました。飲酒運転でした。宮田は示談金300万円を払い、執行猶予で済みました」

悦子は窓の外を見た。

「息子は、その後、ずっと苦しみました。心臓が悪くなって、何度も入院しました。学校にも行けなくなって、仕事も続けられなくなって」

悦子の声が震えた。

「そして三年前、息子は交通事故で死にました。今度は、息子が被害者でした」

シキミは黙って聞いた。

「息子が死んだ時、私は思いました。この心臓を、宮田に渡そう、と」

悦子は顔を上げた。

「息子の心臓には、疾患がありました。でも、私はドナー登録を続けました。そして、宮田が心臓移植を必要としていることを知りました」

「どうやって知ったんですか?」

「調べました。宮田の勤務先、家族、病歴。すべて調べました」

悦子は冷静だった。

「そして、息子の心臓が宮田に移植されるよう、手配しました」

「病院は?」

「病院は、心臓に疾患があることを見落としました。私は、何も言いませんでした」

悦子は微笑んだ。

「宮田は、息子の心臓を受け取り、三ヶ月後に死にました。私は、復讐を果たしたんです」

シキミは手帳に書き込んだ。

「賠償金3000万円は、宮田の遺族が受け取りました」

「はい」

「あなたは、それを取り戻そうとしていますか?」

悦子は首を横に振った。

「いいえ。私は、何も求めていません」

シキミはペンを止めた。

「では、なぜ柏木先生に話したんですか?」

悦子は黙った。そして、小さく呟いた。

「罪悪感です」

7

悦子が語ったのは、彼女自身の苦しみだった。

「私は、復讐を果たしました。でも、それで息子が戻ってくるわけではありません」

悦子は顔を伏せた。

「そして、私は気づきました。宮田浩にも、家族がいたんです。妻と、娘が」

悦子の声が震えた。

「彼女たちは、私と同じように、大切な人を失いました。私のせいで」

シキミは黙って聞いた。

「だから、私は柏木先生に話しました。賠償金を、宮田の家族から取り上げてほしい、と」

「なぜ?」

「宮田の家族は、私の復讐の犠牲者です。彼女たちが金を受け取ることは、私の罪を肯定することになる」

悦子は顔を上げた。

「私は、罰を受けるべきなんです」

シキミは手帳を閉じた。

「悦子さん。あなたは、息子を守ろうとしました」

悦子は首を横に振った。

「いいえ。私は、自分の怒りを満たしただけです」

シキミは立ち上がった。

「悦子さん。もう一つ、教えてください」

悦子は顔を上げた。

「あなたのご主人は?」

悦子の表情が変わった。

「……夫は、十年前に亡くなりました」

「どうやって?」

悦子は黙った。シキミは続けた。

「ダム建設の事故ですか?」

悦子の顔から血の気が引いた。

「なぜ、それを――」

「調べました」

シキミは悦子を見つめた。

「あなたのご主人、藤崎健三さんは、『北陸水資源開発計画』のダム建設工事で亡くなりました。補償金は、不正に減額されました」

悦子は何も言えなかった。

「そして、その補償金の管理を担当していたのは、私の父でした」

悦子は目を見開いた。

「あなたの父親が――」

「榊誠一です」

シキミは淡々と言った。

「私は、父が残した仕事を続けています」

8

シキミは柏木に連絡し、宮田浩の過去を調べるよう依頼した。

数日後、柏木から報告があった。

「宮田浩が十五年前に事故を起こした時、同乗者がいました」

シキミは手帳を開いた。

「名前は?」

「沢村雄介。当時二十歳。宮田の友人でした」

「今は?」

「車椅子生活を送っています」

シキミはペンを走らせた。

「事故の詳細を教えてください」

柏木が語ったのは、十五年前の夜のことだった。

宮田と沢村は、飲み会の帰りに車に乗った。宮田が運転していた。二人とも酒を飲んでいた。

途中で、宮田は藤崎隆を轢いた。

だが、宮田は逃げなかった。警察を呼んだ。

警察が到着した時、宮田は「自分は飲酒していない」と主張した。そして、沢村に「お前も黙っていろ」と命じた。

沢村は従った。

だが、事故の衝撃で、沢村も重傷を負っていた。彼は脊髄を損傷し、下半身不随になった。

「沢村さんは、賠償金を受け取りましたか?」

「いいえ。宮田が『沢村は自己責任』と主張したため、賠償は認められませんでした」

シキミは手帳を閉じた。

「沢村さんの住所を教えてください」

9

沢村雄介が住んでいたのは、市内の福祉施設だった。

シキミは受付で面会を申し込み、沢村の部屋に案内された。

部屋の中には、車椅子に座った男性がいた。三十代半ばで、痩せた体つきをしていた。沢村雄介だ。

「沢村さんですね。榊と申します」

シキミは椅子に座った。沢村は無表情で彼女を見た。

「何の用ですか?」

「十五年前の交通事故について、お話を伺いたいんです」

沢村の表情が変わった。

「……もう、終わったことです」

「終わっていません」

シキミは手帳を開いた。

「あなたは、宮田浩の車に同乗していました。そして、事故の衝撃で脊髄を損傷しました」

沢村は黙った。

「でも、賠償金は受け取っていません。なぜですか?」

沢村は窓の外を見た。

「宮田が、飲酒運転だったことを隠したからです」

「あなたも、隠しましたね」

沢村は頷いた。

「はい。宮田に頼まれました。『黙っていてくれ』と」

「なぜ従ったんですか?」

沢村は笑った。

「友達だったからです。馬鹿みたいですよね」

シキミは手帳に書き込んだ。

「沢村さん。あなたは、宮田を恨んでいますか?」

沢村は黙った。そして、小さく呟いた。

「恨んでいます。でも、もう遅い」

「遅くありません」

シキミは顔を上げた。

「私が、金を流します」

沢村は驚いた。

「金?」

「宮田浩の遺族が受け取った賠償金3000万円。その金を、あなたに渡します」

沢村は首を横に振った。

「そんなこと、できるわけがない」

「できます」

シキミは立ち上がった。

「一週間、待ってください」

10

シキミは藤崎悦子を再び訪ねた。

「悦子さん。賠償金3000万円を、宮田の遺族から回収します」

悦子は驚いた。

「どうやって?」

「それは、私の仕事です」

シキミは続けた。

「そして、その金を別の被害者に渡します」

「別の被害者?」

「沢村雄介さん。宮田が事故を起こした時の同乗者です」

悦子は黙った。

「彼は、宮田のせいで車椅子生活を送っています。でも、賠償金は一銭も受け取っていません」

シキミは悦子を見た。

「彼が、本当の被害者です」

悦子は顔を伏せた。

「では、私は――」

「あなたは、何もしないでください」

シキミは淡々と言った。

「あなたの復讐は、間違った相手に向けられました。でも、あなたの怒りは正しかった」

悦子は顔を上げた。

「私は、罰を受けるべきです」

「罰は、受けています」

シキミは続けた。

「あなたは、息子を失い、夫を失い、そして自分自身も失いました。それが、あなたの罰です」

悦子は泣き始めた。

シキミは立ち上がった。

「悦子さん。あなたも、誰かに復讐したいですか?」

悦子は涙を拭い、シキミを見た。

「何を――」

「あなたのご主人の補償金を、不正に減額した人間に」

悦子は黙った。

シキミは初めて、感情的な声で言った。

「復讐では、金は動きません。帳簿が修正されるだけです」

シキミは部屋を出た。

11

シキミは宮田の遺族と交渉した。

彼女は宮田の妻に、藤崎悦子の復讐の真実を伝えた。そして、賠償金3000万円を沢村雄介に渡すよう説得した。

宮田の妻は最初、拒否した。だが、シキミが沢村の状況を説明すると、彼女は泣き崩れた。

「私は、何も知りませんでした」

宮田の妻は顔を伏せた。

「夫が、そんなことをしていたなんて」

シキミは黙って待った。

宮田の妻は顔を上げた。

「分かりました。賠償金を、沢村さんに渡します」

一週間後、3000万円が沢村の口座に振り込まれた。

12

シキミは沢村に結果を報告した。

「金の流れを修正しました」

沢村は書類を見つめた。そして、小さく笑った。

「十五年越しの賠償金か」

シキミは立ち上がった。

「沢村さん。この金を使って、新しい人生を始めてください」

沢村は顔を上げた。

「榊さん。あなたは、なぜこんなことをするんですか?」

シキミは答えなかった。ただ、小さく呟いた。

「誰かが、やらなければならないから」

シキミは部屋を出た。

13

その夜、シキミは事務所に戻り、「帳簿」を開いた。

「藤崎悦子、宮田浩、沢村雄介――」

彼女は三人の名前を書き、金の流れを記録した。

そして、別のページを開いた。そこには、古い資料が貼られていた。

「北陸水資源開発計画、犠牲者リスト」

シキミはリストに、新しい名前を書き加えた。

「藤崎健三。ダム建設事故死。補償金、不正減額」

彼女は筆を止め、深く息を吐いた。

「三件目。やっと、繋がってきた」

シキミは窓の外を見た。雨は止んでいた。

机の上には、新しい依頼書が置かれていた。

シキミはそれを手に取り、内容を確認した。

「次は、どこだ?」

彼女は「帳簿」を閉じた。

外では、冷たい風が吹いていた。


【第3話 完】

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