第2話 燃えない工場
1
十二月の冷たい風が、産廃処理場の敷地を吹き抜けていた。
榊シキミは事務所の窓から、積み上げられた金属スクラップを眺めていた。錆びた鉄骨、歪んだ配管、焼け焦げた鋼材。それらは全て、どこかの工場や建物から運ばれてきたものだ。
机の上に、一通の封筒があった。
差出人は田所昭夫。便箋には、震えた文字でこう書かれていた。
「私は労災保険金800万円を受け取りました。でも、私は火傷を負っていません。この金を、本当に火傷を負った人に返したいんです」
シキミは封筒の中身を確認した。労災認定通知書のコピー、銀行の入金記録、そして一枚の写真。
写真には、包帯で全身を覆われた男性が写っていた。顔の半分は火傷の痕で赤く爛れている。だが、その男性の目には、どこか諦めたような光があった。
シキミは写真を裏返した。裏には「三上浩二、2022年9月12日」と書かれていた。
三年前の火災。
シキミは「帳簿」を開き、ペンを手に取った。
「田所昭夫。800万円。調査開始」
短く記入し、ノートを閉じる。彼女は立ち上がり、壁にかけられた作業服を羽織った。
外では、金属を切断する音が響いていた。シキミは作業場に向かい、従業員の一人に声をかけた。
「午後から出かける。連絡があったら、携帯に転送してくれ」
「了解です」
シキミは軽トラックに乗り込み、エンジンをかけた。
目的地は、市内の工業地帯。田所昭夫が住んでいるアパートだ。
シキミは小さく呟いた。
「燃えない工場。何が燃えたんだ?」
軽トラックは、灰色の空の下を走り出した。
2
田所昭夫が住んでいたのは、工業地帯の一角にある古いアパートだった。三階建ての建物で、外壁には煤が付着していた。
シキミは三階の一室の前に立ち、インターホンを押した。すぐにドアが開いた。
「榊さん、ですね。お待ちしていました」
現れたのは、四十代半ばの男性だった。痩せた体つきで、目の下にはクマがあった。田所昭夫だ。
「田所さんですね。依頼書を読みました」
シキミは名刺を差し出した。田所は名刺を受け取り、部屋に招き入れた。
部屋の中は、整然としていた。床には何も散らばっておらず、テーブルの上には書類が整理されて積まれている。だが、空気は重く、どこか生気が感じられなかった。
シキミはテーブルの前に座った。田所も向かいに座る。
「依頼書には、労災保険金を返還したいと書いてありました。理由を教えてください」
田所は俯いた。
「私は、火傷を負っていないんです」
「でも、労災は認定された」
「はい。でも、それは間違いなんです」
シキミは手帳を取り出した。
「最初から話してください」
田所は深く息を吸い、語り始めた。
3
三年前、田所は市内の金属加工工場で働いていた。従業員は二十人程度の小さな工場だ。
2022年9月12日、工場で火災が発生した。出火原因は溶接作業中の火花。火はすぐに広がり、工場の半分が焼失した。
火災当日、田所は休暇を取っていた。彼は工場にいなかった。
だが、火災後、工場の経営者から連絡が来た。
「田所、お前の名前で労災申請をする」
田所は驚いた。
「でも、僕は火災の時、いませんでした」
「知ってる。でも、お前の名前を使わせてくれ。代わりに、保険金の半分をやる」
経営者は続けた。
「実際に火傷を負ったのは三上だ。でも、三上は前科がある。労災申請が通りにくい。だから、お前の名前を使う」
田所は戸惑った。だが、経営者は強引に話を進めた。
「三上には、裏で金を渡す。お前も、半分もらえる。誰も損しない」
田所は断りきれなかった。彼には借金があった。生活費も足りなかった。
「分かりました」
田所は承諾した。
その後、田所の名前で労災申請が行われ、800万円が支給された。田所は400万円を受け取り、残りの400万円は経営者が管理するはずだった。
だが、経営者は三上に金を渡さなかった。三上は何度も経営者に問い詰めたが、経営者は「もう少し待て」と言い続けた。
そして半年後、経営者は工場を閉鎖し、姿を消した。
「三上さんは、一銭ももらえなかったんです」
田所は顔を伏せた。
「僕は、罪悪感に耐えられなくて。だから、三上さんに自分の取り分を渡そうとしました。でも、三上さんは受け取らなかった」
「なぜ?」
「『お前が受け取った金は、俺の金じゃない』と言われました」
シキミは手帳に書き込んだ。
「三上さんは、今どこにいますか?」
「同じアパートの二階に住んでいます」
シキミは立ち上がった。
「三上さんに会わせてください」
田所は頷いた。
4
三上浩二の部屋は、二階の角部屋だった。
田所がドアをノックする。返事はない。もう一度ノックすると、ようやく声が聞こえた。
「誰だ」
「田所です。話があります」
しばらく沈黙があった。そして、ドアが開いた。
現れたのは、全身に火傷の痕が残る男性だった。顔の右半分は赤く爛れ、首から腕にかけても皮膚が引きつれている。三上浩二だ。
「田所か。また金を返しに来たのか?」
三上の声は低く、怒りを含んでいた。
「いえ。この方は、榊さんと言って――」
シキミが口を挟んだ。
「三上さん。私は、金の流れを修正する仕事をしています。田所さんから依頼を受けました」
三上はシキミを見た。その目には、疑念が浮かんでいた。
「金の流れを修正?何だそれは」
「間違った人間に渡った金を、本来の受取人に流す仕事です」
三上は鼻で笑った。
「そんなことができるわけがない」
「できます。やってきました」
シキミは一歩前に出た。
「三上さん。火災の本当の原因を教えてください」
三上の表情が変わった。
「……何を知ってる?」
「まだ何も。でも、調べればすぐに分かります。時間を節約するために、あなたから聞きたい」
三上は黙った。そして、ため息をついた。
「入れ」
5
三上の部屋は、荒れていた。床には空き缶が散乱し、壁には穴が開いている。窓のカーテンは閉め切られ、部屋は薄暗かった。
三上はソファに座り、シキミと田所に椅子を勧めた。
「火災の原因は、放火だ」
三上は淡々と語り始めた。
「経営者――工場長の名前は吉岡。あいつが、保険金を騙し取るために火災を仕組んだ」
田所が驚いた表情を浮かべる。三上は続けた。
「吉岡は、工場の経営が傾いていた。借金も膨らんでいた。だから、火災保険を使って金を作ろうとした」
「あなたは、それに協力したんですか?」
シキミが尋ねた。三上は頷いた。
「ああ。吉岡から100万円もらう約束だった。俺は、溶接作業中に『わざと』火を出すことになっていた。小さな火災で済むはずだった」
三上は顔を歪めた。
「でも、火は予想以上に広がった。俺は逃げ遅れて、全身に火傷を負った」
「吉岡は?」
「あいつは最初からいなかった。俺を見捨てて、逃げたんだ」
シキミは手帳に書き込んだ。
「その後、吉岡はどうしたんですか?」
「保険金を受け取って、工場を閉鎖した。そして、田所の名前を使って労災申請をした」
「なぜ田所さんの名前を?」
「俺には前科がある。窃盗で二年入っていた。労災申請が通りにくい。だから、吉岡は田所の名前を使った」
田所が口を開いた。
「三上さん、本当にすみませんでした。僕は――」
「黙れ」
三上は田所を睨んだ。
「お前は、何も悪くない。悪いのは吉岡だ。そして、俺だ」
三上は窓の外を見た。
「俺は、金欲しさに放火に協力した。その報いを受けただけだ」
シキミは立ち上がった。
「三上さん。あなたは、火傷を負った。それは事実です。だから、あなたには賠償を受ける権利があります」
三上は笑った。
「権利?そんなものは、もうない」
「あります」
シキミの声は冷静だった。
「私が、作ります」
6
シキミは次に、閉鎖された工場を訪れた。
工場は市の外れにあった。錆びた門扉、崩れかけた壁、割れた窓ガラス。火災の痕が、今も残っていた。
シキミは門扉を押し開け、敷地内に入った。工場の建物は半分が焼け落ちている。中に入ると、焼け焦げた機械や資材が散乱していた。
シキミは事務所跡に向かった。そこには、古びた机と書類棚が残っていた。書類棚の引き出しを開ける。
ほとんどの書類は焼失していたが、一部は残っていた。シキミはその中から、一枚の書類を見つけた。
工場の登記簿謄本。
シキミは書類を広げ、出資者欄を確認した。そこには、いくつかの企業名と個人名が記載されていた。
その中に、一つの名前があった。
「北陸水資源開発事業協同組合」
シキミの手が、わずかに震えた。
彼女はその名前を見つめ、深く息を吸った。そして、書類を折りたたみ、ポケットに入れた。
シキミは工場を出て、軽トラックに乗り込んだ。彼女は手帳を開き、メモを確認する。
「北陸水資源開発事業協同組合。また、この名前だ」
彼女はエンジンをかけ、次の目的地に向かった。
7
シキミが次に訪れたのは、市役所だった。
彼女は建設課の窓口に向かい、担当者に声をかけた。
「十年前の『北陸水資源開発計画』の資料を閲覧したいんですが」
担当者は戸惑った表情を浮かべた。
「どなたですか?」
「榊環境の榊です。産廃処理業を営んでいます。過去の公共事業に関連する廃材の処理記録を確認したいんです」
担当者は少し考え、奥の部屋に引っ込んだ。しばらくして、段ボール箱を抱えて戻ってきた。
「こちらです。閲覧は一時間以内でお願いします」
シキミは箱を受け取り、閲覧室に向かった。
箱の中には、大量の書類が詰め込まれていた。事業計画書、予算書、契約書、そして補償金の支払い記録。
シキミは補償金の記録を確認した。そこには、数百人の名前と金額が記載されていた。
彼女はページをめくり、ある名前を探した。
「坂本浩一」
その名前は、すぐに見つかった。
坂本浩一、補償金額500万円、支払い状況――「未払い」。
赤いスタンプが押されていた。
シキミは手帳に書き込んだ。そして、別のページをめくる。
そこには、別の名前があった。
「榊誠一」
シキミの父の名前。
彼女は書類を見つめた。父の名前の横には、「担当者」と書かれていた。
シキミは目を閉じ、深く息を吐いた。
「父さん。あなたが関わっていたのは、こういう仕事だったのか」
彼女は書類を閉じ、箱を返却した。
8
シキミは工場の火災でもう一人、被害を受けた人物がいることを知った。
下請け作業員の坂本誠治。
シキミは坂本の住所を調べ、訪ねた。
坂本が住んでいたのは、市の外れにある小さな平屋だった。庭には雑草が生い茂り、家の壁は剥がれかけていた。
シキミはドアをノックした。返事はない。もう一度ノックすると、ようやく声が聞こえた。
「誰だ」
「榊と申します。火災の件で、お話を伺いたいんです」
しばらく沈黙があった。そして、ドアが開いた。
現れたのは、七十代の老人だった。左腕がなかった。坂本誠治だ。
「火災の話なら、もう終わったことだ」
坂本は冷たく言った。
「いえ。まだ終わっていません」
シキミは一歩前に出た。
「あなたは、火災で片腕を失いました。でも、労災の対象外とされた。なぜですか?」
坂本は表情を変えなかった。
「下請けだからだ。契約上、労災は適用されない」
「納得していますか?」
「納得もクソもない。そういうもんだ」
坂本はドアを閉めようとした。シキミが手を伸ばし、ドアを押さえた。
「坂本さん。あなたの息子さんの名前は、坂本浩一さんですね?」
坂本の表情が変わった。
「……なんで、その名前を知ってる?」
「『北陸水資源開発計画』の補償金リストに、その名前がありました。未払いのスタンプが押されていました」
坂本の顔から血の気が引いた。
「お前、何者だ?」
「金の流れを修正する人間です」
シキミは坂本を見つめた。
「坂本さん。あなたの息子さんは、二十年前、ダム工事で亡くなったお父さんの補償金を受け取れなかった。そして、あなたと喧嘩別れした。違いますか?」
坂本は黙った。そして、ため息をついた。
「入れ」
9
坂本の家の中は、簡素だった。畳の部屋に古い家具が置かれているだけ。だが、清潔に保たれていた。
坂本は火鉢の前に座り、シキミに座布団を勧めた。
「息子のことを、どこまで知ってる?」
「補償金が未払いだったこと。そして、あなたと喧嘩別れしたこと」
坂本は火鉢の炭をいじりながら語り始めた。
「二十年前、親父がダム工事で死んだ。落盤事故だった。親父は、その場で死んだ」
坂本は顔を上げた。
「息子の浩一は、役所に補償金を請求した。でも、役所は『親父が無断で立ち入った』と主張した。補償金は支払われなかった」
「無断立ち入り?」
「嘘だ。親父は、工事の監督から『ここを見てくれ』と頼まれて入った。でも、その監督は証言しなかった」
坂本は拳を握った。
「浩一は、何度も役所に掛け合った。でも、ダメだった。最後は、裁判も起こした。でも、負けた」
「あなたは、どうしたんですか?」
「俺は、浩一に『諦めろ』と言った」
坂本は顔を伏せた。
「俺は、もう疲れていた。親父が死んで、家族がバラバラになって。これ以上、金の話で揉めたくなかった」
「息子さんは?」
「浩一は、俺を許さなかった。『親父の命を金に変えようとしないのか』と言われた。それから、浩一は家を出た。もう二十年、会っていない」
シキミは手帳に書き込んだ。
「坂本さん。息子さんは、今どこにいますか?」
「知らん」
「探したいですか?」
坂本は黙った。そして、小さく呟いた。
「……もう、遅い」
シキミは立ち上がった。
「遅くありません。私が、金の流れを修正します」
坂本は顔を上げた。
「何をするつもりだ?」
「あなたに、本来受け取るべきだった金を渡します」
シキミは坂本を見つめた。
「そして、息子さんにも」
10
シキミは田所を呼び出し、計画を伝えた。
「田所さん。あなたが受け取った800万円は、三上さんと坂本さんに分配します」
田所は驚いた。
「どうやって?」
「三上さんには300万円、坂本さんには500万円」
「でも、僕が受け取ったのは400万円です。残りの400万円は、吉岡が持っています」
シキミは冷静に答えた。
「吉岡から回収します」
「どうやって?」
「それは、私の仕事です」
シキミは田所に銀行口座の情報を渡した。
「あなたの口座から、三上さんと坂本さんの口座に送金してください。私が、吉岡から残りの400万円を回収します」
田所は戸惑った。
「でも、吉岡は姿を消しています」
「見つけます」
シキミは立ち上がった。
「三日、待ってください」
11
シキミは吉岡を追跡した。
彼女は工場の取引先や銀行を訪ね、吉岡の足取りを調べた。そして、吉岡が隣県の都市に移住していることを突き止めた。
シキミは吉岡のアパートを訪ねた。ドアをノックすると、中年の男性が現れた。吉岡だ。
「誰だ?」
「榊と申します。火災の件で、お話があります」
吉岡の表情が変わった。
「関係ない。帰れ」
ドアを閉めようとする。シキミが足を挟んだ。
「吉岡さん。あなたは火災保険で1200万円を受け取りました。そして、田所さんの名前で労災申請をし、800万円を受け取った。合計2000万円です」
吉岡は黙った。
「でも、三上さんには一銭も渡していない。坂本さんも同じです」
シキミは一歩踏み込んだ。
「私は、あなたから400万円を回収します。任意で渡すか、強制的に取るか。選んでください」
吉岡は怒鳴った。
「何の権利があって――」
「権利はありません」
シキミは冷静に答えた。
「でも、方法はあります」
彼女は封筒を取り出し、吉岡に渡した。中には、火災の証拠資料が入っていた。放火の計画書、三上とのメッセージのやり取り、保険金の受取記録。
「これを警察に提出すれば、あなたは逮捕されます」
吉岡は顔を青ざめさせた。
「お前、どこでこれを――」
「三上さんから預かりました」
シキミは続けた。
「三日以内に、400万円を指定の口座に振り込んでください。そうすれば、この資料は返却します」
吉岡は何も言えなかった。
シキミはドアを出た。
12
三日後、吉岡から400万円が振り込まれた。
シキミは田所、三上、坂本を呼び出した。
「金の流れを修正しました」
シキミは三人に書類を渡した。
「三上さんには300万円、坂本さんには500万円。残りの100万円は、処理費用として私が受け取ります」
三上が尋ねた。
「なぜ、俺より坂本さんの方が多いんだ?」
「あなたは、放火に協力しました。だから、責任の一部はあなたにもあります。でも、坂本さんには何の落ち度もない。だから、配分はこうなります」
三上は黙った。そして、小さく頷いた。
坂本が尋ねた。
「息子のことは?」
「調べました」
シキミは坂本に住所を渡した。
「息子さんは、隣県で暮らしています。会いに行くかどうかは、あなた次第です」
坂本は住所を見つめた。そして、小さく呟いた。
「ありがとう」
13
その夜、シキミは事務所に戻り、古いファイルを開いた。
「北陸水資源開発計画 補償金台帳」
彼女は坂本浩一の名前を探した。そこには、「未払い」の赤いスタンプが押されていた。
シキミはそのスタンプの上に、緑のペンで「完了」と書き込んだ。
そして、「帳簿」を開いた。
「田所昭夫、800万円、回収完了。三上浩二、300万円、支払い完了。坂本誠治、500万円、支払い完了」
シキミは筆を止め、深く息を吐いた。
「まだ、終わらない」
彼女はページをめくった。そこには、無数の名前と金額が記されていた。
シキミは窓の外を見た。雨が降り始めていた。
「父さん。あなたが残した仕事を、私が続けている」
彼女は「帳簿」を閉じた。
机の上には、新しい依頼書が置かれていた。
シキミはそれを手に取り、内容を確認した。
「次は、どこだ?」
窓の外では、雨が激しく降り続いていた。
【第2話 完】
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