通勤

岩蝦蟇 雪崩石

第1話

 てつゆきは、まだ目が覚めきらぬ朝の空気を抱え、ゆっくりとベッドの縁に腰を下ろした。身体は重く、五十年の歳月が筋肉や関節に染み付いているかのようだ。手足を伸ばすと、皮膚の下で血液がゆっくりと巡る感覚がわずかに伝わる。冷たい床の感触を足の裏が受け止め、思わず小さく息を吐く。

 カーテンの隙間から入る淡い光が、部屋の埃に浮かんで揺れている。てつゆきは立ち上がり、衣服に手を通す。シャツの袖が腕に絡む感触、襟を整える指先のわずかな震え。鏡の中に映る自分の顔は、目の下に薄い青黒い影を落としていた。時間の重みと、眠気と、少しの罪悪感——それらが一瞬にして重なり、胸の奥にじっとりと居座る。

 歯を磨き、髭を剃り、顔を洗う。水の冷たさが肌に触れ、毛穴の奥までじんわりと届くように感じられる。鏡に映る自分の視線は、いつもより長く自分を見つめている。視線を逸らすと、目の奥に残るわずかな焦燥が、身体全体に広がった。

 服を整え、靴を履き、鞄を肩に掛ける。動作は何気ない日常のひとつに過ぎないはずなのに、てつゆきにはすべてがゆっくり、じんわりと重く感じられる。足先から順に体重を床に委ね、階段を降りる。木の踏板は冷たく、踏むたびに小さな軋みが響いた。

 玄関を開けると、外の空気が薄く湿り、わずかに埃と草の匂いを帯びていた。朝の光はまだ頼りなく、建物の陰影を淡く落としている。てつゆきは扉に手をかけ、ゆっくりと一歩を踏み出す。土間のひんやりとした感触が靴底を伝い、体の芯に小さな衝撃を残す。

 家の門までの距離は短い。しかしてつゆきにとって、その数歩はまるで一章のように長く、濃密である。門柱の影に近づくたび、空気の冷たさと湿気が、五十年の時間を押し付けるように身体を覆う。呼吸がわずかに荒くなり、指先の感覚が鋭くなる。

 そして、てつゆきはようやく門に手をかける。鉄の冷たさが掌に伝わり、外の世界との境界線が、かすかに震える。ゆっくりと門を押し開け、外に踏み出す。そこには、まだ眠る街と、微かに湿った朝の空気だけが広がっていた。

 門の外に立った瞬間、てつゆきの呼吸は、少しだけ整い、身体の重さは相変わらずでありながら、わずかな覚悟のようなものが胸に宿った。

 朝は、まだ始まったばかりである。

 門を押し開けたてつゆきは、外の湿った空気に体を委ね、ゆっくりと一歩を踏み出した。朝の街はまだ眠りの余韻を引きずっており、舗道に落ちる影は長く、街灯の光と混ざり合って薄暗い静寂を作っている。靴底に伝わるアスファルトのざらつきが、踏みしめるたびにわずかに足の裏に残る。

 道端の雑草や、古いブロック塀の苔の湿り気も、てつゆきの意識の隅にひっそりと映る。目を凝らすと、枯れた落ち葉の隙間にまだ夜露が残り、小さな水滴が微かに光る。そんな光は遠く、しかし確かに存在しており、踏み出す一歩ごとに体感として胸に積もっていく。

 街路樹の幹に触れれば、冷たく湿った樹皮の感触が掌に伝わる。風がほんのわずかに吹くたび、枝先の葉がそよぎ、冷たい空気の粒が肌に当たる。てつゆきはその感覚に、無意識のうちに足を止めて確かめる。空気の重さ、湿度、わずかな香り——それらを丁寧に拾いながら、彼の歩はゆっくりと続く。

 道沿いの住宅や店舗は、どれも静まり返り、窓の中の微かな生活音だけが漏れる。シャッターの閉まった商店、濡れた自転車の並ぶ軒先、玄関先の小さな植木鉢。すべてが、てつゆきの視界に淡く、しかし確かに存在している。目に映るのは色彩ではなく、湿度と影の微妙な階調だけだ。

 十歩、また十歩。歩幅を揃え、呼吸を整え、身体の重さを靴底に委ねながら、てつゆきは進む。街灯の切れ間に差す朝の光は頼りなく、アスファルトに影を描き出す。時折、遠くで自動車のエンジンが目覚める音がする。生活が、ゆっくりと動き始める合図のように聞こえた。

 残り数分のところで、通りの角を曲がる。建物の陰と影の深まりが、歩みをわずかに鈍らせる。足先に感じる路面の湿気は依然として冷たく、てつゆきは手袋の指先をかすかに擦り合わせる。目の端に映る街のざらつきが、彼の意識を引き込み、同時に外界と自分の境界を曖昧にする。

 やがて、駅前の歩道橋が視界に入る。鉄とコンクリートの匂い、湿った空気の質感、遠くで聞こえる踏切の音——それらが混ざり合い、てつゆきの全身を取り囲む。十五分の道は終わろうとしているが、身体にはまだ家を出て間もない朝の湿り気と、日常の重さが残る。

 てつゆきは歩みを少し緩め、改札の先に広がる空間を眺める。ここから先は、また別の時間、別の重みが待っている。しかし今は、まだ、この十五分の湿った現実だけが確かに存在している。

 改札の前に立つと、てつゆきは一度だけ深く息を吐いた。

 それは溜息というより、身体の奥にたまった夜の空気を押し出すような呼吸だった。

 通勤客の列が静かに流れていく。改札機の読み取り音が、間断なく耳に届く。その軽快な電子音の繰り返しが、奇妙に冷たく、無機質で、少しだけ胸の奥に引っかかる。

 ICカードをかざす。小さな“ピッ”という音と、緑の光。

 何百回と繰り返してきた動作にもかかわらず、その瞬間にわずかな緊張が走る。改札のバーを抜けると、靴底の音が床材の変化でわずかに鈍くなる。駅構内特有の、あの湿り気を含んだ空気が、すぐに鼻をつく。金属、油、紙、そして無数の人間の匂い。

 ホームへ向かう階段を下りながら、てつゆきは視線を足もとに落とす。

 一段一段がわずかに磨り減っていて、靴底と接触するたびに擦れる音がする。降りる速度は一定で、急ぐでもなく、立ち止まるでもない。足裏に伝わる感触だけが、彼の存在を確かめる唯一の手段のようだった。

 階段の踊り場に貼られた広告の端が、剥がれかけてめくれている。そこに吹き込む風が、紙をかすかに揺らす。微かな音。人々は気にも留めないが、てつゆきには、その揺れがなぜかやけに印象に残った。剥がれかけの紙——それは、日々の境界に生じるほつれのようにも思えた。

 ホームに降りると、線路の向こうから冷たい風が吹き抜けた。

 鉄と油の匂い、遠くで電車のモーター音が低く唸っている。照明は白く、均一で、どこにも陰影を許さない。

 てつゆきはホームの端に立ち、遠くのトンネルの暗がりを見つめる。そこからやがて現れる電車の光を、無意識に待っている。

 やがて、トンネルの奥で何かが動く。

 低い轟音とともに、金属の体が近づいてくる。風が前方から押し寄せ、頬の皮膚をわずかに撫でた。目を細める。電車の到着を知らせるアナウンスが、機械的な声で流れる。

 ドアが開く音。

 その瞬間、てつゆきは一歩、前へ出た。人々の流れに合わせて。

 だが、彼の歩みはどこかためらいがちで、わずかに遅い。まるで身体の奥に残る「朝の湿り気」を引きずるように、ゆっくりと足を運ぶ。

 車内の空気は、さらに濃密だった。

 冷たい空調の風と、まだ乾ききらない衣服の湿気が混ざり、透明でも清潔でもない、あの通勤電車特有の匂いを作っている。てつゆきは吊革のひとつを軽く握り、立ち止まる。

 扉が閉まる音が響く。

 そして電車が、ゆっくりと動き出した。

 外の景色がわずかに揺れ、光が流れる。てつゆきはその流れを見つめながら、自分がまた今日という日へと押し出されていく感覚を、静かに受け入れていた。

 電車が動き出すと同時に、てつゆきは手すりに軽く指をかけた。重心をわずかに前に預け、足裏で電車の微かな揺れを探る。車輪がレールをなぞるたび、金属の軋みが腹の底に響く。その響きに、彼はなぜか安心を覚える。規則的な音は、自分がまだ社会という仕組みのなかを動いている証拠のようだった。

 窓に映る自分の顔を、ふと見た。ガラスの向こうに連なる街の明滅が、顔の輪郭を曖昧にしていた。少し眠たげな目、伸びかけた髪、昨夜剃り残した顎のざらつき。思えば、若いころは朝の電車が嫌で仕方なかった。あの頃の彼にとって満員の車両は、未来への通路ではなく、呼吸を奪う密室だった。

 だが五十になった今は、違う。息苦しさの中にも秩序を感じる。人の背中と背中が押し合うことで、どこかへ運ばれていく安心。手放してもよい体重、預けても倒れない場所。それが、ここにはある。

 次の駅で高校生たちが乗り込んできた。甘いシャンプーの匂いが風のように流れる。イヤホンから漏れるリズム、短く交わされる笑い声。てつゆきは目を閉じた。笑いが遠ざかる。かわりに電車の走行音が強まる。

 三駅めに近づくにつれて、空は少し白みはじめた。線路沿いのビルの窓に、うっすらと朝の色が映っている。

 乗り換え駅のホームに電車が滑り込むと、てつゆきは静かに身体を起こした。ドアが開く音の前に、すでに足が動いている。いつもの習慣。決まったホーム、決まった階段。

 彼は歩きながら、ポケットの中で切符の端を指でなぞった。その角のわずかな湿り気が、まだ自分が生きている証拠のように思えた。

 ──あと三駅。いや、あと一日。

 てつゆきの朝は、まだ途中にあった。

 

 駅の改札を抜けると、空気がわずかに変わった。線路の下を通る地下通路の匂い──湿ったコンクリートと、遠くのパン屋の焼き上がりがまじりあったような匂い。それを吸い込んで、てつゆきは少しだけ喉の奥を鳴らした。

 乗り換えの駅まではおよそ四百メートル。急げば五分もかからない。だが彼は、いつも急がない。足取りは一定で、靴底が石畳をかすめるたびに、乾いた音が耳の中で律動する。

 駅前通りはすでに混み始めていた。コンビニの前でコーヒーを啜る作業員、スマホを見つめたまま歩く学生、信号待ちの群れ。彼らの動きが朝の温度を作っている。てつゆきはその流れに身を差し入れながら、自分がその一部であることをどこか他人事のように感じていた。

 歩くたび、背中に薄く汗が滲む。シャツの布地が肌に貼りついては離れる。その小さな不快を、彼は拒まない。むしろそれを確かめながら、今朝もちゃんと「生きている」と確認する。

 途中の横断歩道の前で信号が赤に変わる。止まった群れのなかで、彼はふと視線を上げた。高架の向こうに朝日が滲み、電線の黒い線がその光を細く切っている。空は透明で、まだどこにも熱をもっていない。

 青になる。群れが動きだす。てつゆきもまた、無言のまま歩き出す。

 ビルの影を抜けると、乗り換え先の駅が見えた。古びた駅名標の白が、朝の光をやわらかく弾いている。その光が頬に触れた瞬間、てつゆきはほんの少しだけ立ち止まった。

 この四百メートルの道を、彼は何年も歩いてきた。そのことに意味を見出そうとはしない。ただ、確かなのは、今日もまたこの距離を歩いたという事実だけだ。

 再び歩き出す。改札の向こうには、いつものホーム。そこから続く、変わらない一日が待っている。

 彼の靴底が最後の一歩を刻んだとき、街のざわめきの奥で、電車の出発を告げるベルがかすかに鳴った。

 

 乗り換えた電車の中は、さっきよりも静かだった。通勤客の密度が少しだけ緩んで、吊革の揺れもどこかのんびりしている。てつゆきは座席の端に腰を下ろした。革靴の先を軽くそろえ、鞄を膝の上に置く。

 車窓の外を、見慣れた町並みがゆっくりと流れていく。看板の文字が、速度とともに読めそうで読めないまま過ぎていく。コンビニ、歯科医院、古い散髪屋。四駅のあいだには、驚くほど多くの同じものが並んでいる。

 てつゆきは、それらを眺めながら、まるで自分の人生の断面を見ているような気がした。変わらない景色。少しずつ劣化していく色。そこに自分も溶け込んでいる。

 向かいの席では、スーツ姿の青年が眠っている。肩が少し揺れては戻る。夢を見ているのか、それともただの惰眠なのか。てつゆきは、その若さの温度をうらやむように、しかしどこか安堵して見つめていた。もう自分には、眠ることで回復する時間がない。ただ、減るばかりの体力を、やりくりして生きている。

 二駅めで、小さな子どもを連れた母親が乗ってきた。子どもは手に小さな紙袋を持ち、何かを食べながら車内をきょろきょろと見渡している。その視線が一瞬、てつゆきに止まる。彼は軽く会釈をした。子どもは答えず、ただ紙袋を抱きしめた。

 電車は三駅めを過ぎ、住宅街がひらけていく。光が強くなり、窓の外が白っぽくなる。てつゆきはまぶしさに顔をしかめ、額に手をかざした。光のなかで見える自分の指先の影が、妙に頼りなく揺れている。

 最後の駅が近づく。電車が減速し、空気がわずかに押し返してくる。てつゆきは静かに立ち上がった。肩に鞄をかけ直し、吊革の下で軽く息を整える。

 ──ここからが、一日の始まり。

 そう思うと、胸の奥に小さな痛みが走った。仕事があることは幸せだと、何度も言い聞かせてきた。それでも、駅のホームに足を降ろす瞬間だけは、いつも胸の奥で何かが微かに鳴る。

 電車のドアが開く。てつゆきは無言のまま歩き出した。

 外の空気はすでに昼の気配を帯びていた。彼はそれを肺の奥まで吸い込みながら、今日もまた、同じ一日を始めようとしていた。

 

 電車が停まると、てつゆきは流れに逆らわず立ち上がった。ドアの開く音、その後に続くざらついた足音。人々の動きが一斉に一点へ収束していく。まるで目に見えない潮の流れに、全員が押し流されているようだった。

 ホームに降りた瞬間、湿った人いきれが押し寄せる。誰かの鞄が背中に触れ、誰かの靴が踵をかすめる。そのたびにてつゆきはわずかに身をよじりながらも、声は出さない。ここでは、誰も謝らないし、誰も怒らない。そういう世界の秩序がある。

 階段の手前で人の波が詰まる。頭上の換気口から送られる風が、生ぬるく頬を撫でていく。汗の匂い、衣服の柔軟剤の香り、朝のパンを思わせる甘い匂い──それらが渾然となって漂う。てつゆきは、嗅覚だけが異様に覚醒していることに気づく。

 階段を上る。足元に視線を落とすと、黒ずんだ段差にいくつもの靴跡が重なっている。磨耗した線が、年月を刻む化石のように並んでいた。誰かの時間が確かにここを通過している。その一端を、てつゆきも踏みつけている。

 改札が見える。機械の低い電子音が途切れなく鳴り続ける。ICカードをかざす音がリズムになって、群衆の歩調を刻んでいる。てつゆきもその一拍に合わせてカードをかざす。ピッという短い音が鳴る。何も失敗しなかったことを告げる音だ。

 改札を出ると、光が急に広がった。人工の照明とは違う、外の白い光。人の肩越しにそれがちらちらと見える。

 広場は混み合っていた。どの顔も、どの背中も、どこかへ急いでいる。電話で怒鳴る男、パンをかじりながら走る女性、無表情で立ち尽くすサラリーマン。てつゆきはその群れのなかで、一瞬だけ足を止めた。

 ──ここから先が、いつもいちばん息苦しい。

 彼は胸の奥でそう呟いた。

 鞄の紐を握り直し、ゆっくりと人の波に身をまかせる。誰の視線にも触れないまま、しかし確かにこの群れの一部として。

 改札の外の空気には、街のざわめきが満ちていた。信号の音、バスのブレーキ、誰かの笑い声──それらが曖昧に混じりあい、朝のノイズとなって彼の鼓膜を満たす。

 てつゆきは、顔を上げた。遠くのビルのガラスが、淡い光を反射していた。

 その光のなかへ、彼は歩き出した。

 

 改札を抜けた群れが交差点の前でほどけ、てつゆきはようやく自分の歩幅を取り戻した。人の流れが背中から離れていくと、肩の筋肉がゆっくりと解けていくのがわかる。朝の光はすでに街の角を満たしていた。

 駅前の道を抜けると、ビルの谷間を冷たい風が通り抜けた。アスファルトの上にまだ夜の湿り気が残っている。靴底にそれが吸いつくたび、かすかな音を立てる。十五分──時間にすれば短いが、てつゆきにとっては一日の輪郭を整えるための、もっとも静かな区間だった。

 角を曲がると、開店前のドラッグストアが見えた。シャッターのすき間から白い蛍光灯の光がもれている。中では店員が棚に商品を並べているのが見えた。マスク、整髪料、紙の箱。整然と並ぶものたちを、てつゆきは一瞬だけ眺めた。

 ──人はこうして朝を始めるのだ。まだ開かぬ店の中で、黙々と整えることで。

 その先の角を渡ると、セブンイレブンがある。自動ドアが開くと同時に、冷気が頬を刺した。店内は白く明るく、朝の音楽が静かに流れている。冷蔵棚の前で立ち止まり、無意識のようにいつもの銘柄の水を取る。キャップの青が目に心地よい。

 レジで電子音が鳴る。若い店員が疲れた声で「ありがとうございました」と言う。てつゆきは軽く会釈をして店を出た。ドアの閉まる音が背後でかすかに響く。

 通りに出ると、風がまた顔を撫でた。手にしたペットボトルの冷たさが掌に沁みる。歩きながら、一口だけ飲む。無味の水が舌を通り、喉の奥に落ちていく。その瞬間、体の内側で何かが微かに動いた気がした。

 空はすっかり明るい。ビルの影が短くなり、車の列がゆっくりと流れている。てつゆきは歩を進めながら、今日もまた同じ道を辿っていることを確認する。

 十五分。コンビニを過ぎ、信号を二つ渡れば会社の建物が見える。ガラス張りの外壁が朝の光をはね返して、少し眩しい。

 ──今日も遅れずにここまで来た。

 それだけのことを、彼は静かに噛みしめた。

 足を止め、胸の前で軽く息を吐く。喉の奥にはまだ水の冷たさが残っている。その感覚だけを頼りに、てつゆきは再び歩き出した。

 会社の入口まで、あとほんの数十歩だった。

 

 会社のビルの自動ドアをくぐると、空気が変わった。外のざわめきがふっと遠のき、代わりに静かな機械音が耳の奥に沈む。空調の低い唸り、蛍光灯のわずかな震え。それらが混ざり合い、無人の朝を形づくっている。

 受付を通り抜け、エレベーターに乗る。ボタンを押す指先に、まだペットボトルの冷たさが残っていた。鏡面に映る自分の顔は、光に対して少しだけ白すぎる。エレベーターの中には誰もいない。上昇の感覚だけが、からだをゆっくりと持ち上げていく。

 フロアの扉を開けると、蛍光灯の明かりがすでに灯っていた。まだ数人しかいない。奥の方からプリンターの稼働音が微かに聞こえる。紙の排出音が、この空間に朝を知らせている。

 てつゆきは自分の席へ向かう。椅子の背にかけておいた上着が、昨日とまったく同じ形でそこにある。机の上の書類の端が、わずかに反り返っている。その小さな乱れに、時間の重みが宿っていた。

 腰を下ろし、パソコンの電源を入れる。黒い画面に青白いロゴが浮かび上がり、機械の心臓が動き出す音がする。ファンが静かに回転を始め、画面がゆっくりと明るくなっていく。その光を見つめながら、てつゆきは指先を組んだ。

 この瞬間が、一日のなかでいちばん静かだった。外ではすでに街が動き始めているというのに、この四角い机の上だけはまだ、時間が届いていないように思える。

 メールの受信音が鳴った。現実が戻ってくる。彼は軽く息を吸い、背筋を伸ばした。

 ディスプレイの光が、眼鏡のレンズに映り込む。外の朝日よりも冷たい光。けれど今の彼には、それで充分だった。

 てつゆきは、今日という一日を、またゆっくりと始めた。

 メールの受信音がもう一度鳴った。小さな電子音が、空気のなかでくぐもって揺れる。てつゆきはその音を聞きながら、ふと胸の奥で何かがひっかかるのを感じた。痛みではない。もっと淡く、しかし確実に「そこにある」もの。

 彼は軽く息を吸い、吐こうとして──吸ったまま、止まった。

 画面の光が、ゆっくりと遠のいていく。蛍光灯の白が、かすかに滲む。手の甲が膝の上からずり落ち、マウスが静かに転がった。誰も気づかない。空調の音だけが、絶え間なく世界をまわしている。

 フロアの奥で、プリンターがまた一枚の紙を吐き出した。その紙の上に印字された文字列は、まだ温かい。ページを受け取る人のいないまま、ただ音だけがそこに残った。

 外では、朝が完全に昼へと変わっていた。ビルの窓に陽が差し、街路樹の葉が風に揺れている。信号の音、遠くのクラクション、歩行者の笑い声──どれもが、彼のいない時間の上を当然のように流れていく。

 彼のディスプレイには、開きかけのメールが残っている。宛名の「To」の欄には、昨日と同じ名前が並んでいる。文面の最初の文字「お」は、まだ途中のままだ。

 机の上のペットボトルには、半分ほどの水が残っている。キャップには、指先の跡がかすかに残っていた。

 誰もいない時間がゆっくりとその身体を包み、静けさが完全に満ちる。

 ──音も、光も、すべてがやわらかく遠のいていった。

 そして、世界は何事もなかったかのように、また動きつづけた。

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通勤 岩蝦蟇 雪崩石 @imaitetsuyuki

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