【第2章】機能不全のインセンティブ

田所の視線は「人」を追う。御子神の視線は「数字」を追う。 二人が組んで3日目、その視線が交わったことはまだない。 「御子神さんよぉ」田所が苛立たしげに言った。「理屈はいい。俺の勘じゃ、さっきから化粧品コーナーをウロついてる、あのパーカーの男が怪しい」 「彼の行動パターンは、AIの警戒閾値(いきち)以下です。非合理的だ」


御子神は、店内の壁に貼られた色褪せたポスターを指差した。「万引きは犯罪です! Gメン巡回中!」 「田所さん。あれは経済学でいう『シグナリング』であり、万引き犯に対する『負のインセンティブ』……つまり、行動を思いとどまらせるための『動機付け』です」


【ミクロ経済学用語②:インセンティブ(Incentive)】 人々の行動を(良くも悪くも)特定の方向へ誘導する「誘因」や「動機付け」のこと。 (例:「これをやれば得をする」(正のインセンティブ)、「これをやれば損をする」(負のインセンティブ))


「ですが」と御子神は続ける。「このポスターは、今や完全に機能不全を起こしている。なぜなら、犯人グループは『AIの死角』という情報の非対称性(=自分たちだけが知る情報)を握っている可能性が高いからだ」 「……また横文字か」 「AIがあるから大丈夫、と店員が監視を怠る。それは『モラルハザード』です。結果、あのポスターは『コスト』ゼロの脅しに過ぎず、犯人側には『この店は安全だ』という逆のインセンティブを与えている」


「理屈は分かったよ!」田所が声を荒げた。「だが、現実にパーカーの男が動いたぞ!」 田所の言う通り、男が素早い動きでテスター(試供品)を懐に入れた。 「確保します!」田所が飛び出す。 「待ってくだ、……ッ!」


御子神が制止するより早く、田所が男を取り押さえた。鮮やかな手際だ。だが、御子神の目には、その男の背後、酒コーナーのAIカメラが捉えた、別の「影」が映っていた。 パーカーの男が事務所に連行され、騒ぎが収まった頃。 御子神は、タブレットの在庫管理アプリを叩き、静かに告げた。


「……やられました。たった今、ドン・ペリニヨンが3本、消えています」 「何だと!?」 「パーカーの男は『おとり』です。我々のリソース(田所さん)をそちらに集中させ、本命を盗ませた。……見事な『機会費用』の操作だ」


【ミクロ経済学用語③:機会費用(Opportunity Cost)】 ある行動を選ぶことで失われる、「選ばなかった方の選択肢」から得られたはずの利益(価値)のこと。 (例:田所がパーカーの男を捕まえることで、酒コーナーを監視する機会が失われた)


「だから理屈はいいって言ってんだろ!」 田所の怒声が、バックヤードに響き渡った。 御子神は、初めて予測モデルが現実の「悪意」に敗北したことを認め、冷たい汗が背筋を伝うのを感じていた。

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