佳純りるの物語 第二話
僕とあなたはそれからもたくさん話をしましたね。休憩時間や仕事の合間や帰り支度の時に。
あなたは僕に音楽の話もしてくれましたね。
僕がどんな音楽を聴いてるの?と訊くと、
「私が聴いてるのは、クロマニヨンズ」
「ヒロトとマーシーの?」ブルーハーツは世代ではないけど、ドラマの主題歌とかで知っていた。その2人が作ったバンドだ。
「お母さんがちょうど世代で。ライブも何度か行きましたよ」
「そうなんだ。あ、ドラマの3年A組の主題歌だったよね、菅田将暉の」
「生きる、です。カッコいいですよね」
たしかにカッコいい曲だった。クロマニヨンズ。調べて聴いてみよう。
あなたはいろはすを飲みながら、「あとはカネコアヤノとか青葉市子とかT路地ズとかTOMOOとか聴きますね」
僕はそのうちの1人の名前も知らなかった。
あなたは飲み終わったいろはすをバリバリとつぶし、その音がかなり大きいのでいつもびっくりしてたのを覚えてます。
僕は帰りの電車の中でサブスクでカネコアヤノと青葉市子とT字路sとTOMOOの人気曲を続けて聴いた。クロマニヨンズはサブスクにはなかったのでYouTubeでアップされてるのを聴いた。
僕は中でも青葉市子とTOMOOにかなり刺激を受けました。
特に青葉市子の機械仕掛けの宇宙という曲と、TOMOOのオセロという曲を繰り返し繰り返し何度も聴きました。最寄り駅のベンチに座ってまで繰り返し聴きました。
家に帰ったら聴けなくなるからです。
僕の職場は残業が禁止で毎日定時に帰れる。だから美玖は僕の門限を7時に設定している。僕は人付き合いが良くないし、友達がいないことも知っているから、帰るのが7時を過ぎると鬼のように電話がかかってくる。
だから家に帰ると、そこからはもう2人の時間で、1人の時間は消滅する。
僕はそれまでそれを普通のことだと思っていた。2人で一緒に住んでいるのだから、2人の時間になるのは当たり前のことだと。
でもあなたと出会ってから、家に帰った2人の時間にも、あなたのことをいつも思っていました。美玖と2人で食事の支度をして、野菜を切ったり、皿を用意したり、笑い合ったりしてる時も、ずっと頭の中にはあなたがいました。
僕は世界で一番あなたが好きだった。
美玖は世界で二番目に好きな人になってしまった。
食事の後に食器洗いをしながら、ワイヤレスイヤホンで青葉市子の機械仕掛けの宇宙を聴きました。12分という長い曲で、それを聴き終わる間に食器洗いは終わりました。その時間があなたと僕をつなぐ時間だった。たった12分がとても貴重な1人の時間だった。本当に貴重だった。あなたのことがすごくすごく好きだった。
あなたはさっき言ったアーティストのライブにも行ってましたね。オールスタンディングの時には「22歳なんてもうババアなんだから」とても疲れると顔をしかめましたね。その表情もとても可愛かった。
カネコアヤノ、青葉市子、T路地ズ、TOMOO……来年にはAnoちゃんやクロマニヨンズのライブも行くと言ってましたね。たくさんたくさん行きたいって。
今でもすごく覚えています。
その来年が来なかったことも。
あなたは青葉市子のライブに行く前にずっとマスクをしていましたね。僕はあなたのささいな変化にすぐに気付きます。
どうしたのと訊くと、「お父さんがコロナに罹ったの。よく球場に野球を観に行くから、もらってしまったのかも」と言ってましたね。だから予防の為にマスクをしているのだと。
「お父さんのコロナもらわないといいね」
「はい、明後日にはお父さんも仕事行けるみたいだし」
でもあなたはコロナに罹ってしまいましたね。
その朝、あなたからの電話には僕が出ました。会社には固定電話がなく、会社用のスマホが一台、従業員控室のデスクに置いてあるだけで。
「おはようございます。ごめんなさい、体調不良で休ませて欲しいんです」
「大丈夫? もしかして……」
「はい、コロナにかかっちゃいました。それでしばらく休まないといけないので、社長の電話番号を教えてもらえませんか?」
社長は本社とは名ばかりの平屋の事務所にいるので、壁に貼ってあった社長の電話番号を教えた。
「症状は重いの?」
「熱がすごく出たんですけど、今は平熱で少し喉が痛いくらいです」
「本当にゆっくり体を休めてね」
言葉の中に本当に本当に心配してるという思いを込めたけれど、あなたには通じていませんでしたね。
「はい、わかりました」
通話を切った後、僕はあなたがかけてきたそのスマホの番号をデスクにあったメモに書いて、すぐに財布に入れました。
もうその番号は通じなくなってしまったけれど、今でもメモはなくさずに財布に入れてます。気持ち悪いですよね、こんなの。バレたら本当にキモがられるので、一度も電話をかけたり、ショートメールを送ったり、スマホのアドレスに入れたりしませんでした。財布の中にその番号は仕舞われました。それは一生仕舞っておくと思います。
あなたがコロナの待機期間の5日間を休んで仕事に復帰したその週に、あなたは会社に半休届けを出して青葉市子のライブに行きましたね。
「もう体は大丈夫なの?」
「はい、全然」
「気をつけてライブ楽しんで来てね」
「はい」その笑顔が大好きでした。
会社のみんなはこのタイミングで行くかなと話していたけど、あなたはとてもアクティブな人でしたから、それが当然なんです。
僕はその日帰宅すると、美玖と一緒に夕食を作りました。肉じゃがを作るというので、僕は人参と玉ねぎを刻み、グリーンピースの小さな缶を開け、ジャガイモの皮をピューラーで剥いていました。
彼女はご機嫌なのか何かの曲をハミングしながら、玉ねぎを牛肉を鍋で炒めてました。よく耳を澄ませたら、YOASOBIの三原色という曲でした。僕も好きな曲でした。でも今は、あなたに教えられた曲の数々がいつもあたまの中に鳴っていました。
ジャガイモをピューラーで剥いてる時に、血が滲んでることに気付きました。
「ごめん、血が出ちゃった」
僕は美玖に血が滲んだ人差し指を見せました。
それを見た美玖は「ちょ、ちょっと大変じゃない」と火を止め、僕に手を洗わせ、清潔なタオルで拭いて、消毒液を塗り、バンソウコウを貼ってくれました。世界で二番目に好きな人が。
「ごめんね。痛かったでしょう」
「大丈夫だよ、このくらい」
美玖の心にはもっともっともっと痛い思いをさせてるんだ。血がドクドクと流れて放っておいたら死んでしまうかもしれないくらい、心に傷をつけているんだ。そう思ったら、なんだか心がおかしくなってしまった。
そんな風に思っても、やはり僕はあなたのことが世界で一番好きだった。もしも僕がケガをしても、あなたは優しくバンソウコウを貼ってくれるかなと思って、胸が締めつけられた。あなたのことを考えると常に胸が苦しくなった。
時間はかかったけれど、肉じゃがは出来上がり、美玖と2人で肉じゃがを食べた。美味しかった。ビールを飲みながら、僕は美玖にスマホのサブスクで青葉市子の機械仕掛けの宇宙を聴かせました。
美玖は「長っ」と言いながら最後まで聴いて、「よくわからない」と言ってました。本当にわからなかったのでしょう。その美玖の横顔は世界で二番目に好きな人の横顔でした。
セカオワとYOASOBIくらいしか聴かない美玖の、世界で二番目に好きな人の安定した横顔でした。
その横顔は安定感のある好きな表情です。でも世界で一番好きな人は別にいるんです。
僕は世界で二番目に好きな人と暮らしていました。
僕は常にあなたのことを思いながら、世界で二番目に好きな人と生活していたのです。
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