二万クレジットの不在証明
nii2
第1話
頭の中に、ぽっかりと穴が空いている。昨日の午後三時から五時までの二時間。僕はその記憶を、二万クレジットで売った。
酸性雨が窓ガラスを叩く音で目が覚めた。合成プロテインの味気ないシェイクを流し込み、部屋の隅で充電されている自律清掃ドローンを蹴飛ばす。壁一面のホログラムウィンドウには、くすんだ灰色の空と、雨に濡れてけばけばしく光るネオンサインが映し出されていた。2088年、ネオ・トーキョー。この街では、空の色さえ金で買える。僕は買わない。どうせ見上げる暇もないからだ。
ドアのセキュリティチャイムが、単調な電子音を繰り返した。来客の予定はない。面倒事を予感しながらコンソールを操作すると、モニターに無表情な女の顔が映った。レインコートのフードを目深にかぶり、その下の瞳だけが妙に鋭い。公安局のバッジが、一瞬だけカメラに示された。
ドアを開けると、湿った空気とともに女が入ってきた。霧島アカリと名乗った刑事は、部屋の中を値踏みするように一瞥し、僕に向き直った。 「相馬レンだな。メモリー・ブローカー」 「それが僕の職業だ。何か御用で?」 僕は平静を装った。ブローカーという商売は、常にグレーゾーンと隣り合わせだ。 「昨日、午後三時から五時。どこで何をしていた?」 単刀直入な質問。僕は肩をすくめた。 「さあな。覚えていない」 「覚えていない?」アカリの眉がぴくりと動く。「ふざけているのか」 「いいや。僕はその時間帯の記憶を、昨夜、メモリー・バンクに売却した。記録ならサーバーに残っているはずだ」 生活費のためだった。クライアントとの退屈な打ち合わせの記憶。どうせ持っていても何の役にも立たない、ただの記録データだ。二万クレジットは、今月の家賃の足しにはなる。 アカリは数秒間黙り込んだ後、唇の端を歪めた。「ご親切にどうも。売買ログは確認済みだ。問題は、その二時間の間に、君の取引相手だった男が殺されたことだ」
男の名前はヤマシロ。違法な記憶データを扱うアンダーグラウンドのバイヤーで、僕にとっては上客の一人だった。殺害現場は彼のオフィス。そして、そこには僕の指紋と皮膚組織が残されていたという。 「僕は殺していない」 「アリバイは?」 「だから、売ったと言っている」 「便利な言い訳だな」アカリは冷たく言い放った。「犯行時刻の記憶がない。状況証拠は君が犯人だと示している。この街では、証拠となる記憶を意図的に売却するのは重罪だ。殺人罪に加えて、証拠隠滅罪も適用される」 絶望的な状況だった。「記憶の密室」だ。僕は自分の手で、自らの無実を証明する唯一の手段を消し去ってしまった。自分が本当に殺人を犯したのか、それとも嵌められたのか。それすら、今の僕にはわからない。
アカリは僕を監視下に置くことを条件に、限定的な自由を与えた。彼女の目的は、単に僕を逮捕することだけではないようだった。この記憶売買が絡んだ奇妙な事件の真相を、根こそぎ暴き出したい。そんな執念がその鋭い瞳の奥に見えた。 「君のブローカーとしての知識が必要になるかもしれない」と彼女は言った。「協力するなら、多少の便宜は図ろう」 敵であり、協力者。奇妙な関係の始まりだった。
まず、メモリー・バンクの公式記録を調べた。僕が売った「午後三時から五時の記憶」の買い手は、当然のように「匿名」と表示されていた。暗号化されたIDでは追跡は不可能だ。 次に、裏ルートに潜った。僕が持つブローカーとしてのコネクションを使い、ヤマシロの最近の動向を探る。情報屋の古いアンドロイドが営む、ネオンの光も届かない裏路地のバー。そこで僕は、ヤマシロが最近、とてつもなく大きな獲物を追っていたという情報を掴んだ。 「メモリー・バンクのシステム設計図だ」情報屋は合成アルコールのグラスを磨きながら言った。「バンクのセキュリティの根幹に関わる超弩級のデータ。手に入れれば、どんな記憶データにも不正アクセスし放題になる代物だ」 その話を聞いた時、ニュースで小さく報じられていた記事を思い出した。「メモリー・バンクからの機密データ流出疑惑」。会社側は即座に否定していたが、火のない所に煙は立たない。ヤマシロは、その流出したデータを手に入れようとしていたのか。
自室に戻り、アカリに報告する。彼女は腕を組んで、ホログラムウィンドウに映る雨の街を眺めていた。 「ヤマシロは危険な橋を渡っていた。データを巡るトラブルで、別の誰かに殺された。だが、なぜ僕が犯人に?」 そこまで考えて、思考が止まる。何かがおかしい。犯人の目的がヤマシロの殺害だけなら、僕を犯人に仕立て上げる必要はない。もっと言えば、僕の記憶をわざわざ買わせる必要もない。あまりに手の込んだ、不自然な工作だ。
発想を転換する。もし、犯人の第一目的が「僕を犯人にすること」ではなかったとしたら? もし、本当の目的が「僕の記憶を消すこと」そのものにあったとしたら?
パズルのピースが、音を立ててはまる感覚があった。 そうだ。僕は、あの二時間の間に、何かを見てしまったのだ。犯人にとって、絶対に見られてはならない何かを。例えば、犯行の瞬間そのものを。 犯人はヤマシロを殺害した。そして、その場に僕が居合わせたことに気づいた。パニックになった犯人は、僕を殺す代わりに、もっと確実で、もっと巧妙な方法を選んだ。
僕の端末に残っていたメッセージログを再確認する。ヤマシロからのものとして受信した、記憶の買取依頼だ。『急ぎで高品質な記憶データが欲しい。午後三時から五時までの、君のブローカーとしての打ち合わせの記憶を二万で買いたい』。 今思えば、妙に無機質な文体だった。いつもはもっと絵文字やスラングを多用するヤマシロらしくない。だが、その時の僕は金に困っていたし、疑うことすらしなかった。 犯人はヤマシロを殺害した後、彼の端末を使って僕に接触したのだ。そして、僕が目撃したであろう犯行の証拠となる記憶を、僕自身の手で売却させ、合法的に消去させた。これ以上ない、完璧な証拠隠滅だ。
「この街では、真実さえ金で買える」 いつかアカリが吐き捨てた言葉が、頭の中でリフレインした。犯人は、僕の真実を二万クレジットで買ったのだ。
「犯人はメモリー・バンクの内部の人間だ」 僕はアカリに向き直り、自分の推理を語った。 「システム設計図のデータを横流ししようとしていた社員がいた。ヤマシロはその取引現場に現れ、データを横取りしようとしたか、あるいは強請ろうとした。だから殺された。僕は偶然、その現場に居合わせてしまった。犯人は僕の顔を知っていた。だから、僕が記憶を売る可能性があることも計算していた」 アカリは黙って僕の話を聞いていた。その目に浮かんでいた疑いの色は、いつの間にか、興味と冷静な分析の色に変わっていた。 「アリバイはどうする。内部の人間なら、ログの改ざんくらい容易いだろう」 「その通りだ。犯人は自分のアリバイを偽装し、僕の記憶を消し、僕に罪を着せる。一石三鳥の計画だ」 「どうやってその犯人を炙り出す?」 「罠を仕掛ける」僕は答えた。「犯人は、僕がまだ『何か』を覚えている可能性を恐れているはずだ。記憶の売却は完璧じゃない。断片的なイメージや感覚が残ることもある。そして何より、犯人は『システム設計図』のデータそのものをまだ手に入れていない可能性がある」 僕はアカリに計画を話した。彼女はしばらく考え込んだ後、静かに頷いた。
翌日、僕はブローカー用の闇ネットに、ある情報を流した。 『ヤマシロ氏から預かっていた例のデータのバックアップ、高値で売却希望。心当たりのある方は至急連絡を』 ハッタリだ。僕の手元にそんなものはない。だが、犯人がまだデータを確保できていないなら、必ず食いついてくるはずだ。
数時間後、匿名のメッセージが届いた。『明朝、第七セクターの旧貨物ターミナルで会いたい』。 約束の時間、僕は一人で廃墟と化したターミナルに向かった。降り続く酸性雨が、錆びた鉄骨を伝って滴り落ちている。アカリと彼女の部隊は、周囲に潜んでいるはずだ。 薄暗いコンクリートの空間に、一人の男が立っていた。見覚えのある顔だ。メモリー・バンクのセキュリティ部門の社員、サトウ。僕が以前、仕事で何度か顔を合わせたことがある男だった。 「データは持ってきたか、相馬」 サトウの声は、緊張で上ずっていた。 「ああ。だがその前に一つ聞きたい。なぜ僕だった?」 「お前がヤマシロと会う約束をしていたのを、俺はシステムの監視ログで知っていた。都合が良かったんだよ。お前は金に困って自分の記憶を平気で売るクズだ。最高の隠れ蓑だった」 サトウが懐に手を入れた瞬間、周囲の暗闇から閃光が迸った。アカリ率いる公安局の部隊が一斉に姿を現し、サトウを取り囲む。レーザーサイトの赤い光が、彼の顔の上で交差した。観念したように、サトウは両手を上げた。
事件は解決し、僕の容疑は晴れた。サトウはヤマシロがデータを手に入れる現場を押さえ、彼を殺害してデータを奪った。そして、偶然通りかかった僕を目撃し、あの巧妙な記憶消去のトリックを思いついたのだ。彼のアリバイは、予想通り自身の権限で改ざんされた偽物だった。
すべてが終わった後、僕はアカリと分署の廊下で向き合っていた。 「これで自由だ」彼女は言った。表情は相変わらず硬い。 「そうだな」 だが、僕の心に晴れやかな解放感はなかった。代わりに、奇妙な空虚感が広がっていた。僕の記憶。僕が僕であることの証明の一部が、知らないうちに他人の犯罪の道具として利用され、たった二万クレジットで消去されてしまった。それはまるで、自分自身の魂の一部を切り売りしてしまったような感覚だった。 僕はもう、メモリー・ブローカーを続ける気にはなれなかった。 「辞めるよ、この仕事」 「そうか」アカリは短く答えると、背を向けた。そして去り際に、一度だけ振り返って言った。 「君の記憶は、君だけのものだ。安売りするな」
分署を出ると、降り続いていた酸性雨が上がっていた。分厚い雲の切れ間から、久しぶりに鈍色の陽光が差し込み、濡れたアスファルトを照らしている。 僕は空を見上げた。そして、自分の記憶を確かめるように、一歩、また一歩と、雨上がりのネオ・トーキョーの街を踏みしめて歩き出した。これからどこへ向かうのかはわからない。だが、この足跡だけは、もう誰にも売るつもりはなかった。
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