二人で惑星を食べた日

沙知乃ユリ

甘味と宇宙の話

指環がない。


前夜、ボクは先輩に誘われるまま居酒屋をハシゴした。路地裏の「皐月」、橋を二つ越えた先にある赤提灯が目印の「どんづまり」。お決まりのコースだ。その後のことは、紫のタバコの煙の奥にある。


記憶の中で指環は、カフスボタンの形をしていて、磨かれた表面が鈍く光っていた。ぬるいビールの中を宇宙空間のように落ちてゆき、黄金の泡と一緒にいつまでも沈んでいた。


そして、指環がない。

記憶もない。

けれど、待ち合わせの時間だけは、体に刻まれていた。

裸の薬指を革の手袋に包む。靴の裏が、昨日の酒をまだ覚えているように重い。


ジャンボシュークリーム。


彼女が前の秋からせがんでいた店だ。黄色のノボリが青空にはためく。

ビール腹の胃が、ボクに何かを訴えかけるが、ボクはその声を聞かない。


「やっと来れたね」

「うん。まるで彦星と織姫、ベガとアルタイルだ」

「なに言ってるの?いいから早く入ろっ」


彼女は、いまだ衛星軌道上を漂うボクの手を引いて、軽々と境界線を飛び越えた。


チリンチリン。


ドアベルがボクらの入室を店内に知らせる。店の奥でブザー音が鳴っていた。

店内は海の底のように冷たい緊張感に満ちていた気がした。


背筋を伝う冷や汗をシャツに吸わせて、ボクは彼女の前にたつ。

「二人です」

指を二本たてて、出迎えたウエイトレスにピースサイン。


「ジャンボですか?」と彼女は事も無げに聞いた。

・・・・・・ここは地球ではなかったのか。

戸惑うボクに代わって彼女が答えた。


「はい、ジャンボです」

二人にだけわかる符丁が、清々しい空気感を作り上げた。ボクはよくわからないまま、頷いた。


「ジャンボ入りまーす」

ウエイトレスはエプロンのポケットからホラ貝を取り出した。麗しい唇と接吻したホラ貝は息を吹き返した。

店の奥から熱気が波に乗って伝わってきた。

灼熱の何かを背に受けながら、ボクらは座席へ案内された。


店内はちょうど菱形となっており、中央の屋根が高くなっていた。吹き抜け構造で広々とした印象を与える。

入り口から少し左に入ると中央に向かって階段が伸びていた。

先をゆく彼女は木目調の段を一つずつステップしてゆく。

彼女の靴が階段を軋ませ、ドレミの音符が弾んでいる。ボクは自分の音程を彼女に合わせてみた。


中二階の高さまで上がると、古代神殿の台座のように無骨な机が鎮座していた。

台座の反対側から、厨房に向かって緩やかなスロープが伸びている。


彼女は台座の椅子に座る。ボクも四十五度となりに座る。

ヒヤリとした感触と、弾力のあるクッションがボクを支えた。


甘い儀式の幕が、静かに上がった。


台座には神聖文字が刻まれていた。よく見ると注意書きだった。


『超弩級ジャンボシュークリーム一個三千円』

『三〇分以内の完食で無料』

『挑戦者は二人まで(内一名は女性)』


いつの間にか声に出して読んでいた。

彼女が不思議そうにこちらを見ている。

「ね、女性が居た方が有利って言った通りでしょ。

もしかして忘れてた?」

「いや、そんなことは」

「それより、いつまで手袋してるの?

早く外しなよ。食べづらいでしょ」

「あー、実はその、秋になると手甲の古傷が疼いて」

彼女はあきれたように笑った。

「あ、もう来るみたい!」


長いコック棒を頭にのせたパティシエールが前後を守り、それはやってきた。

台車がスロープをゆっくり登る。

車輪がまわり、地球もまわる。


ジャンボシュークリームだ。


碧いヴェールの下から現れたそれは、真っ二つにされた巨大な球体だった。両手を伸ばしても円周に足りない半球上のジャンボシュークリームは、甘い香りと煌めく粉糖を身にまとい、店内の視線を一人占めしていた。


半球を乗せた大皿がボクらの台座に滑り出てきた。

重力と摩擦力だ。台座が軋む。


いま、指環がないことを打ち明けるチャンスだったのでは?

後悔の念よりも先に、胃液がボクの食道まで侵攻してきた。

ここまで目をつむってきたが、認めざるを得ない。二日酔いだ。

ボクは頭を垂れた。


台座の下で、彼女は足を放牧していた。

世界の回転が一瞬止まった。


牧草になりたい。


ウエイトレスが鈍い鉄のスプーンを渡す。「発掘用です」

発掘?

とにかく覚悟を決め、スプーンを手に取る。

ボクはスプーンの腹に、やや蒼白な自分の顔をを見た。


彼女と視線を交わす。

言葉はいらない。

ボクも足を放牧した。


ウエイトレスがホラ貝を取り出す。さっきのより大きい。


「ご両人とも、準備は宜しいですか?

それでは、ジャンボ!スタート!」

掛け声とともにジューン、と効果音が響く。ホラ貝は吹かないらしい。 たぶん、マニュアルに書いてある。


いつの間にか店内の有線放送が止まっていた。厨房からも客席からもジャンボスタートの掛け声が、拍手と歓声を添えて立ち上がる。


彼女は笑いながらスプーンを突き立てる。

ボクも負けじとシュークリームに立ち向かう。

「「いただきます」 」


一層目:シュー生地-詩編「炭鉱夫ライフ」


そのシュー生地は厚さの見当がまるでつかなかった。

生唾を飲み、スプーンを繰り出す。

抵抗ゼロ。

あまりの呆気なさに拍子抜けした。


このシュー生地、軽いぞ。


意気揚々に掘っては食べ、掘っては食べる。

粉糖が光を返し、鉱脈の在処をほのめかす。

この奥に指環があるのかもしれない。  


ヘッドランプに意志を宿して、汗をかき、ツルハシを抱える。

細長い夜の声が背中を撫でる。

一寸先は闇。  


一口は坑木、二口は歌、三口目は薄い朝焼け。  

咳き込みながら、ボクは生き延びる。


「ここに脈がある」  

見つけたのは、決意。  


ボクは舌を鍬に、胃袋を貸車に、今日という坑道を進む。


あの夏、ボクは初めてのアルバイトをしていた。

引っ越し業者で怒鳴られながら重たい冷蔵庫を運んだ。

薄茶の封筒の中に、小さなダイヤモンドが眠っていた。

ダイヤモンドをお揃いの指環に代えてプレゼントした、彼女の誕生日。


タイムスリップしていたボクを呼ぶ声がする。

「ね、表面だけで幸せになるね。ミルフィーユみたい」

「ミルフィーユってのは層の名前で、これは……」

「シューの地層。シューソフィア。おいしい」

彼女は要するに、詩の才能がある。


時計はちょうど五分経過。

ウエイトレスが銅鑼を鳴らし、少しだけ焦る。

ボクらは岩盤を越え、とうとう白い雪原に出た。


二層目:生クリーム-詩編「メンヘラ彼女ライフ」


真っ白い生クリームは凡ての光を飲み込むブラックホールのようだった。

スプーン越しに吸い付くようなもち肌と、ずしりとした重みが伝わってくる。

口のなかいっぱいに広がったクリームの粒子はボクの精神に刃をたててみせた。


どう?

なにが?

知ってるくせに。いぢわる。

砂糖の過剰摂取は危険な遊びと知った夜だった。


そのひとくちがおわりのはじまり。

雲のようにフワフワ。

雪のようにズシリ。

水溜まりのように罠をはる。


ボクはユキダルマ。もう動けない。

キミはカキゴオリ。その身を削り。


おわりのはじまり。もうおわりだね。

おわりがわらう。


大学デビューに浮かれたボクは、サークル勧誘の傘の下、キミと出会った。

爽やかな笑顔は春そのものだと思ってしまった。


あの日からキミはボクの行く先に現れ続けた。

何もかもがキミに上書きされつづけ、ボクは自分を見失いかけていた。


その年の夏、彼女はボクを取り戻してくれた。

夜空に大輪の華を咲かせ、ボクは彼女の手を取った。


白昼夢のボクは、震える手で隣にいる彼女の肩に触れた。

「大丈夫?重くなってきたね」彼女が笑う。

「最初は春だったな」

「春は入り口がいちばん美味しいんだよ」

彼女は水を一口飲んで、また雪をすくった。


彼女はボクを救った。ボクもまた彼女を救いたい。

彼女の目の前のクリームを掬う。臍のあたりに、小さな鈍い灯りが次々と点る。


彼女の頬は上気し、目はまだ楽しげだ。

ボクだけが、少しだけ、地面を支えている気がする。


残り二十一分。

スプーンの先端が、黄金の地層に触れた。


三層目:カスタード-詩編「少年時代ライフ」


秋の収穫祭。

実るほど頭を垂れる稲穂かな。

芭蕉がどこかで唄っている気がした。


黄色いカスタードは口のなかで甘くほどけたが、意外なほど複雑な表情を内に秘めていた。

甘さの波にも薄い部分と濃い部分が交互に現れる。

ほんのり苦いキャラメルの後味。わずかなタマゴ感。


どこか遠い日の記憶が刺激されてしまう。

ノスタルジア。

つまり、郷愁。ふるさと。


うたた寝のまぶたの裏には、鮮やかな黄色い川がある。

幼い姉の笑い声。


赤トンボの群れが通り過ぎる。

その一つが虫かごに止まる。

木枯らしが白と黒のサッカーボールを転がす。


祖父のコンバイン。祖母の自家製プディング。

近所の知らない友達と引っ付きあって食べた。

タマゴ感が強かった。


祖母は言った。

ウソをつくのは仕方ない。

だけど、自分を騙してはいけないよ。


瓶の底にはキャラメルの焦げ茶が線を引いていた。

赤トンボは、もういなかった。


このジャンボのなかに、ボクの指環は無いかもしれない。

けれど、ボクは指環を見つけた気がした。


この幸せな時間が永遠に続きはしないことを、ボクらは知っていた。

だからこそ。ボクはこの瞬間を、未来を彼女と生きる。


「これ、クセになるかも」

彼女の声よりも先に現実に戻る。

ボクは頷き、汗をふく。


しかし幸福と時間の曲線は決して交わらない。

好きなだけ食べられたら、それはもう"特別"じゃない。そう思うと、少し切ない。

ボクは手袋の奥にある自分の手が、少しだけ静かになっていることに気づいた。


残り十五分。二人同時に水を口に含む。


台座には、銀の皿から溢れだした雲と陽だまりの残骸が広がり、ボクたちの会話は短くなる。


掬う。飲む。呼吸。


カスタードの向こうに黒い海が覗いた。


中心部:ホットチョコレート-詩編「惑星/宇宙」


それはドロドロに溶けた chocolate だった。

周囲のカスタードを押し退けて、ボクらの進めた道を濁流となってさかのぼる。

外気に触れた部分から湯気をたて、硬さを取り戻していく。


刹那、赤黒く明滅するチョコレート。

その呼吸に、ボクの生命の核が共鳴した。

「噴火だ」

「え?」


表面張力が丸い地平線を作り、外縁をカスタードの大陸が貼りついている。

ボクはその景色に、惑星の断面図を見た。

生地は地殻、クリームは海、カスタードは大陸棚。

そして、チョコレートは――マントル。


スプーンを入れると、押し返す力と吸い込まれる力を感じる。

引力と斥力。

熱と甘さに舌がしびれ、目の奥に星がパッと散った。

クランベリーだった。


ボクはいま、地球の深層にたどり着いた。

何かに突き動かされてたどり着いたボクだけの真実。

いや、ボクの営み、それ自体が地球の一部だったのだ。


スプーンは探査機、

胃袋は地質学のノート、

汗は海を越える渡り鳥。


ひとくちで一万年、

ふたくちで大陸が割れ、

さんくち目で人類が砂糖を発明する。

その先にあるのは おそらく宇宙だ。


チョコレートは暗黒物質、

クランベリーは恒星、

ボクの食道は不安定なワームホール、

そして、彼女の笑い声は地球からの通信。


ボクは、宇宙を、食べている。


「大丈夫?」

遠い星から届いた彼女の声が、コールドスリープしていたボクを呼び覚ます。

「大丈夫。いま銀河を三杯ほど」

「なにそれ」

彼女は笑い、汗を拭い、また一掬い。


彼女のスプーンは現実的でリズムがいい。

ボクのスプーンは空想に見惚れて止まりがちだ。

こういうところが、ふたりの違いだと知っている。


残り七分。

自席から応援していた客たちも、台座の周りを囲み始めた。

誰かが小声で応援している。


ウエイトレスはニコニコと「順調ですよ」と言う。けれど、ボクはバランサーを失い、視界が揺れる。

トロッコは壊れ、腕は雪だるまのように重く、ワームホールは赤トンボ一匹通れやしない。

時間が無限に引き伸ばされ、アキレスと亀は逆転する。

一匙が、重い。

手袋を今すぐにでも脱ぎ捨てたい。

それでも、あと数口。数口なら、宇宙はまだボクの中だ。


熱いチョコをもう一口。

世界が音を失った。

視界の端で彼女の真剣な顔。


「しゅーりょー!」

ウエイトレスの声と同時に、ボクのスプーンは三回転半ひねり、床に着水した。

ウエイトレスが、素早く水を差し出す。

「無理しないでくださいね」

いや、いまは宇宙の話をしているんだ――と言いかけて、ボクは水を飲んだ。


三十分経過。

ボクたちは、甘い惑星の半分ほどを食べ、敗北した。


観客たちは何事もなかったかのように各々の人生を再開していた。

祭の後の寂しさのなか、会計は粛々と行われた。

レシートに印字された「挑戦失敗:三〇〇〇円」。

敢闘賞として小さなシュークリーム二つ。


チリン。

ドアベルが耳の奥で反響した。


店を出ると、風がさっきよりも冷たくなっていた。ノボリは高くはためいている。

ボクは腹を押さえながら、ふと笑ってしまった。

「どうしたの?」

「いや、ちょっと宇宙を食べてさ」

「そっか。私は、世界を撮ったよ」


彼女がスマホを見せる。

そこには、解体途中の超弩級の断面図。

生地の岩肌、雲の層、陽だまりの湖、そして黒いマグマ。

彼女の指先が画面をすべる。

ハッシュタグが並んでいる。

#甘い地球#二人で惑星食べました


通知の数が、瞬く間に増えていった。

知らない誰かの笑い声が、ポケットの中で震える。

彼女は、やわらかく笑う。

「ね、すごいの。もう拡散されてる。『美味しそうな地層』ってコメントがいっぱい」

ボクは空を見上げた。雲が薄くちぎれ、午後の光が瓦屋根に落ちる。

遠くで電車の音――宇宙は案外、手の届くところにある。


ボクは彼女に向けて両手を突き出して見せた。

「実は謝ることがある」

「ふふ、聞きましょう」彼女は笑って促した。

右の手袋を外して見せた。


何度見ても、指輪が、ない。

彼女はボクの手を見て、何も言わなかった。


「実は、指輪をなくしたんだ。ごめんなさい」

日の光が赤みを帯び始めた。

路線バスは、ボクらを置いて走り去る。


凍り付いたときを動かしたのは、彼女だった。


「様子がおかしかったのは、そういうことだったのか」

可笑しそうに言って、彼女も右手を差し出した。

彼女の薬指は、何も反射していなかった。

指輪がない。


「昨日、お手入れのために指輪をお店に預けたの。

また、記憶なくすほど飲んだんだ。どうせ、綿貫センパイでしょ」


頭の中の紫の煙が晴れて、

すべて、

思い出した。


「指輪は、あったんだ」

「これから受け取りにいこ。正直に話せて偉いね」彼女はボクの頭を撫でた。


「また、来ようか」

照れ隠しにボクが言うと、彼女は「もちろん」と答えて、ボクの手を取った。

指先は少し冷たく、掌はあたたかかった。

踏切の警報が鳴り始める。

赤いランプが点滅して、ボクらは小さく息を合わせて立ち止まる。

彼女はスマホをしまって、空になった反対の手でボクの腕を軽く叩く。

「次は、銀河パフェってお店に行こうよ。

知ってる?」

「宇宙の続編?」

「そう。二人まで挑戦可、うち一人が詩人であること、って書いてあったら笑うね」

「それはボクの出番だな」


踏切が開く。

ボクらは渡る。

足元の線路が、銀の糸のようにまっすぐのびている。

遠くへ続く道だ。

甘さで満たされた胃袋の重みが、今日の重力になっている。

世界は少しだけ傾いて、歩き出すたびに、ボクらはすこしだけ笑う。


振り返ると、ノボリがこちらを見ていた。

「ジャンボシュークリーム」

その文字は、風に揺れながら、別の言葉に読み替えられる。

きっと「またおいで」。

あるいは「君たちの宇宙は、まだデザートの途中だよ」。


ボクはうなずいて、前を向く。

彼女の横顔が、午後の光を連れて歩く。

ボクは、宇宙を食べた。

彼女は、世界を笑わせた。

どちらも、満腹だった。


そして――やっぱり、彼女が好きだと思った。


――――――――――――――――――――――


◆あとがき


食べること、笑うこと、愛すること。

それはすべて、同じ「生きる力」なのかもしれません。

どんなに重くても、ふたりで分け合えば、

世界は少しだけ甘くなる――

そんな気持ちを込めました。

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