第10話 青いペンダントを持つ少女
聖なる泉から立ち上がったレンの頬を柔らかな風が撫でる。
この聖域を包む空気はどこまでも清らかで、この一か月の日々が嘘のように穏やかだった。
そっと左腕の傷痕に視線を落とす。
もう痛みはほとんどない。 けれど、そこにある確かに失われたもの。
「レンさん。」
背後から小さな声がした。
振り向くと、泉の水面を覗き込んでいた少女――アイリスが顔を上げた。
淡い金髪が陽光を受け、ふわりと揺れる。
彼女の首には、青い宝石のペンダントが光っていた。
「……大丈夫、ですか?」
「うん。ちょっと力が抜けただけさ。なんか久しぶりに新鮮な空気を吸った気がする。」
「そうですか……よかった。 本当に良かったです。」
アイリスは微笑んだ。
その笑みは、レンにとって救いそのものだった。
思えば、彼女と出会ったのは、魔王を倒してから何日かした後だった。 まだ、一緒に旅して一か月も経ってない。
――あの日、レンは呪いにより追われる身となり、聖なる泉を探してさまよっていた頃だった。
魔王との闘いの傷が癒えきっていなかったレンがたどり着いたのは山に囲まれた辺境の寒村。道を行き交う者も少なく、どこか淀んだ空気が漂っていた。
その村は王都からかなり離れており、勇者だったレンのこともほとんど知られていなかった。
そこでレンは村人から迫害を受けていたアイリスと出会った。
俺は村の端で、ひとり井戸のそばに座り込む自分より少し年下であろう少女を見た。 薄汚れたマントを羽織り、膝を抱えて、どこか遠い場所を見つめていた。
「……こんなところで、何してるんだ?」
声をかけても、少女はすぐには答えなかった。 代わりに、胸元で光る小さな青い宝石が、風に揺れてチリと鳴った。
「……何か食べ物を……もらえますか?」
かすれるような声だった。
彼女は、呪われている俺に敵意を向けることもなく、ただ、かすかに微笑んだ。
その後、持ち合わせていた食料を食べながら聞いた話では、彼女の名はアイリス。
彼女が“疫病女”と呼ばれるようになったのは、もう三年も前のことだという。
三年前に病弱だった両親を病で亡くし、村の中では「不吉な娘」と囁かれていた。
母親が残した青いペンダント――“呪いを遠ざける加護の石”――が、不気味であると逆に村人の恐れを煽ったのだという。
『あの子は魔を呼ぶ。近づくと災いを招く』そんな噂が、いつしか真実のように扱われていた。
彼女はこの村では誰にも愛されず、誰にも必要とされなかった。
それでも、村の外れの小屋で、 亡き母の形見を胸に生きていた。
アイリスは母親の形見のペンダントにより俺の呪いの影響を受けず、俺に対して“普通”に接してくれた。
呪いの影響で、村人たちは少しずつレンに憎悪を向けていく。
この時の俺にとってアイリスの存在はとても大事な精神的支えになっていたのかもしれない。
そんなある夜、魔物が村を襲った。
レンによって魔物は討伐されたものの、まだ完治しきっていない怪我の影響で手間取り、村中に火の手が回ってしまった。
村人たちは慌てて逃げ惑い、誰も彼女のことなど気にかけなかった。
火の手が上がる中、唯一彼女の家に駆け付けたのが――レンだった。
「逃げろ! ここはもう危険だ!」
「私は……ここに残ります。 もうどこにも私の居場所なんてないんです!」
「馬鹿を言うな!」
レンは半ば強引に彼女の腕を掴み、燃え盛る家から引きずり出した。
その瞬間、屋根が崩れ落ち、火の粉が夜空に舞った。
村が焼け落ちた夜。
泣きじゃくる彼女の肩に、レンは静かに上着をかけた。
「……行こう。こんなところに、お前を閉じ込めておくわけにはいかない。」
「でも……私、どこにも行く場所なんて。」
「じゃあ、一緒に来い。自分の居場所なんて、これからゆっくりと探せばいい。」
その言葉は、彼女にとって両親を亡くしてから初めて“生きていていい”と告げられた瞬間だった。
「……アイリス。」
「はい?」
「お前がいてくれて、本当に助かった。」
レンが言うと、アイリスは少し驚いたように目を見開き、すぐに小さく笑った。
「助けられてるのは、私の方ですよ。」
「そうかな」
「そうですよ。……だって、私、ずっと独りだったから。」
アイリスは泉の水面を指先でなぞる。
水が波紋を描き、二人の姿を柔らかく揺らした。
「お父さんとお母さんが亡くなってから、何も信じられなくなって、生きていく意味も分からなくて。 でも、あなたと一緒に居ると……なんだか、また信じて、頑張って生きていこうと思えるんです」
レンは少しだけ目を細めた。
「信じるってのは、簡単じゃないさ。……俺も、何度か失敗してる」
「それでも、信じようとするのが大事なんですよ。」
アイリスはそう言って、青いペンダントを握った。
その光が、夕暮れの中でひときわ強く輝く。 レンはその光を見つめながら、心の奥で小さく呟いた。
――どうか彼女がこの光だけは、奪われないように。
――この人は、どうしていつも、こんな顔でいられるんだろう。
誰に憎まれようとも、罵られようとも、誰かのために笑うその背中は、どこまでも遠く、どこまでもまぶしかった。
レンが歩き出す。
アイリスも慌てて立ち上がり、その背を追った。
森の出口へと向かう二人の影が、朝の光に長く伸びる。
歩きながら、アイリスはそっと彼の背中を見つめた。その背には、かすかに焦げ跡のような古傷が残っている。
かつて世界を救い、そして世界から拒まれた男の痕跡。
――私には、何もできない。
――けど、せめてこの人がひとりにならないように、隣にいたい。
そう思うと、胸の奥が静かに熱を帯びた。
それは恋と呼ぶにはまだ遠く、けれど確かに、彼女を動かす温度を持っていた。
「レンさん」
呼びかけると、彼が振り返る。夕日が髪を照らし、目元に影を落とした。
「ん?」
「いえ……なんでも、ありません」
アイリスは、ほんの少しだけ笑ってみせた。
言葉にしてしまえば壊れてしまいそうな想いを、胸の奥深くに沈めながら。
――きっと、いつかこの人はまた走り出す。
――その時、私はその隣で、彼を支えていたい。
そう心の中で祈りながら、彼女は静かに泉を振り返った。
光の中で、最後の波紋がゆらりと広がり、やがて何もなかったように消えていった
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