第5話 聖女の崩壊(セリア視点)
鐘が、ひとつ鳴った。
大聖堂の奥、誰もいない祈祷室。 私の部屋に差し込む午後の光は穏やかで、今日もいつもと同じはずだった。
清めの水で手を洗い、聖印を胸に描き、神への言葉を口にする。 それが日課。 魔王討伐し、正式に大聖堂の聖女となった今も変わらず私を保ってきたこと。
――神よ、善なる人々を清め給え。
――神よ、天城レンという名の悪を滅ぼし給え。
その祈りを唱えながら、ふと指が止まった。
掌の感覚が、妙に温かい。 まるで――誰かの手を、強く握っていたような。
私の呼吸が、一瞬止まる。 頭の奥がざわりと揺れ、視界の端が霞む。
あの夜の焚き火。 私の手を、笑って掴んでくれた男の顔。
「大丈夫、セリア。君は俺が守る。」
――あれは、誰の声?
瞬間、心臓が爆ぜた。 記憶の堰が切れたように、過去の光景が雪崩れ込んでくる。
魔物に囲まれた森、雨の夜、祈りを失った私に差し出された手。 その男の顔。 ああ、私は知ってる。忘れちゃいけない。
それは――レン様。 天城レン…私の、勇者様。
なのに、私の口が震えながら否定する。
「違う、違うの……彼は裏切り者、彼は、彼は……!」
言葉が震えるたび、心の中で別の“私”が笑う。
――嘘だよ。あれはあなたがついた嘘でしょう?
――自分の口で、神の名を借りて。
「違うっ、違う……! 私は神の御心に――!」
両耳を塞ぐ。だが耳の奥で、あの日の“自分の声”がはっきり聞こえた。
「天城レンは魔王と結託しました!」
人々の歓声。拍手。賛美。それに応える私の笑顔。――笑っていた。
あの瞬間、魔王を倒し、レン様がどんな顔をしていたのかも思い出してしまう。
「……やめて、思い出したくない、やめてッ!」
指先が震え、椅子を蹴り倒す音が響いた。 蝋燭が転がり、机の上の聖典に火が移る。 焦げる紙の匂い。 そこに書かれた神の言葉が、燃えていく音がする。
「……神様、あなたは……なぜ……」
喉が焼ける。声が掠れる。 頭の中で、神の声が聞こえたような気がした――否、それは神ではない。 レン様の声。あの優しい声が、神の言葉を上書きしていく。
「大丈夫だよ、セリア。君はもう、大丈夫。」
それなのに。 それなのに、私は――
嗚咽が漏れた。 胃液が込みあがってくる。
気づけば膝を抱えて、床に座り込んでいる。 両手を強く握りしめすぎて、爪が掌に食い込む。
痛い。でも、痛くない。 もっと痛みが欲しい。これじゃ足りない。 この胸の奥でうねる罪の形を、何かで削ぎ落としたい。
「レン様……ごめんなさい、ごめんなさい……! どうして、どうして……!」
神の名を呼ぶ代わりに、レンの名ばかりを呼ぶ。
私の罪だとわかっていても、止められない。 喉が枯れ、涙が乾いても、まだ呼び続ける。
「あなたは光だったのに……どうして私、あのとき気づけなかったの……!」
「あなたがいなければ、私は生きられなかったのに……どうして。私が……私が見殺しに!」
「私、あの時……! あの手を、あの人の手を……!」
視界の中で、魔王に消し飛ばされたあの左腕が、今も私に伸ばされているように見えた。 助けを求める彼の声。 それを拒んだ自分。
何度も、何度もその場面が繰り返される。
「レン様は私に……助けを求めたのに……! 私は……見捨てた……!」
頭を抱える。髪が乱れる。 目の前の世界がぐるぐると回る。 自分の吐息が、嗚咽とも笑いともつかない音になる。 彼の名を呼びたいのに、声が出ない。
『君たちは、この世界の人たちは幸せに生きていける。だから――これでいいんだ』
その言葉を、今ようやく正しく聞いた。 彼は恨んでなどいなかった。 最後まで、私達を守っていた。
――なのに、私は……。
「レン様ぁぁああああああああああああああ!!!!!」
叫び声が、聖堂の壁を震わせた。
椅子を倒し、壁にすがりつく。 涙と鼻水と嗚咽で顔がぐちゃぐちゃになり、 それでも彼の名を呼ぶことをやめられない。
「ごめんなさい……っ、ごめんなさい、ごめんなさいごめんなさい……!」
「許して……もう、天罰でも何でもいい……! あなたの手を離した私を、殺してぇ……!」
聖女の象徴だった純白の法衣が、床に引きずられ、埃と涙で汚れていく。
焦げた聖典の匂いが鼻を刺す。 まるで自分の腐った心が燃える匂いのようだった。彼の声が、耳の奥で何度も響く。
『大丈夫だよ、セリア。君はもう大丈夫だ。』
その幻聴が優しすぎて、胸が裂ける。
「やめて……そんな優しい声で呼ばないで……! 私なんか――
けれど、どれだけ叩いても、レンの声は戻らない。 あの笑顔は、もうどこにもいない。 自分が信仰していた神の像が、今や醜く歪んで見える。
――くす、くすくす。
泣きながら笑う。笑いながら泣く。
声が止まらない。喉が震える。頭がぐらぐら揺れる。
「ふふ、ふふふ……ああ、レン様。私、あなたを裏切ったのね……」
「あなたは私を救ってくれたのに、私はあなたを殺したのね……」
「神様、私に罰を……もっと、もっと天罰を……!」
頬を爪で裂く。 血が滲む。
でも、その痛みが少しだけ“現実”を感じさせる。 自分がまだ息をしているという事実が、許せなかった。
「どうして生きてるの、私が……死ぬべきは、私だったのに……」
その時、焼けた聖典が崩れ落ち、灰が舞った。
光の粒が差し込み、灰の中で揺れる。 それがまるで、天から降る赦しのように見えて――セリアは狂った笑みを浮かべた。
「ふふ……きれい。……ねえ、レン様。見て、神様が赦してくださるって……」
赦しなんてない。赦してほしくもない。 でも、もう一度レン様に……
「……ねぇ、レン様。もしもう一度……会えるなら……私……今度は……ちゃんと、手を……伸ばすから……」
そう呟いた声は、嗚咽と共に途切れた。 白い光が彼女の涙を照らし、聖女の部屋に静寂が落ちる。 灰が頬に触れ、涙で泥のように溶けていく。 嗚咽と笑いが混じり合い、部屋の空気を狂気で満たしていく。
それは――かつて“聖女”と呼ばれた女の、壊れ落ちる音だった。
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