第9章 炎の兆し
朝遅い時間、海へ向かう途中、ナギはふと気付いた。
自分と逆方向へ、慌ただしく走っていく人がやけに多い。
その中の一人が叫んだ。
「火事だってよ!」
反射的に振り返る。
目を凝らすと、空に黒煙が昇っていた。
それは――あの時、エイルを送り届けた方角だった。
(まさか……!)
胸の奥がざわつく。
ナギは、咄嗟に駆け出していた。
ナギは黒煙の方角へと走り抜けた。
坂道を下り、橋を渡る。息が切れるほど全力で。
だが胸のざわつきの方が、呼吸の苦しさよりも勝っていた。
(お願いだ……無事でいてくれ)
やがて人だかりが見えてきた。
騒がしさと、熱を帯びた空気。焼けるような匂いが鼻をつく。
建物がひとつ、炎に包まれていた。赤い火柱が屋根から吹き上がっている。
「うわ、すげえな……」
「なんでも魔道器の暴発らしいぜ」
「住人は?」「逃げたらしいぞ」
耳に飛び込んできた断片的な言葉に、ナギは心臓を締めつけられたような感覚に襲われた。
(逃げた……本当か?)
彼は野次馬を押しのけるようにして前へ進んだ。
「おい、危ねぇぞ!」
誰かの制止の声が聞こえたが、ナギの足は止まらない。
焼け崩れた壁の向こうに、見覚えのある木製の看板が半ば焼け残っていた。
やはりここは、エイルの研究所だった。
消火リレー部隊に紛れて軍服の人間が何人か目につく。
普通の火事なら軍人など来ないはずだ。
(襲われたのか!?)
海での事故――あの時の小型船の残骸。
もし報告されていたとしたら、エイルが秘密裏に何を開発していたかまでバレていた可能性は高い。
(くそ!なぜ気づかなかったんだ!!)
だが――まだ希望はある。
住人は逃げたという噂。
軍人たちの慌ただしさ。
彼女が捕らえられた様子も、遺体も見えない。
(どこに逃げた……? まさか、あの洞窟か?)
そう思った瞬間、ナギは踵を返し、再び駆け出していた。
炎の熱と喧騒を背に、視線はすでに次の場所を見据えている。
「おい、そこの男! 止まれ!」
不意に背後から怒声。ナギは反射的に足を止めた。
振り返ると、軍服の男が二人、腰の剣に手をかけてじりじりと近づいてくる。
「本部、こちら第七部隊。怪しい男を発見。これより事情聴取する」
(まずい……!)
ここで足止めを食うわけにはいかない。
もしエイルが先に見つかれば、今度こそ――助けられない。
右手に広がる崖。そして海が視界に入る。
飛び込めば、誰にも止められない。
ナギの一瞬の視線を、軍人が見逃さなかった。
「……おい。妙な気は起こすなよ?」
ナギは無言で、もう一度海へ目をやった。
潮風が吹きつける。
崖はやや高いが、下が海である限り――
ナギにとっては、飛ぶだけの話だった。
あの洞窟に――エイルがいるはずだ。
軍人の一人が声を荒らげた。
「……おい、動くなって言ってんだぞ!」
もう一人も無線を握りしめ、応援を呼ぼうとしている。
(迷っている暇はない。止まってる時間もない――!)
ナギは、深く息を吸い込んだ。
そして、振り返らずに走り出す
「逃るぞ!追え!!」
そのまま、崖の縁を蹴って跳び上がり――
ナギの身体は、しぶきをあげて海中へと吸い込まれた。
軍人たちの叫びが遠ざかる。
だが、海の中では誰の声も届かない。
視界が青に染まる。
ナギは、迷いなく泳ぎだした。
陸にいる限り、何も守れない。
この力は、きっと――今、彼女を守るためにある。
「待ってろ、エイル……!」
ナギは海を裂くように、静かに、しかし猛る心で洞窟を目指した。
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