僕が猫としゃべれたら

あっくる

第1話 僕が猫としゃべれたら

ヨーロッパの小さな町。

石畳の通り沿いに建つ二階建ての家。

木枠の窓からは、やわらかな朝の光が差し込み、

埃を含んだ空気がゆっくりと揺れていた。


セオ・ウィンターガーデン(Theo Wintergarden)、十歳。

栗色の巻き毛と、緑に光る瞳が印象的な少年だ。


朝食を済ませると、いつものように二階の自室へ駆け上がる。

そこは静かで、空想と小さな発見が詰まった宝箱のような場所。

壁際には天体模型、窓辺には虫眼鏡。

そこから覗く庭の草花までも、セオの小さな世界を彩っていた。


ベッドの上では、小さな灰色の毛並みがびいどろのように光を受けて揺れている。

飼い猫の名前はアインシュタイン。

物理学の研究をしている父が、セオが捨て猫を拾ってきた日にその名をつけた。

“シュタイン”はドイツ語で「石」という意味だという。

あの日から、もう五年が経った。


昼間、アインシュタインは陽だまりで飽きることなく眠り、

夜になると決まってセオのベッドにやってきて、枕元で丸くなる。

まるで、「おやすみ」を言うみたいに。


セオには、友達とサッカーをするより好きなことがある。

庭で列をなす蟻を虫眼鏡で観察したり、

蜜を集めるミツバチを少し離れて眺めたり。

池に小石を投げて、広がる波紋をいつまでも見つめたり。


冬になれば、池に薄氷が張る。

セオは手のひらの大きさの石を投げ、どのくらいの力で氷が割れるかを確かめるのが好きだった。

その瞬間に生まれる音や光のきらめきが、

彼にとって世界とつながる合図のように感じられた。


もちろん、十歳のセオはそんなことを難しく考えてはいない。

ただ、自然を観察するのが心から好きな少年だった。


その夜もいつものように庭で遊んだあと、

夕食を終えると、二階の部屋で天体観測を始めた。

十歳の誕生日に、父が買ってくれた天体望遠鏡。

それは彼の宝物であり、星と自分を結ぶ魔法の道具でもあった。


望遠鏡を覗きながら、瞬く星をひとつずつ確かめる。

天文の本と照らし合わせながら、

星座の位置が少しずつ動いていく様をノートに書き留めていく。


アインシュタインはそんなセオのそばで、

ときに隣で静かに寄り添い、

ときにベッドの上からその様子を見守っていた。

セオのことを、ただの飼い主ではなく、友達だと思っていたのだ。


ある満月の夜のこと。

セオはいつものように望遠鏡を覗き、月のクレーターを観察していた。

そのとき――


「今日は月が綺麗だね」


どこからか、少年のような声がした。

父の声にしては高すぎる。

セオは部屋を見渡す。

誰もいない。

ただ、ベッドの上でアインシュタインが丸まっているだけだった。


「……空耳かな?」


もう一度、望遠鏡を覗こうとしたそのとき――


「セオ、ボクだよ。気づかないのかい?」


セオははっとして振り返る。

アインシュタインが、こちらを見て座っていた。


「アインシュタイン……? 君なのかい?」


猫は堂々と胸を張って言った。

「そうだよ。ボクだよ。やっと気づいてくれたね」


セオはあまりの驚きに、望遠鏡を倒しそうになる。

「ど、どうして喋れるようになったの?」


「前から話しかけていたさ。ずっとね。

ただ、セオには聞こえなかっただけだよ。

でも、そんなの人間はみんなそうだ。

ボクたちが話しても、鳴き声にしか聞こえないだろ?」


セオはベッドに腰を下ろし、アインシュタインを抱き上げて膝に乗せた。

「確かに、いつも“にゃあ”としか聞こえなかった。

でも、今はちゃんと話してる……夢じゃないの?」


アインシュタインは得意げに言った。

「満月の夜は特別なんだ。ときどき、こんなことが起きるのさ。面白いだろ?」


セオは呆然としながらも笑う。

「母さんに話したら信じてくれるかな……」


「無理だね」

アインシュタインは首を振る。

「昼間、試したんだ。セオのお母さんに“撫でて”って言ったら、ご飯が出てきたよ。

仕方なく少し食べたけどね」


その言葉に、セオは思い出す。

夕食のとき、母が言っていた。

「アインシュタインが鳴くから、ご飯をあげたのに、ほとんど食べなかったのよ」と。


セオは笑いながらも、胸の奥があたたかくなった。

そして、たくさんの質問をした。

「ご飯は美味しい?」「何かしたいことは?」「ぼくと一緒に寝るの、好き?」


アインシュタインは優しい声で一つひとつ答える。

「ご飯は美味しいよ。茹でた鶏肉が混ぜてあれば、もっと最高だけどね」

「セオのお父さんの書斎は、家でいちばん日当たりがいい。

あそこで昼寝したいな」


セオは困り顔で言った。

「父さんの部屋は入っちゃいけないんだ。

大事な研究書類があるからね。いつもの出窓で我慢してくれる?」


「仕方ないね」と、アインシュタインはため息をつき、

「でも、出窓も悪くないよ。あそこから見える景色、好きだし」と笑った。


セオは、前から気になっていたことを聞く。

「アインシュタインは、どうしてそんなに寝るの?

昼も夜も、ずっと眠ってるみたいだよ」


「それが猫の仕事さ」

アインシュタインは少し誇らしげに言った。

「ボクたちは一日12〜18時間は眠る。

浅い眠りが多いから、たくさん寝ないといけないのさ」


セオは納得したようにうなずく。

「そうだったんだね。安心したよ。じゃあ、これからもいっぱい寝て、夜は僕のそばにいてね」


アインシュタインは、柔らかく目を細めた。

「ボクはセオが大好きだよ。あの日、冷たい雨の中でボクを見つけてくれたときから、

ずっと。猫には人の心がわかるんだ。

セオが一生懸命お母さんを説得して、ボクを家に迎えてくれた日のこと、忘れないよ。

だから、毎晩一緒に寝るのさ。――もう寂しくないようにね」


セオの瞳に涙が溢れてアインシュタインを抱き寄せた。

「大好きだよ、アインシュタイン。ぼくの一生の友達でいてほしい。

いや、家族の一員になってほしい」


アインシュタインは目を輝かせて答えた。

「もちろん。喜んでその申し出を受け入れるよ。

セオ、ボクも君が大好きだ」


その翌日、嬉々として起きたセオがアインシュタインに話しかけると

アインシュタインは”にゃぁ”と鳴いた。

セオは驚いたように

「アインシュタイン…もう喋れないのかい」

”にゃぁ”と鳴く。

セオはガックリと肩を落としつつも、悲しみはそれ程感じなかった。

まるで夢を見ていたと思わせる夜だったとも思う。

本当は不思議な夢だったのかもしれない。


セオは、あの夜アインシュタインと語り合った時間を

心の中でそっと思い返しながら、やわらかく温かい手で彼を優しく撫でた。

アインシュタインは、心地よさそうに目を細めて微笑む。


* * *


ケンブリッジ大学のキャンパスは、初夏の風に包まれていた。

レンガ造りの研究棟の窓から、陽の光が白く反射している。

セオ・ウィンターガーデン、二十歳。

物理学科の学生として、粒子加速の研究室に所属していた。


その年、アインシュタインは虹の橋を渡った。

最後を看取ることができ、セオの頬に一筋の涙が伝う。


それからの数年間セオは増々研究に没頭していく。


実験室の片隅には、幼い頃から使い続けているノートがある。

表紙には小さく「Theo & Einstein」と書かれていた。

少年時代、猫のアインシュタインと過ごした日々の観察記録と、

初めてアインシュタインと話した満月の夜のことが書き綴られている。


講義を終え、研究室に戻ったセオは、加速器の数式をホワイトボードに書き込んでいた。

エネルギー、速度、そして時間。

光速に近づくほど、時間は伸びる。

その理屈を理解すればするほど、胸の奥で何かが疼く。


──「時間を、もう一度だけ巻き戻せたら」


セオは無意識に、ポケットの中の小さなペンダントを握りしめる。

中には、灰色の毛並みをした猫の写真。

アインシュタインが最後の冬の日、暖炉の前で丸まって眠る姿だ。


教授が部屋に入ってきて、ホワイトボードの数式を見つめる。

「ウィンターガーデン君、その式……“光の外側”を仮定しているのかね?」

セオは小さくうなずいた。

「はい。もし高次元における粒子の挙動を観測できれば、

 時間そのものの屈折を、理論的に説明できるかもしれません。」


教授は半ば呆れたように笑った。

「夢想家だな、君は」

だが、その声にはどこか温かみがあった。


夜になり、セオはひとり研究室に残って実験装置を見つめていた。

その時、どこからか声が聞こえた。

柔らかく、少し甘い響き。


「セオ、君はまだボクを追いかけているのかい?」


セオは振り返った。

誰もいない。

でも、わかっていた。

その声の主を。


「……アインシュタイン?」


風が窓をくぐり、ノートのページを一枚めくった。

そこには、幼い字でこう書かれていた。


──“ボクは時間を越えて、君とまた話すよ。”


セオは二十六歳で博士号を取得すると、そのまま大学の研究室に残り、研究に没頭していた。


行き詰まったときには、ポケットの小さなペンダントを開き、

胸を張って自信満々に立つアインシュタインの姿に勇気づけられたものだった。


時は流れ、セオは六十歳になった。

研究の合間に書き続けた論文は三十本を優に超え、

なかには「これが最後かもしれない」と思ったものもあった。

その論文では、高次元の粒子の挙動から、

わずかに時間を歪ませることができる可能性を発見した。


つまり、時空に小さなゆがみを作り、平たく言えば「過去に遡る」ことが

理論的に可能になるという内容だった。

翌年、この論文は科学誌『Science』の表紙を飾った。


セオが七十歳になったとき、彼は大学の特別顧問を務めていた。

たまに講義をしたり、研究室を覗いたりするゆったりとした日々を過ごしていたその年、

ついに、かつて最後だと思った論文がノーベル物理学賞に選ばれたのだった。


****


粉雪が降りしきるストックホルムの街。

白く霞む窓の外では、街灯の光がぼんやりと滲む。

その中で、セオ・ウィンターガーデンの肩にも、静かに雪が積もっていく——。


授賞式の歓声の中にあっても、セオの心はひとつの場所に帰ろうとしていた。

あの日、世界の不思議を教えてくれた灰色の瞳のもとへ――。


胸のポケットから小さなペンダントを取り出す。

そこには、かつて研究に迷った自分を勇気づけてくれたアインシュタインの姿があった。


「ありがとう、ずっと一緒にいてくれて」



授賞式が終わり、晩秋のストックホルムには細い雪が舞っていた。

ホールに響いた拍手の余韻を胸に、彼は静かにホテルの部屋へ戻る。

部屋の明かりを落とし、鞄から一枚の小さな写真立てを取り出した。

そこには、若き日の彼と、灰色の猫――アインシュタインが寄り添う姿。

どちらもあの頃のまま、やわらかい光の中にいた。


机の上には、金色のメダルが置かれている。

手に取ると、冷たい金属の感触が指先に伝わる。

そして、彼は微笑みながら呟いた。


「……やっと、君に少しだけ近づけた気がするよ」


そっとメダルを猫の写真の前に置く。

窓の外では雪がやみ、夜空の雲の切れ間から、淡い光が差し込んでいた。

それは虹のようにも見えた。


彼は椅子に腰を下ろし、深く息を吸う。

幼い日の記憶が、音もなくよみがえる。

あの声――「世界は、目に見えない糸でつながっているんだよ」――。


彼は目を閉じ、かすかに笑った。

風の音の中で、どこか遠くから“にゃあ”という小さな声が聞こえた気がした。

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