【一.二〇二五年八月三十一日】

【一.河野 彩】

 太古の昔、王国は光に満ちていた。

 女王によって祝福され、人びとは幸福を謳歌していた。

 母なる太陽の光は、國にひと欠片の影を作らない程であった。


 外界の人間は女王の王国を、影のない國と呼んだ。



 二〇二五年八月三十一日午前八時六分。

 東京都杉並区。住宅街の細い市道。一方通行の出口。

 熱帯夜が明けた、暑い一日の始まり。


「はっ、はっ」


 赤の原動機付自転車が倒れている。ヘッドランプが割れ、サイドミラーが曲がってしまっている。

 彼女の三メートル先で、電動アシスト自転車が、からからと後輪を空転させている。


 二十七歳。ワンレングスの髪、ボーイッシュなチェックのシャツにジーンズのルックス。

 埼玉の朝霞市に住む、彼女の無二の親友──仲間、若しくは恋人とも言えた──の家に向かう途中であった。


 河野彩がズレた青の半ヘルメットから『現場』を見た時。頭を強く打ったのだろう、既に被害者の六十代の男性は、大きく広がった血溜まりの中でもう動いてはいないようであった。


 交通法上は、彼女は悪くない。一時停止の前で止まろうとしていた。男性が、自宅であろう敷地から飛び出してきたのである。ブレーキが、どういうわけか利かなかった。


「いっ……たたた」


 違和感を感じて、次に自らの左腕に目をやる。

 ぐにゃりとあらぬ方向に曲がり、白地にオレンジのシャツは、真っ赤に染まっている。


「は……はあっ、はああっ!」


 彼女は、声にならない悲鳴を上げて後ずさった。

 無事だった右手に、夏の熱気で加熱されたアスファルトの熱さが伝う。


「大丈夫? 救急車をいま呼びますからね」


 近くにいたおばさんが覗き込みながらスマホをタップしている。

 既に数人の通行人が、彩と、巻き込まれた男性を取り囲み初めていた。


 だが。


 彼女の背筋が凍る。


 跳ねた男性が亡くなってしまっているかもしれないからだ。


 より正確に言うと、かもしれないということだった。



 しゃんっ。


 どこかで鈴の音がした。猫の首輪に付いているそれではない。神事に使う、神楽鈴のような音だ。


 ──いや、いやだ。死にたくない、死にたくない。


 彼女は必死に音の出どころを目配せした。


 日曜日の朝の住宅街だ。祭事の鈴の音なんてするはずがない。

 それにこの音は、聞いたことがある。


 忘れるはずがない。


『お母さん。お母さん、どこ』


 彩は四歳から施設で育った。母親が消えてしまったからだ。

 男を作って蒸発したわけではない。文字通り『ある日こつ然と』姿を見せなくなってしまったのだ。


 街中を探した。

 お母さん、お母さん、何度も呼びながら。


 けれど神楽鈴の音が終始聞こえる事以外、彼女が何かを知ることはなかった。



 しゃんっ。


 何度目かに鳴った時、集まった人だかりの向こう、三十メートルほど先に、彼女は『影』を見つけた。見つけてしまった。


 真っ黒な着物。金の刺しゅうでなにかの模様が描いてある。一瞬だから分からなかったけれど。

 右手に小刀。左手に神楽鈴。そして。


 顔には黒い布の面。


 ──いましにあずけたるわがみこ。


 漆黒よりも黒く、引きずるように長い髪をおろして、こちらに近づいて来ている。


「ああわあ、いやああ」


 言葉にならない恐怖を、震える口から漏らすと、彼女は跳ね上がるように立ち上がり、痛む左腕を抱え、群衆をかき分けて走り出した。


 ちょっとお姉さん!


 119番をしてくれているおばさんが叫ぶ。

 けれどもう彼女の耳には鈴の音しか聞こえてはいなかった。


 恐るべきことに、折れた腕よりもっと痛むのだ。

 首筋が。


 かのように。



 どのくらい走っただろうか。

 一時間走ったのか、数分しか走ってないのか。


 首筋からの脈動するたび発する激痛に、顔をゆがめながら。


 もう一歩も走ることは出来ないくらいに消耗して、彼女はどこかの小さなクリニックの──日曜日、それも早朝だから閉まっている──玄関の自動ドアの前で倒れ込んだ。

 ありま内科、とひらがなで書いてある。


「ああっ、あああああっ」


 恐怖と痛みに身を捩らせた。

 神楽鈴の音は、もうすぐそばまで迫っている。


「開けて、開けてえっ」


 彼女は病院のガラス戸を懸命に叩いたが、無人の病院からは無論返事はない。

 高円寺駅の近くにいるらしく、通行人の数は増えていた。


「大丈夫ですか」


 親切な青年が声をかける。

 けれど、もう彼女の耳には入らない。


「いたい、いたいいたいいたい」


 彼女は轢かれた猫のようにジタバタと手足をバタつかせた。


「大丈夫ですか」


 そしてその手を払うべく青年を見た時──。

 あの、黒い布面の女が、そこに立っていた。


「あ」


 ──いまぞあめにかへさむ。


 女は、罪深い彼女の後頭部に向かって、鋭く光る小刀を振り下ろした。


「古藤さん──っ」



 河野彩は、絶命した。


 手を伸ばしてくれた優しい青年の目の前で。

首筋が大きく裂けて、シャツを破いて。


 大きく見開かれた目には、死への恐怖が深く抉るように刻まれていた。


 だが、彼女の死は始まりではない。

 かつて『くもの民』と呼ばれた一族の末裔の。


 連綿と続く死の連鎖の、ほんの一幕に過ぎない。

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