【一.二〇二五年八月三十一日】
【一.河野 彩】
太古の昔、王国は光に満ちていた。
女王によって祝福され、人びとは幸福を謳歌していた。
母なる太陽の光は、國にひと欠片の影を作らない程であった。
外界の人間は女王の王国を、影のない國と呼んだ。
◇
二〇二五年八月三十一日午前八時六分。
東京都杉並区。住宅街の細い市道。一方通行の出口。
熱帯夜が明けた、暑い一日の始まり。
「はっ、はっ」
赤の原動機付自転車が倒れている。ヘッドランプが割れ、サイドミラーが曲がってしまっている。
彼女の三メートル先で、電動アシスト自転車が、からからと後輪を空転させている。
二十七歳。ワンレングスの髪、ボーイッシュなチェックのシャツにジーンズのルックス。
埼玉の朝霞市に住む、彼女の無二の親友──仲間、若しくは恋人とも言えた──の家に向かう途中であった。
河野彩がズレた青の半ヘルメットから『現場』を見た時。頭を強く打ったのだろう、既に被害者の六十代の男性は、大きく広がった血溜まりの中でもう動いてはいないようであった。
交通法上は、彼女は悪くない。一時停止の前で止まろうとしていた。男性が、自宅であろう敷地から飛び出してきたのである。ブレーキが、どういうわけか利かなかった。
「いっ……たたた」
違和感を感じて、次に自らの左腕に目をやる。
ぐにゃりとあらぬ方向に曲がり、白地にオレンジのシャツは、真っ赤に染まっている。
「は……はあっ、はああっ!」
彼女は、声にならない悲鳴を上げて後ずさった。
無事だった右手に、夏の熱気で加熱されたアスファルトの熱さが伝う。
「大丈夫? 救急車をいま呼びますからね」
近くにいたおばさんが覗き込みながらスマホをタップしている。
既に数人の通行人が、彩と、巻き込まれた男性を取り囲み初めていた。
だが。
彼女の背筋が凍る。
跳ねた男性が亡くなってしまっているかもしれないからだ。
より正確に言うと、命を奪ってしまったかもしれないということだった。
◇
しゃんっ。
どこかで鈴の音がした。猫の首輪に付いているそれではない。神事に使う、神楽鈴のような音だ。
──いや、いやだ。死にたくない、死にたくない。
彼女は必死に音の出どころを目配せした。
日曜日の朝の住宅街だ。祭事の鈴の音なんてするはずがない。
それにこの音は、聞いたことがある。
忘れるはずがない。
『お母さん。お母さん、どこ』
彩は四歳から施設で育った。母親が消えてしまったからだ。
男を作って蒸発したわけではない。文字通り『ある日こつ然と』姿を見せなくなってしまったのだ。
街中を探した。
お母さん、お母さん、何度も呼びながら。
けれど神楽鈴の音が終始聞こえる事以外、彼女が何かを知ることはなかった。
◇
しゃんっ。
何度目かに鳴った時、集まった人だかりの向こう、三十メートルほど先に、彼女は『影』を見つけた。見つけてしまった。
真っ黒な着物。金の刺しゅうでなにかの模様が描いてある。一瞬だから分からなかったけれど。
右手に小刀。左手に神楽鈴。そして。
顔には黒い布の面。
──いましにあずけたるわがみこ。
漆黒よりも黒く、引きずるように長い髪をおろして、こちらに近づいて来ている。
「ああわあ、いやああ」
言葉にならない恐怖を、震える口から漏らすと、彼女は跳ね上がるように立ち上がり、痛む左腕を抱え、群衆をかき分けて走り出した。
ちょっとお姉さん!
119番をしてくれているおばさんが叫ぶ。
けれどもう彼女の耳には鈴の音しか聞こえてはいなかった。
恐るべきことに、折れた腕よりもっと痛むのだ。
首筋が。
まるで何かに噛まれているかのように。
◇
どのくらい走っただろうか。
一時間走ったのか、数分しか走ってないのか。
首筋からの脈動するたび発する激痛に、顔をゆがめながら。
もう一歩も走ることは出来ないくらいに消耗して、彼女はどこかの小さなクリニックの──日曜日、それも早朝だから閉まっている──玄関の自動ドアの前で倒れ込んだ。
ありま内科、とひらがなで書いてある。
「ああっ、あああああっ」
恐怖と痛みに身を捩らせた。
神楽鈴の音は、もうすぐそばまで迫っている。
「開けて、開けてえっ」
彼女は病院のガラス戸を懸命に叩いたが、無人の病院からは無論返事はない。
高円寺駅の近くにいるらしく、通行人の数は増えていた。
「大丈夫ですか」
親切な青年が声をかける。
けれど、もう彼女の耳には入らない。
「いたい、いたいいたいいたい」
彼女は轢かれた猫のようにジタバタと手足をバタつかせた。
「大丈夫ですか」
そしてその手を払うべく青年を見た時──。
あの、黒い布面の女が、そこに立っていた。
「あ」
──いまぞあめにかへさむ。
女は、罪深い彼女の後頭部に向かって、鋭く光る小刀を振り下ろした。
「古藤さん──っ」
◇
河野彩は、絶命した。
手を伸ばしてくれた優しい青年の目の前で。
ひとりでに首筋が大きく裂けて、シャツを破いて。
大きく見開かれた目には、死への恐怖が深く抉るように刻まれていた。
だが、彼女の死は始まりではない。
かつて『くもの民』と呼ばれた一族の末裔の。
連綿と続く死の連鎖の、ほんの一幕に過ぎない。
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